月と影
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その神社の境内で首吊りがあったのは何度目だったろうか?
町内から外れた静かな環境が好まれたのか、あの世に一番近いと思われたせいだろうか?
いやいや、あの松の、いかにも首を吊ってごらんなさいという枝振りのせいだ、というのが近所のもののもっぱらの噂だった。
確かに、その松の枝ぶりときたら、まるで芝居のかきわりのように見事で、人がぶらさがっていないのがいっそ寂しく思えるほどだった。
神主は閉口していた。首吊り死体というのは思うより周りを汚すものだ。死体をおろすのは岡っ引きがやるとしても、掃除は自分でしなければならない。それに同心や岡っ引きが死体をホトケ、ホトケと呼ぶことも気にくわない。仏なら寺の管轄だろうが。
それにしても、と神主は腕組みして松を見上げた。
まったくこの松の枝振りときたら!
町のものの噂じゃないが、首吊りを誘うかのような見事さだ。
神主はしばらく考え込んでいたが、やがて決意した。
もう二度とこの松の枝で首はつらせないぞ。
■
さすがに何人もの首を支えてきただけあって、松の枝を切るのは骨が折れた。
神主は休み休み作業を進め、日差しがかなり長くなった頃にようやく、枝を切り落とした。
そこへ声をかけてきたものがいた。
「………もし」
振り向いた神主はそこにほっそりとした女の姿を見た。髪のしつらえや着物から、素人女ではないようだ。切れ長の目の色気のある女だ。
「あの、実はお願いが」
女は神主に近づくと、両の手をあわせて小首をかしげた。
「その松の枝をいただけないでしょうか?」
「この枝を? あんたこれがどういう枝か、ご存知か?」
「ええ、今朝首吊りがあった枝でしょう? 実はあの首吊りと縁がございまして」
女は悲しげに地面に目を落とした。
「あの人は死んでしまって死体も葬式もあの人のおうちでやっちまいます。だからせめてその枝をあの人だと思って供養してやりたいんです」
女の言葉に神主は彼女の立場を知った。あの死体、ただの情けない男かと思っていたら、そっちの甲斐性はあったらしい。この女は浮気相手か。
「お願いします。なんでしたらお布施として些少なりとも」
「いやいやいや、私もこの枝をどうしようかと考えていたところでね。あんたが供養してくれるならそれにこしたことはない」
神主は枝を女に差し出した。
「かなり重いが大丈夫かね?」
「はい………ありがとうございます。このご恩は一生忘れません」
女はくるりと振り返り、枝を抱えて走っていった。着物の下から赤い湯文字が跳ね上がり、真っ白な足にまるで血がしぶいたように見えた。
それから二、三日もした頃。
神主は習慣になっている朝の掃除をはじめようとした。
境内におりると見慣れない人物がいた。
松の木の下で、今はない、あの見事な枝のあたりを見上げている。
背に大きな箱を紫色の風呂敷で背負っている。着ているものは黒に近い藍で、尻をはしょって帯にはさんでいた。手甲に脚絆、見た目には旅の行商人のように見える。
神主は箒を抱いてその人物に近づいた。遠目では男か女かもわからなかった。ほっそりとした姿は女にも見えたが、肩の線は男のそれであった。
「もし」
神主は思い切って声をかけた。それにゆっくりとその人物が振り向いた。白いなめらかな頬をした男で、役者にでもしたいようないい男だった。だがその顔はやや眠たげに見えた。
「なにか、当社にご用ですかな」
もしくはその松に。
まさか首を吊ろうとしてわざわざ噂に高い松を見に来たということはないだろうな。
「………この松の枝、お切りになりましたかい?」
声もやはり眠そうだった。
「ああ、ついこないだ切ってしまったよ」
「左様でございますか」
男はまた松を見上げた。旅人風情の割りには肌の色が白いな、と神主は思った。
「その伐られた松の枝はどうされたのですか?」
男は神主の方にその眠たげな目を向けた。せっかくくっきりとした二重まぶたをしているのに、それが半分ほど目を覆っている。
「松は―――枝は―――、はてどうだったろうな」
なんだか責められているような気がして神主はそわそわした。
「ええっと―――あれは確か……そうそう、女だ。女にやったのだ。ここで首吊りがあって、その縁者だという女にな」
「ほう、それはそれは」
男はふにゃりと唇を曲げた。
「どこの女かお聞きになりましたか?」
