第4話 王都から来た招かれざる客
の馬車は、王都の紋章ではなく、見慣れない銀の鷲の紋章を掲げていた。
料理の準備をしている最中に現れた客人は、銀縁の眼鏡をかけた壮年の男性だった。整った身なりに、落ち着いた物腰。だが、目の奥には打算の光がある。
「失礼。あなたがリーネ嬢ですか」
「……どちら様でしょう」
「宮廷料理協会の監査官をしております。ブルクハルトと申します」
宮廷料理協会。宮廷で使われるすべての食材と料理人を管理する、王国随一の権力機関。
嫌な予感がした。
「このたび、森で無許可の食事提供が行われているとの報告を受けまして」
「報告……誰からですか」
「申し上げられません。ご存知の通り、王国法では調理行為には協会の許認可が必要です」
「ここは森の中ですが」
「王国領内であることに変わりありません」
正論だ。正論で殴ってくるタイプの敵は、一番厄介だ。
ブルクハルトは手帳を取り出し、石窯を、食材を、提供の様子を観察し始めた。
「なるほど。衛生管理は……まあ、野外にしては悪くない」
「ありがとうございます」
「褒めているわけではありません。許認可なしの営業行為は明確な違反です」
「営業ではありません。無料で、好意で出しているだけです」
「であれば、なおさら問題です。無資格者による不特定多数への食事提供は、公衆衛生上のリスクとみなされます」
言葉が詰まった。法の網をかけられると、どう足掻いても身動きが取れない。
クルトが口を開いた。
「監査官殿。宮廷料理協会の規則第十七条をご存知か」
ブルクハルトの眉が動いた。
「……何のことでしょう」
「正式な料理人資格保持者が個人の厚意で食事を提供する場合、営業許認可の適用外とする。リーネは宮廷料理人の正式な資格を持っている」
「しかし、処刑宣告を受けた者が——」
「処刑宣告と資格剥奪は別の手続きだ。剥奪されたという記録はないはずだが?」
沈黙が落ちた。
ブルクハルトは眼鏡を押し上げ、手帳を確認した。長い間。
「……なるほど。確かに、資格剥奪の記録は確認しておりません」
「では、問題はない」
「しかし、裁判記録を確認すれば、資格停止の追加処分が出る可能性は十分にあります。それまでの猶予期間として、本日は警告に留めましょう」
ブルクハルトは深く一礼して去っていった。
去り際に、一瞬だけ振り返った。その目に浮かんだのは敵意ではなく、何か別のものだった。
(……あの人、本当は分かっているのかもしれない。この件がおかしいことを)
馬車の音が遠ざかるまで、私は動けなかった。
「……クルトさん、どうして協会の規則を?」
「勉強熱心なんだ」
「嘘ですよね。普通の森の住人が、宮廷料理協会の規則を暗記しているわけがない」
「……鋭いな」
「料理人ですから。食材の見極めは得意です。人も含めて」
「人を食材扱いするな」
「あ、すみません。でも——」
「でも?」
「助けてくれて、ありがとうございます。規則を知らなかったら、今日で終わっていました」
クルトは少し目を見開いて、それから口の端を上げた。
「今のは時間稼ぎでしかない。次に来るときは、もっと強い手段を持ってくるだろう」
「分かっています」
「だから、それまでにこちらも準備する。リーネ、頼みがある」
「何ですか」
「明日、特別な料理を作ってくれ。この森に生える薬草を使った、身体を温めるスープだ」
「薬草スープ? それは構いませんが、誰に出すんですか」
「客が来る。俺が呼んだ客だ」
「……どんな方ですか」
「来れば分かる」
クルトの目が、いつになく真剣だった。
◇
翌日、クルトが連れてきたのは、白髪の老紳士だった。
杖をつき、背はやや曲がっているが、目の光は鋭い。
「ほう。これが噂の森の料理人か」
老紳士は石窯の前に座り、シルを膝に載せた。シルは嫌がるどころか、喉をごろごろ鳴らしている。
「人見知りのはずなのに……」
「動物は人を見る目があるからな」
「薬草スープです。カモミール、エルダーフラワー、タイムを煮出して、蜂蜜と岩塩で味を整えました」
老紳士はスープをゆっくりと口に含み、目を閉じた。
長い沈黙。
「……見事だ」
「ありがとうございます」
「薬草の苦みを消すのではなく、活かしている。しかも、この組み合わせは解毒作用がある。知っていて選んだのか?」
「はい。エルダーフラワーは炎症を抑え、カモミールは胃腸を整えます。タイムには殺菌作用がある。三つを組み合わせれば、軽い食あたりなら対処できます」
「ほう。薬草学も修めておるのか」
「いいえ。料理人として、食材の特性を調べるうちに自然と」
「独学か。なおさら見事だ」
「食材を殺すために使うのではなく、人を活かすために使う。それが本物の料理人だ」
老紳士は深く頷いた。それから、もうひと口スープを啜って、ふうと息をついた。
「若い頃を思い出すな。わしも昔は厨房に立っておった」
「会長自ら?」
「料理協会の会長は、元を辿れば料理人の長だ。書類仕事ばかりしていたが、本当は鍋を振るいたくてたまらなかった」
「……お気持ち、分かります」
老紳士は穏やかに笑い、懐から一枚の書簡を取り出した。
「お嬢さん。わしはフリードリヒ。元宮廷料理協会の会長だ」
呼吸が止まった。
「この若者に頼まれてな。あなたの料理を一度食べてみたいと」
「クルトさんが……?」
振り返ると、クルトは木に寄りかかったまま、そっぽを向いていた。
「あなたの裁判記録、わしも目を通した。不自然な点が多い」
「不自然……ですか」
「特に、毒物鑑定の報告書だ。鑑定を担当したのが、協会の現理事の息がかかった人物でな」
「それは——」
「公正さに疑念がある。わしが見る限り、鑑定の手順も不透明だ。通常なら複数の鑑定士が立ち会うところを、シュトルムが単独で行っている」
「単独で……」
「異例のことだ。複数鑑定は協会の基本原則だからな。それを無視したということは、見られたくない何かがあったということだ」
「つまり、鑑定の段階で既に不正が——」
「その可能性が高い。食材庫の管理記録と、毒物鑑定の原本。そのふたつがあれば、再審の道が開ける」
「でも、それは宮廷の中に——」
「だから、わしが動く。元会長として、記録の閲覧を請求する権限はまだある」
希望。そう呼ぶには、まだ細い糸だ。けれど、確かに手が届く場所にある。
「ありがとうございます。私にできることがあれば、何でもします」
フリードリヒは笑った。穏やかで、どこか懐かしい笑顔だった。
「まずは、もう一杯もらえるかな。こんな美味い薬草スープは初めてだ」
シルがくぅんと鳴いた。おねだりではなく、まるで「よかったね」と言っているように。
「フリードリヒ様。もうひとつだけ」
「何かね」
「なぜ、私を信じてくださったんですか。会ったばかりなのに」
「料理に嘘はつけんからだよ。お嬢さんの薬草スープには、人を害する意志が微塵もなかった。長年料理を見てきた目は、それを見逃さん」
「……ありがとうございます」
「礼ならこの若者に言いなさい。わしを引っ張り出したのは、こいつだ」
クルトは相変わらず、そっぽを向いていた。
処刑まで、あと二十日。料理は人を繋ぐ。その糸が、少しずつ、冤罪の壁に亀裂を入れ始めていた。




