第9話 嘘つきの舌が焼かれる日
再審は、処刑停止から三日後に行われた。
今度の法廷は、あの形ばかりの裁判とは違った。傍聴席は市民で埋まり、裁判官も国王が指名した三名。公正な場が、ようやく整った。
「被告人リーネ・アルヴェーンに対する毒殺未遂の件について、再審を開廷する」
傍聴席にマルタさんの顔が見えた。目が合うと、大きく頷いてくれた。その隣には、町の常連客たちの姿もある。
クルトが、私のすぐ後ろに立っていた。振り返らなくても、気配で分かる。
フリードリヒ元会長が証人として立ち、鑑定報告書の矛盾を専門的に証言した。
「報告書に記載された毒物と、実際の症状には明らかな乖離があります」
「具体的に説明していただけますか」
「記載された毒物はトリカブト系の即効性のものです。摂取後、通常は十分以内に激しい嘔吐と痙攣が起きます」
「しかし——」
「しかし、王太子殿下の症状記録を見ると、食後六時間経過してから軽い腹痛が発症しています。トリカブト系ではあり得ない経過です」
「つまり?」
「実際に使用されたのは、報告書に記載されたものとは別の——おそらく遅効性の腹痛を引き起こす程度の薬物です。そして、報告書はより重大な毒物に書き換えられた」
法廷が静まり返った。
「これは、鑑定そのものが信用できないことを意味します」
「鑑定士本人の証言は得られますか」
「はい。シュトルム氏を証人として申請します」
鑑定士シュトルムが呼び出された。蒼白な顔で証言台に立ち、問い詰められた末に告白した。
「……ヴァルター理事から、報告書の内容を書き換えるよう指示されました」
「具体的にどのような指示でしたか」
「検出された物質を、より毒性の強い別の物質に差し替えるようにと」
「なぜ従ったのですか」
「理事に逆らえば、鑑定士としての資格を剥奪されると脅されました」
法廷がざわめいた。
次にゲオルクが証言台に立った。うつむいたまま。
「ヴァルターに命じられて、食材に微量の毒を混入しました」
「殺すつもりだったのですか」
「体調を崩させる程度の量だと聞かされていた。それでリーネが犯人に仕立てられることも……薄々、分かっていました」
「なぜ従ったのですか」
「ヴァルター理事に逆らえば、料理人としての地位を失う。それが怖かった。それだけです」
権威に屈した男の、惨めな告白だった。
私は、彼を憎めなかった。
ゲオルクは宮廷にいた頃、私に料理の基本を教えてくれたこともある。肉の焼き方、ソースの濃度、盛り付けの美学。厳しかったが、的確だった。
あの人は本来、真面目な料理人だったのだ。ただ、権威という圧力の前で、料理人としての矜持を守れなかった。
恐怖に負けた弱さは、責められるべきかもしれない。でも、その弱さを正直に認めたことに対しては、敬意を払いたいと思った。
次に呼ばれたのは、ヴァルター理事だった。
「証拠は捏造だ。元会長の私怨だ」
最後まで否認を続けた。けれど、もはや彼の言葉を信じる者はいなかった。
裁判官が判決を読み上げた。
「リーネ・アルヴェーン。毒殺未遂の罪については、新たな証拠により無罪とする」
傍聴席から歓声が上がった。
「ヴァルター・レーゼンタール。証拠隠滅および偽証教唆の罪により、爵位剥奪および禁固刑に処す」
「ゲオルク。毒物混入の罪により、料理人資格の永久剥奪および禁固刑に処す。ただし、自白および協力により、刑期は減軽する」
ヴァルターが連行される際、その顔は無表情だった。最後まで、自分が間違っていたとは認めなかった。
ヴィクトリアは傍聴席の隅で、声もなく泣いていた。
王太子は——いなかった。法廷に姿を見せなかった。最後まで。
◇
法廷を出ると、マルタさんが泣きながら駆け寄ってきた。
「リーネちゃん! よかった、本当によかった!」
「マルタさん……ありがとうございます」
「何言ってるの。あなたの料理が全部始めたのよ」
「いいえ。マルタさんが最初に食べてくれなかったら、何も始まっていませんでした」
「もう、泣かせないでよ……」
「マルタさんこそ泣いてるじゃないですか」
「うるさいわよ。嬉し泣きよ、これは」
マルタさんの目からぽろぽろと涙がこぼれた。もらい泣きしそうになって、慌てて空を見上げた。
町の常連客たちが次々と声をかけてくれた。
「リーネさん、おめでとう!」
「森の食堂、また開いてくれますよね?」
「当然よ! 私たちの食堂なんだから!」
「皆さん……ありがとうございます。必ず、また」
声が震えた。堪えていたものが、溢れそうになる。
フリードリヒ元会長が、穏やかに微笑んでいた。
「見事だった、リーネ料理人」
「会長のおかげです。証拠を集めてくださらなかったら、何もできませんでした」
「謙遜するな。証拠を集めることは誰でもできる。だが、あの法廷で堂々と立ち、ゲオルクの嘘を暴いたのはお前だ」
「……ありがとうございます」
「料理人資格は回復した。望むなら、宮廷への復帰も可能だ。推薦状は書こう」
宮廷への復帰。かつての私なら、迷わず頷いていただろう。
「少し、考えさせてください」
「もちろんだとも」
人々が去った後、クルトと二人きりになった。シルが間に座って、もふもふの尻尾を揺らしている。
夕日が街並みを赤く染めていた。王都の屋根が、オレンジ色に輝いている。
「終わったな」
「ええ。長い三十日でした」
「……短かったような気もする」
「そうですか?」
「お前の飯を食ってた時間は、あっという間だった」
「どうする。宮廷に戻るか」
「……分かりません。森の厨房を、まだ続けたい気持ちもあって」
「そうか」
「クルトは? 元騎士団の副団長なら、復帰の道もあるのでは」
「ない」
「即答ですね」
「戻る気がないからな」
「どうして」
「森の飯が美味いからだ」
また、その言い訳。
「本音を聞かせてください」
クルトは長い間、黙っていた。
「……お前のそばにいたいからだ」
心臓が、一拍飛んだ。
「宮廷を辞めた三年間、何のために生きてるか分からなかった」
「……」
「毎日、同じ景色を見て、同じように日が暮れて。誰とも話さず、何も変えられず。ただ、時間だけが過ぎていった」
「クルト……」
「お前が来て、料理を食わせてくれて、初めて——ここにいていいと思えた」
「……」
「スープを飲んだ夜、思ったんだ。こんなに温かいものを、ずっと忘れていたんだって」
クルトは私を見なかった。焚き火を見つめたまま、ぽつりぽつりと言葉を落とす。
「迷惑なら忘れてくれ」
「迷惑なわけないでしょう」
声が震えた。自分でも驚くほどに。
「私も……同じです。あなたがいたから、諦めずにいられた」
「……」
「あなたが最初にスープを美味しいと言ってくれた夜。もう終わりだと思っていた人生が、もう一度動き出した気がしたんです」
言葉が続かなかった。代わりに、シルがくぅんと鳴いた。
クルトの手が、そっと私の手に触れた。指先だけ。
それだけで、十分だった。
「……帰ろう」
「どこに?」
「森に。お前の厨房に」
森の厨房。私の場所。
隣を歩く人の手の温もりだけが、暗い夜道の灯火だった。