「いや、だが素人じゃあないだろうな………だがなぜそんなに松のことを気にするのだ。まさかお前さんも首を吊りたいとかいうんじゃないだろうな」
「まさか」
男はこんどははっきりと笑みを見せた。雰囲気が柔らかくなり、神主はいささかほっとした。
「ただね、この松が首縊りの松として有名だと言うじゃありませんか。あたしはその首がぶらさがった枝が欲しかったんですよ」
「なんのためにだね。あんたもあの首吊りの縁者なのかね」
「いえいえ」
男は手を振って、それから背中の荷物を神主に見せた。
「あたしは旅の薬師でしてね。そういう木はいい材料になるんです」
「松の枝が薬になるなど聞いたことがないぞ」
「ええ。ただの松ではね」
男は意味深に笑った。
「首をつった木というのは、人の命のあがきが染み込んでいる。首を吊らなきゃならなくなった人間の最後の恨み苦しみ悲しみ怒り……そういったものを吸い込んでいるんでさぁ。
そんな木は使い方によっては呪術の道具になったり、人でないものを御することができるんです」
とぼけたことを言う。神主は箒の柄を握り締めた。
「なんと罰当たりなことを。あんたはそんな恐ろしいものを商っているというのか」
その言葉に男は背中の大きな箱を背負いなおし、呟くように答えた。
「……恐ろしいのはね、そういうものを商いのために使わない人間の方ですよ」
■
その夜は雲のない夜だった。
ずいぶんと月の輝く夜で星すらもその光の前に姿を消していた。月はぎらぎらと白く硬い光を町の屋根や路上に投げかけていた。
女は足早に石が光を跳ね返す道を歩いていた。寒いのか襟元をきつく押さえ、うつむき加減で夜気を切っていく。
やがて女はある商家の前にやってきた。
こわばった顔で商家の看板を見上げる。
ぎゅっとかみ締められていた唇から息が漏れ、それが思いもかけず甲高い笛のような音になって、女はあわてて手で口を覆った。
その時、女の手から落ちたものがあった。
「あっ」
女はあわてて腰をかがめ、それを拾い上げた。
それは木でできた人形だった。
人形と言っても顔と胴体だけの雑な造りのものだ。しかしよく見れば頭には髪を結い、目鼻も彫りこんである。見た目に女であるということがわかる辺り、丹念に彫ったものだろう。
女はしばらくそれを見つめていた。見ているうちに女の表情が変わってきた。きりきりと眉が吊りあがり、目に剣が出て、鼻にみにくいしわができた。
女は荒い息を吐きながらその人形を握り締めていた。腕がぶるぶると震え、どれほどの力でそれを握り締めているのか、今にも人形は砕けそうだった。
やがて女は懐の中から短い竹の棒を取り出した。先端を尖らせたもので、それを踏み固められた固い地面に突き立てる。
何度か擦るように地面をえぐると、ようやく少し土が掘り返された。
女はそれに勢いを得、さらに地面の穴を大きくしようとした。
「………そいつを渡しちゃもらえませんかね」
不意に低い声がかけられ、女は心の臓が止まるほどに驚いた。
引きつった息をこぼしながら振り返ると、黒い男がひっそりと佇んでいた。明るい月に照らされてその姿はまるで影のように見える。
「人が首を吊り、その苦しみ、恨みを飲んだ枝をヒトガタに変えて……姐さん、いったいなにをしようというんですかい」
「お、お前」
女は人形を持って立ち上がった。
「な、なにを、なにを言ってるんだい」
男の顔は影になり、少しも見えない。女はその見えない顔を睨み付けた。
「そのヒトガタで」
男はまっすぐに女の抱く人形を指差した。
「誰を呪う」
「ひいっ!」
女は叫んで顔を覆った。自分がしようとしていることへの恐れより、呪い(まじない)が見知らぬ男に目撃され、果たせぬまま終わってしまうことへの絶望の方が大きかった。
「‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥‥」
どのくらいそうしていただろう。
額を冷たい風が撫でて、女はおそるおそる手を顔から離した。
白く固い地面の上にあの黒衣の男はいなかった。
女はきょろきょろとあたりを見回した。西にも東にも人の姿はなかった。
「………」
まるで夢でもみていたようだ。
自分の後ろめたさが影となり現れたのだろうか。
でなければこの人形が、あの首吊りの松の枝を削って作ったものだということなど、わかるはずがない。
女はこわばった指を伸ばして竹の棒を握った。
(やるんだ)
