第8話 最後の宴と沈黙の告白
王都の王宮は、記憶の中よりずっと大きく見えた。
白い石壁が空に突き刺さるように聳え、正門には王家の紋章が燦然と輝いている。かつては毎日通った場所なのに、今は異国の地に立っている気分だ。
「緊張しているか」
クルトが隣を歩きながら、低い声で聞いた。
「……少しだけ」
「嘘だな。手、震えてるぞ」
「……バレてますか」
「分かりやすいんだよ、お前は」
ぎゅっと拳を握り直す。
「大丈夫です。料理の時と同じ。手順通りにやるだけ」
「ああ。だが、ひとつ言い忘れていた」
「何ですか」
クルトが立ち止まった。フードの下の瞳が、まっすぐに私を見た。
「俺は——レオンハルト・クルツヴァイル。元宮廷騎士団副団長だ」
足が止まった。
「宮廷……騎士団?」
「三年前に辞任した。宮廷内の腐敗に耐えかねて、森に逃げた」
「逃げた……」
「ああ。聞こえは悪いだろう。騎士が職務を放棄して、森で隠遁生活だ」
「でも、それなら。なぜ今になって——」
「お前が来たからだ」
シルが、クルトの足元から私の足元に移動した。まるで、二人を繋ぐ橋のように。
「お前の料理を食べた夜。森に逃げた自分を恥じた」
「クルト——」
「腐敗を見て見ぬふりをして、誰かが犠牲になるのを放置していた。それは、俺が軽蔑した連中と同じだ」
「そんなこと——」
「事実だ。俺が声を上げていれば、お前が冤罪に遭うことはなかったかもしれない。ヴァルターの不正は、三年前から噂があった」
「……知っていたんですか」
「噂だけだ。でも、調べようと思えばできた。それをしなかった。だから、今度は逃げない」
その声には、後悔と決意が入り混じっていた。
「お前の隣で、最後まで戦う」
不器用な人だ。こんな大事なことを、王宮の正門前で言う。
「……分かりました。クルト。一緒に行きましょう」
「ああ」
「あと——ありがとう。全部、話してくれて」
「……礼はいらない」
「いります。あなたが正直に話してくれたから、私もあなたを信じられる」
クルトが何か言いかけて、口を閉じた。代わりに、ほんの少しだけ頷いた。
シルが外套の中からくぅんと鳴いた。早く行け、と急かしているみたいだった。
謁見の間は、王宮の奥深くにあった。
長い回廊を歩く間、靴音が石壁に反響した。かつては毎日歩いた回廊だ。壁の燭台も、天井の装飾も、何も変わっていない。
変わったのは、私の方だ。
あの頃の私は、この回廊を俯いて歩いていた。誰にも目立たず、騒がず、ただ厨房と自室を往復するだけの日々。
今は、前を向いている。
隣にはクルトがいる。外套の中にはシルがいる。一人じゃない。
高い天井にシャンデリアが連なり、赤い絨毯が玉座まで一直線に伸びている。
扉が開いた瞬間、百もの視線が私に突き刺さった。
両脇には、すでに関係者が並んでいた。
ヴァルター理事。ゲオルク。ブルクハルト監査官。
そして——ヴィクトリアと王太子。
全員が揃っている。
(これは、謁見ではなく裁判だ)
ヴァルター理事は冷笑を浮かべていた。余裕があるのだろう。自分の仕組んだ罠は完璧だと信じている。
ゲオルクは俯いている。大きな体が縮こまって見えた。
ヴィクトリアは扇で顔の半分を隠していたが、指先が震えているのが見えた。
王太子は——やはり、私と目を合わせなかった。
(もういい。あなたを見るために来たわけじゃない)
玉座に座る国王陛下は、白髪の壮年の男性だった。威厳はあるが、目に冷酷さはない。
「リーネ・アルヴェーン。直訴の内容を述べよ」
「はい、陛下」
深呼吸。手の震えを止める。
「私は、毒殺未遂の罪で処刑を宣告されました。しかし、私は無実です。その証拠を提示いたします」
一つ目。食材庫の管理記録。
「事件当夜、私が食材庫を出た二時間後に、もう一名が入室しています。宮廷第一料理人、ゲオルク殿です」
ゲオルクの顔が歪んだ。
「それだけでは——」
「二つ目の証拠があります」
毒物鑑定の報告書と、鑑定士シュトルムの経歴書。
「鑑定を担当したシュトルム氏は、ヴァルター理事の元部下です。現在も理事の私邸を頻繁に訪れています」
「それが何だと言うのだ。知人の家を訪ねることに何の問題がある」
ヴァルターが初めて口を開いた。冷笑を浮かべている。だが、額に汗が浮いていた。
「問題は交友関係ではありません。問題は鑑定の中身です」
ヴァルターの額に汗が浮いた。
「三つ目」
フリードリヒ元会長が前に進み出た。
「元宮廷料理協会会長として申し上げます。鑑定報告書を分析した結果、使用されたとされる毒物と、実際の症状記録に矛盾があることが判明しました」
「どのような矛盾ですか」
「報告書に記載された毒物は、摂取から数分で激しい症状が出ます。しかし、王太子殿下の症状は食後六時間後に発現している。この時間差は、報告書が示す毒物では説明がつきません」
「つまり——」
「報告書は、意図的に改竄された可能性が極めて高い」
謁見の間がざわめいた。
「でたらめよ!」
ヴィクトリアが叫んだ。
「こんな、森に追放された女の言うことを——」
「ヴィクトリア殿。お静かに」
国王の声が、広間に響いた。
「リーネ嬢。続けなさい」
「はい。最後に、ゲオルク殿に質問をお許しください」
国王が頷いた。
私はゲオルクに向き直った。
「あの夜、食材庫に入った理由をお聞かせください」
「翌日の仕込みのためだ」
「何の食材を取りに行かれましたか」
「鶏肉と、香草を」
「管理記録の出庫欄に、あなたの記録はありません」
「……それは——」
「食材庫に入ったのに、何も持ち出さなかった。食材を取りに行ったのではなく——食材に、何かを加えに行ったのではありませんか」
「黙れ!」
ゲオルクが声を荒げた。広間が凍りついた。
その叫びが、何よりも雄弁な告白だった。無実の人間は、あんなふうに叫ばない。
「ゲオルク。答えなさい」
国王の命令に、ゲオルクは唇を震わせた。
「……陛下、私は……」
「正直に述べよ。この場で偽証を重ねれば、罪はさらに重くなる」
ゲオルクの目から、涙がこぼれた。大柄な身体が、子どものように震えていた。
「わ、私は……ヴァルター理事に頼まれて……ただ、少量の薬を……」
崩れた。
ヴァルターが制止しようとしたが、遅かった。
「本件について、再審を命じる。リーネ・アルヴェーンの処刑は即時停止。ヴァルター理事およびゲオルクは拘束し、取り調べを行え」
兵士たちが動いた。ヴァルターとゲオルクが連行されていく。
ヴィクトリアは崩れるように膝をつき、王太子は目を伏せたまま動かなかった。
広間を出ると、膝から力が抜けた。壁にもたれかかる。
クルトが、黙って手を差し出した。
その手を取った。大きくて、温かくて、少し震えていた。
「……お前、震えてたぞ。ずっと」
「お互い様です」
クルトが、ほんの少しだけ手を握り返した。
シルが足元で、くぅんと鳴いた。
王宮の廊下に、西日が差し込んでいた。長い影が二つ、並んで伸びている。
その影は、よく見ると手を繋いだままだった。




