第2話 銀狐と最初の客人
銀狐は、翌日から毎日のように現れるようになった。
律儀にも、毎回きまって野草や木の実を咥えてやってくる。まるで「これを使え」とでも言うように、私の足元にぽとりと落として座る。
「ありがとう。……これはカモミールね。乾燥させたらお茶にできる」
くぅん、と銀狐が尻尾を揺らした。
ふわふわの毛並みに触れると、絹のように滑らかで、指先からじんわり温かさが伝わってくる。
この子に名前を付けてもいいだろうか。
「シル、って呼んでいい? 銀色だから」
銀狐——シルは、私の膝の上でくるりと丸くなった。了承と受け取ることにする。
「気に入ってくれた?」
くぅん。
「うん。よろしくね、シル」
小さな体温が、冷えた心に沁みていく。
シルは毎朝、決まった時間に現れる。まるで体内時計でも持っているかのように。
今朝は野いちごを三粒、咥えてきた。赤い実が銀色の口元に映えて、ちょっと可愛い。
「今日はいちごか。ありがとう。スープの仕上げに使おうかな」
シルが尻尾を振った。採用されるのが嬉しいらしい。
◇
あの青年——クルトは、不定期に姿を見せた。
「今日は何を作る」
挨拶もなく、いつの間にか切り株に座っている。外套のフードを目深に被ったまま、無愛想に問いかけてくる。
「沢で捕れた川魚があるので、香草焼きにしようと思います」
「香草焼きか」
「タイムとローズマリーを摺り込んで、石窯でじっくり焼きます。皮がぱりっとして、身がふっくら仕上がるんです」
「……手伝おうか」
「え? できるんですか?」
「薪割りくらいはできる」
「じゃあ、お願いします。あ、あとそこの沢でクレソンを摘んできてもらえますか? 水際に生えている、小さな緑の葉です」
「分かった」
言葉は少ないけれど、嘘がない人だ。そう思った。
彼の薪割りは正確で、迷いがなくて、見ていて気持ちがいい。まるで剣を振るようだった。
クレソンもきちんと選んで摘んできた。傷んだ葉を避けている。雑な人には、こういうことはできない。
「ありがとうございます。完璧です」
「別に普通だろ」
「いいえ。食材の扱いで人柄が分かるんです」
「……何だそれ」
「傷んだ葉を丁寧に避けて摘んでますよね。料理の素人がやる作業じゃありません」
「たまたまだ」
「本当に?」
「……うるさいな。焼けよ、魚」
川魚の香草焼きが出来上がった。石窯の余熱でじっくり火を通したから、皮はぱりっと、身はふっくらと仕上がった。沢のクレソンを添え、山葡萄の煮詰めたソースを少しだけかける。
「クルトさん、お皿——じゃなかった、大きい葉っぱ、取ってもらえますか」
「この葉でいいのか」
「ええ、それです。ありがとう」
「……お前、こういう時だけ丁寧だな」
「料理を渡す時は、いつでも丁寧ですよ」
「どうぞ」
クルトがひと口食べて、長い沈黙の後に言った。
「……宮廷で出しても恥ずかしくない味だな」
心臓が跳ねた。宮廷、という言葉に過剰に反応してしまう自分がいる。
「ありがとうございます。でも、私はもう宮廷とは無関係ですから」
「そうか」
クルトはそれ以上踏み込まなかった。代わりに、二切れ目の魚に手を伸ばした。
その横で、シルが私のスカートの裾を引っ張った。
「はいはい。シルの分もありますよ」
小さく切った魚の身を差し出すと、シルは幸せそうに目を細めて食べた。もふもふの頬が動くたびに、胸の奥のこわばりが少しだけ溶けていく。
三日目の昼過ぎだった。
森の入口の方から、がさがさと草を踏む音がした。クルトが瞬時に外套の中の剣に手をかける。
現れたのは、初老の女性だった。背中に大きな籠を背負い、額に汗を光らせている。
「あら……人がいるなんて。この森に住んでらっしゃるの?」
「いえ、その……事情があって」
「まあ、いい匂い! 何を作ってるの?」
「きのこと野草のスープです。よろしければ、いかがですか」
「いいの? 嬉しいわ! 町まで薬草を届けに行くところなんだけど、道に迷ってしまって」
「大変でしたね。お疲れでしょう、温かいうちにどうぞ」
「ありがとう、いただくわ」
薬草売りのおばさん——マルタさんは、スープを飲んで目を丸くした。
「これ、本当に森の食材だけ?」
「はい。きのこと野草を数種類、タイムで香りをつけて」
「信じられない。こんな味、王都の食堂でも出てこないわよ」
「そんな大げさな……」
「大げさじゃないわ。私ね、薬草の仕事で王都にも行くから、あちこちで食べ歩くの。でも、こんなに素朴で美味しいスープは初めてよ」
「ありがとうございます」
「ねえ、あなた。この料理、もっと多くの人に食べさせるべきよ」
「え?」
「私、町の人たちに教えてもいい? 森にすごい料理人がいるって」
胸の中で、何かが小さく灯った。
処刑を待つ身で、何を期待しているのだろう。でも、誰かが私の料理を美味しいと言ってくれること。もっと食べたいと思ってくれること。
それが、こんなにも嬉しい。
「……お好きにどうぞ」
マルタさんは満面の笑みで帰っていった。
クルトがぽつりと言った。
「噂は広まるぞ」
「構いません」
「本当にいいのか。お前の立場で、目立つのは」
「私にできるのは、料理を作ることだけですから」
「……それは、覚悟か」
「覚悟というほど大げさなものじゃありません。ただ——最後まで自分らしくいたいんです」
クルトは何も答えなかった。ただ、その沈黙の中にある種の敬意を感じたのは、私の思い過ごしだろうか。
翌日から、森を訪れる人が増えた。
マルタさんの話を聞いた町の人たちが、一人、また一人とやってくる。
「今日のおすすめは、鹿肉ときのこの煮込みです」
「こんな深い森の中で、こんな料理が食べられるなんて」
「明日も来ていい?」
「もちろんです」
「ねえ、あなた、お名前は?」
「リーネです」
「リーネさん、これ、うちの畑で採れた芋。よかったら使ってください」
「ありがとうございます。明日、この芋でポタージュを作りますね」
「本当? 楽しみにしてる!」
客が客を呼ぶ。一人が二人に話し、二人が四人に伝え、四人が町中に広がる。
石窯の前に座る人々の顔は、一様に綻んでいた。
シルは来客の膝の上を渡り歩き、撫でられるたびに気持ちよさそうに目を細めていた。この子がいるだけで場が和む。もふもふは正義だ。
クルトは少し離れた場所から、腕を組んで眺めている。たまに薪を足してくれる。たまに食材を黙って置いていってくれる。
七日目の夕暮れ。客が帰った後の片付けをしていると、クルトが言った。
「噂が王都に届くのも時間の問題だ」
「でしょうね」
「覚悟はあるか」
私は手を止めて、シルを抱き上げた。温かい毛並みに頬を寄せる。
「私を陥れた人が、この噂を聞いてどんな顔をするか。少しだけ、楽しみではあります」
クルトの唇の端が、ほんの少し持ち上がった。
「……面白い女だ」
それは褒め言葉なのだろうか。分からないまま、シルの頭を撫でた。
穏やかな夕暮れだった。けれど、この穏やかさが長く続かないことを、私はどこかで分かっていた。
八日目——王都の紋章が入った馬車が、森の入口に停まったのだから。