地面に穴を掘り始める。
(やるんだ、やるんだ。ここでやめたらあたしはなんのためにこの日まで待ったんだか)
やがて人の頭が入るほどの穴が地面に開いた。女はそこに拳大の石を置き、その上に人形を仰向けに置いた。人形の胴体には墨で黒々と名前が書いてある。
おゆみ、と。
「‥‥‥‥‥」
女は震える息を吐き出した。そしてもうひとつめ石を持ち上げてその石を人形の上に叩きつけた。
ぱき。
人形の首が石の上で折れた。
女は急いで土をかけ、両手で強くそれを叩いてならした。パンパンと執拗に地面を叩き、撫で、摩り、元の地面と見分けがつかなくなるまで。
冷たい夜の中で女は額に汗をかいていた。大汗はぽたぽたと地面に落ちた。
やがて女はゆらりと立ち上がり、もう一度商家の屋号と雨戸を見つめた。
「これで」
女は呟いた。
「これで望みが叶う。これで」
唇が弓の形に吊りあがった。
「これであの人はあたしのものだ」
◆
町ではちょいと知られたお茶問屋のお内儀が死んだのは年の暮れだった。夜中、急にのどをかきむしり、血を吐いて死んだと言う。死体の首は妙に伸びていて、まるで首吊りでもしたようだったと見たものは言った。
その旦那が後添えを貰ったのはかっきり三ヵ月後、桜には早い、梅には遅い、冬物を仕舞おうかどうしようかと迷うような、そんな中途半端な時期だった。
新しいお内儀は元は水茶屋で働いていたという女で、女房が生きていた時分から、旦那が足繁く通ったなじみの女でもあった。
もっとも女房の急死ということでもなければ、旦那が女を後添えにするということはなかったかもしれない。
新しいお内儀は水茶屋でも働き者であったので、一日中店の中でくるくるとよく働いた。
店の誰かれにもやさしく明るく分け隔てなく、どんなことを言われてもにこにことして、また派手でもなく、かといってしわいやでもなく、いつもこぎれいにしていたので評判はよかった。
夫婦仲も円満だった。
ほどなくして夫婦は新しい子供をさずかった。
前のお内儀との子供はもう成人していて番頭見習いとして店に出ていた。新しい子供は女の子だったので店の相続で争うことも無く、年取ってからできた子供だけに旦那はなめるようにその子をかわいがった。
元水茶屋の女は幸せだった。
惚れた男、かわいい子供、安定した家庭、お茶問屋のお内儀さんとして店の内からも外からも頭を下げられる日々。
ああ、ほんとうに幸せだった。
ただお内儀は月の夜を怖がった。お月様がぎらぎらと皿のように丸く輝いている夜は、障子を閉めて外を見なかった。
月を見るとなにやら不安になり胸が苦しくなるのだという。
何故なのか、お内儀にもわからなかった。
何か大事なことを忘れているような、何か恐ろしいことを思い出すような、そんな気がして落ち着かなくなるのだ。
娘はすくすくと育ち、やがてかたことで話すようになり歩くようになった。お内儀も旦那も娘をかわいがり、娘のねだるものは何でも与えた。
娘は女の子らしく人形が大好きだった。娘は父や母や祖父母からもらったたくさんの人形に囲まれていた。
ある日、お内儀が部屋で針仕事をしていると、外で呼ぶものがいた。出てみると娘の世話を任せているねえやであった。
ねえやは青い顔で「お嬢様のことでちょっと」と手招いた。
お内儀がねえやにつれられて庭が見える縁側に出てみると、そこできやっきや、きやっきやと笑いながら娘が遊んでいた。その姿を見てお内儀は息が止まった。
娘は松の木の下で笑っていた。その松の枝には娘の人形たちが首を紐で吊られてぶらさがっていたのだ。
「だ、だれがこんなことを」
「お嬢様です。お嬢様がおひとりで」
「嘘おっしゃい! あの子にあの枝が届くものですか!」
だが見ていて謎が解けた。娘は人形の首に長い紐をまくと、その紐の端を松の枝に放り投げた。紐が松の枝を超え下にたれさがると娘はその紐をひっぱり人形を上へ引き上げた。それからその紐を松の木の幹に結びつけるのだ。
お内儀は裸足のまま庭に駆け下りると娘の頬を張った。
娘は火がついたように泣き出した。
お内儀はねえやに命じて人形を下におろさせた。
腕の中で泣く熱い子供の体を抱きしめながら、お内儀はぶるぶると震えていた。
娘はひどくしかられたためか、人形を木につるすという遊びをすることはなくなった。
しかし、再びねえやがお内儀のところに駆け込んできた。
お嬢様がまた怖い遊びをしている、と。
お内儀が庭へいくと、娘は地面にしやがみこんでいた。
