第7話 揺れる天秤と差し出された手
フリードリヒ元会長からの使者が、一通の封書を届けてくれた。
国王陛下への謁見許可。日付は五日後。
「本当に……通ったんですね」
「フリードリヒ翁の人脈は伊達じゃないということだ」
クルトは淡々と言ったが、その声に安堵の色が滲んでいた。
五日後。処刑まであと十日の時点で、国王の前に立つ。そこですべての証拠を提示して、再審を勝ち取る。
失敗は許されない。
「証拠の整理をしましょう」
「ああ」
「まず、食材庫の管理記録。ゲオルクがあの夜、私の後に食材庫に入った記録」
「ある」
「次に、毒物鑑定の不正。鑑定士シュトルムとヴァルター理事の関係を示す書簡」
「フリードリヒ翁が確保した」
「そして——ゲオルク本人の証言が、あれば完璧です」
「自白するとは思えないが」
「自白じゃなくていい。矛盾を突けばいい」
「矛盾?」
「公の場で質問をぶつけて、嘘をつかせるんです。嘘は必ず綻ぶ」
「どういう質問を想定してる」
「あの夜、食材庫に入った理由を聞きます。正当な理由があるなら、出庫記録が残っているはず。でも、記録にはゲオルクの出庫はない」
「食材を取りに行ったのではなく、加えに行ったことになる」
「ええ。本人の口から矛盾した証言を引き出せば、それ自体が証拠になります」
「……お前、けっこう策士だな」
「料理のレシピを組む時と一緒です。段取りを組んで、火加減を見て、最高のタイミングで仕上げる。手順通りにやるだけです」
「レシピか。裁判のレシピを書く料理人は、お前が初めてだろうな」
クルトが小さく笑った。声を出して笑うのを、初めて聞いた。低くて、少し掠れていて。
胸が、変な音を立てた。
「……何を笑うんですか」
「いや。料理に喩えるのが、お前らしいと思って」
「当然です。料理人ですから」
「ああ。知ってる」
短い言葉だった。でも、なぜか照れくさくて、シルを抱き上げて顔を隠した。
◇
謁見の準備を進める一方で、森の料理は続けた。
資格停止処分は正式には発効していない。手続き不備で宙ぶらりんのまま、私の厨房は今日も開いている。
今日のメニューは、きのこと栗の温かいポタージュ。
栗を石窯の余熱でじっくり焼き、皮を剥いてすり潰す。焼き栗の甘みは、生のものとは比較にならない。
きのこは数種類を混ぜて、深い旨味を出す。仕上げに松の実のオイルをひと回し。
「冬が近いですから、身体が温まるものをどうぞ」
「毎日ここに来るのが楽しみで——」
「ありがとうございます。今日は松の実のオイルを仕上げにかけてみました」
「何ですかそれ。めちゃくちゃ美味しいんですけど!」
「松の実を石臼で潰して、濾したものです。香りが立つでしょう?」
「立ちます。もう帰れないです、この森から」
「リーネさん、絶対に負けないでくださいね」
「ありがとうございます。頑張ります」
「お願いよ! この森の食堂がなくなったら、私生きていけない!」
「大げさですよ、マルタさん」
「大げさじゃないわよ!」
笑い声が森に響く。ありがたい。けれど、同時に責任の重さも感じる。
夕方、客が帰った後、クルトが珍しく隣に座った。いつもは少し離れた場所にいるのに。
「寒くなってきたな」
「そうですね」
「……これ」
クルトが、無言で自分の外套を脱いで、私の肩にかけた。
温かい。彼の体温が残っている。
「風邪を引いたら謁見に出られない」
「あ、ありがとうございます。でも、クルトが寒くなるんじゃ——」
「俺は平気だ」
「嘘ですよね」
「……うるさいな」
シルが、私たち二人の間に割り込んできた。もふもふの体で、残りの隙間を埋めるように。
(……なんだろう。この時間が、とても大切だ)
処刑を待つ身。冤罪の重圧。迫る期限。
なのに、焚き火のそばで、隣に誰かがいるだけで、こんなにも穏やかな気持ちになれる。
「クルト」
「何だ」
「謁見が終わったら……ちゃんと、あなたのことを聞かせてくれますか」
「……何が聞きたい」
「全部です。あなたが何者で、なぜ森にいて、なぜ私を助けてくれるのか」
長い沈黙。焚き火がぱちぱちとはぜる。
「……ああ。約束する」
「なら、絶対に勝ちます」
「知ってる」
短い二文字。けれど、その中に込められた信頼の重みを、確かに感じた。
翌日から、謁見に向けた最終準備に入った。
フリードリヒ元会長が証拠書類を整理して届けてくれた。食材庫の記録、鑑定の不正の証拠、ヴァルター理事とヴィクトリアの血縁関係を示す文書。
「これだけあれば、十分に戦える。あとは、あなたの言葉だ」
「はい。精一杯、伝えます」
「国王陛下は、公正な方だ。証拠が確かであれば、必ず耳を傾けてくださる」
「ありがとうございます」
「だが、敵も黙ってはいまい。妨害は覚悟しておきなさい」
「覚悟しています」
マルタさんが、新しい服を仕立てて持ってきてくれた。
「囚人服で国王の前に立つなんて、ダメよ。これは町のみんなからの気持ち」
白いブラウスに、深い緑のスカート。素朴だけれど、清潔感のある装い。
「マルタさん……みんなが……」
「仕立屋のおばあちゃんが徹夜で縫ったのよ。『あの子の料理で孫が元気になった』って泣きながら」
「そんな……」
「パン屋の旦那さんが布を提供してくれて、染物屋の奥さんがスカートの色を染めてくれたの。この緑、森の色よ」
「……森の色」
「あなたの居場所の色。みんなそう思ったのよ」
涙が出そうになった。堪えた。泣くのは、全部終わってからだ。
「ありがとうございます。大切に着ます」
「勝ってきなさい。私たちは、ここで待ってるから」
謁見の前夜。特別な料理を作った。
クルトとシルと、三人で食べるための——勝利の前祝い。
森の食材を総動員したフルコースだ。木の芽とクレソンのサラダ。鹿肉のロースト、山葡萄のソース添え。
根菜のグリルときのこのソテー。蜂蜜と木の実のタルト。
「……お前、張り切りすぎだろ」
「勝ちに行く前夜は、しっかり食べないと」
「デザートまで作る必要はあったのか」
「ありました。甘いものは心の栄養です」
「前菜とメインとデザートで、フルコースか」
「付け合わせもありますよ。きのこのソテーは黒胡椒を効かせて、大人の味にしました」
「……ここ、森の中だよな」
「森のフルコースです。王宮のどんな晩餐会にも負けません」
シルにも小さな皿を用意した。鹿肉を細かく裂いて、スープで柔らかく煮たもの。
シルは尻尾をぶんぶん振りながら食べた。幸せそうな顔を見ると、こちらまで幸せになる。
クルトは呆れた顔をしたが、全部平らげた。
「美味かった」
「知ってます」
「……生意気だな」
でも、その声は優しかった。
シルが膝の上で丸くなった。小さな寝息が聞こえる。
「明日、一緒に来てくれますか」
「当然だ。お前一人で行かせるわけがない」
外套を肩にかけ直してくれた。今度は、少しだけ手が触れた。
温かい指先だった。剣を握る手なのに、こんなにも温かい。
互いに、何も言わなかった。ただ、焚き火の音を聞いていた。
それで十分だった。