そして地面の上に石を置き、その上に人形を置いて、その首を石で叩いているのだ。
「やめなさい!」
お内儀は人形をとりあげた。
「どうして!」
娘は泣きながら声をはりあげた。
「お人形さんがかわいそうでしょう!」
「かわいそうなのはお人形さんだけなの?」
娘は低く、ささやくように言った。
お内儀の手から人形が落ちた。
ある晩のことだった。
娘が寝付かずぐずぐずと泣き始めた。お内儀は抱き上げてあやしていたが、娘は外に出たいとぐずった。娘に甘い父親は外へ連れて行っておやりと言ったが、お内儀は迷っていた。月がでているかもしれない………
そんな女房に旦那は笑いながら言った。
今日は曇っていて月も星も見えないよ、と。
お内儀はそれで安心して外へ出た。
外は旦那の言うように曇っていた。お内儀は娘を抱いて庭を歩いた。
やがて額をすうすうと風が吹いた。その途端、足元が白くなった。風が雲を散らし、月が姿を見せたのだ。お内儀は思わず空を見上げた。
そこにはぎらぎらと輝く月があった。どこまでも広くとりとめなく輝く月が。
「………こんな夜だったな」
腕の中で低い声がした。お内儀は抱いていた娘を見た。
悲鳴を上げた。
そこにいたのは口から血を吐いている前のお内儀の恨めしそうな顔だった。
◆
「ひいいいいいっ!」
女は悲鳴を上げて顔を覆い、しゃがみこんだ。
足の先から全身の血を失ったように体中が冷えてガクガクと震えた。
「枝を渡してもらいましょうか」
不意に頭の中に声が突き刺さった。はっとして顔を上げると自分は夜の中にいる。そして冷たく固い地面の上には、あの黒衣の男がいた。
「ええっ?!」
女は叫んであたりを見回した。そこは大通りの商家の前で、自分はその前にしゃがんでいるのだ。地面には半端に掘った穴と、木で出来た人形があった。
「そんな、あれは、今までのは」
「夢ですよ」
男が近づいてきて言った。月の光が男の髪を透かしてきらきらと輝いている。
「それは夢です」
「夢」
「人が裁けぬ罪は、罪を犯した自分の心だけが裁く。罪の意識はあんたの心の底に黒々と根を張る。そう松の根のように」
「夢………」
女は繰り返した。
あの幸せが全て夢。夫の笑顔、お茶の香り、回りの人々の賞賛、いまだに生々しく思い起こされるのに。
しかし同時に、腕に抱いた、死んだ女の顔をした娘の体の重みも思い出して、女はぶるりと体を震わせた。
「この呪法が成就したとしても、あたしがそれを覚えている限り、幸せにはなれないと言うのかい………」
「あんたがどんな夢を見たのか、俺は知りませんがね………」
男はゆっくりと女の目の前にしゃがみこんだ。男が人形のようにきれいに整った顔をしていることに女はこの時気づいた。
「それはあんたの罪の形だ」
男は手を差し出した。伸ばして奪うこともできるだろうに男はただ辛抱強く、女がそれを渡すのを待っている。
女はうつむいて穴から人形を拾い上げた。
「あたしは、幸せになりたいだけだ」
「………………」
「あの女が死なないとあたしはしあわせになれない」
「………………」
「あたしは」
「あたしは幸せになりたい」
女は泣きながら人形を男の手のひらに落とした。白い、作り物のような手のひらに。
「どうも」
男は何の感慨も含まないような声で言うと、ゆらりと立ち上がった。
「これは俺がうまく使いますよ───少なくとも人は呪わない」
女は応えずにぽたぽたと涙を落とし、地面を濡らしている。男はそんな女にちらりと視線を向けた後、空を見上げた。
「御覧なさい」
男の声に女は顔を上げ、男を見、それから男の視線を追って空を見上げた。空には丸く白い月が柔らかな光を投げかけていた。さっきまでギラギラと怖いくらいに冷たい光だと思っていたのに。
「………きれいな月ですね」
男の声が優しく胸に入ってきた。
ああ、ほんとうに。
女は月に見惚れた。そして夢の中で自分はこの月を恐れ、長い長い間夜空を見上げなかったことを思い出した。
月の光を面に受けて、夜空を見上げることのできる幸せ―――
こんなことで。
女の目に新しい涙が浮かんだ。
こんなことで人は幸せになれるのだ。
「あんた―――」
女は男に呼びかけた。去ろうとしていた男はその声に足を止め、肩越しに振り向いた。
「あんた、誰だい? あんたは月の精かい? 神様なのかい?」
男はひっそり笑った。遠目なのにその笑顔は女の心の中に沈んだ。
「ただの 旅の薬師 ですよ」




