第10話 終わらない食卓
森の石窯に火を入れるのは、もう何度目だろう。
再審から半月が経った。処刑の恐怖はもう遠い記憶になりつつある。けれど、あの三十日間で得たものは、何ひとつ遠くなっていない。
今日は特別な日だ。
マルタさんが声をかけてくれた町の人々、フリードリヒ元会長、森の常連客たち。みんなを招いて、感謝の食事会を開く。
「こんな大人数、石窯ひとつで足りるのか」
クルトが腕を組んで、やや不安げに言った。
「足りますよ。料理は段取りが命ですから」
「手伝えることはあるか」
「じゃあ、薪を多めにお願いします。あと、沢でクレソンを」
「分かった」
「それから、シルに味見を止めてもらえます? さっきから鹿肉をこっそり狙ってるんです」
クルトがシルを見た。シルは何食わぬ顔で毛繕いをしている。
「……こいつはもう手遅れだ」
「ですよね」
前日から仕込みは始めている。鹿肉は山葡萄に漬けて柔らかくし、根菜は下茹でを済ませた。パンはどんぐり粉と小麦粉を混ぜた生地を、石窯の余熱でゆっくり焼く。
◇
昼過ぎから、続々と人が集まり始めた。
マルタさんは大きな花束を抱えてきた。
「リーネちゃん、おめでとう!」
「マルタさん、ありがとうございます。……こんなに立派な花束」
「町のお花屋さんが、ぜひにって。あなたの料理のファンなのよ」
町の子どもたちは、森の中を走り回っている。シルを追いかけて、きゃあきゃあと笑い声を上げている。
シルはまんざらでもない様子で、子どもたちの前をちょこちょこ走っていた。
フリードリヒ元会長は杖をつきながら、穏やかな笑顔でやってきた。
「リーネ嬢。いや、もう『森のリーネ』と呼ばせてもらおうか」
「森のリーネ……ですか?」
「町ではすっかりそう呼ばれているぞ。王都の高級食堂よりも、森の料理人の方が似合っていると、わしは思うがね」
「光栄です」
テーブルは倒木を並べたもの。椅子は切り株。食器は木の葉と石を組み合わせた手作り。
不格好だけれど、ここには嘘がない。
「さあ、始めましょう」
前菜は、森のハーブサラダ。十種類の野草を摘んで、蜂蜜と木酢のドレッシングで和えたもの。
「この苦みと甘みの組み合わせ……絶妙」
スープは、栗ときのこのポタージュ。
「また飲めた! この味、夢に出てきたんです」
「大げさですよ」
「大げさじゃないです! 毎晩、栗のポタージュの夢を見てたんですから」
「それは……すみません。もっと早く作ればよかったですね」
「謝らないでください。待った分、余計に美味しいです」
メインは、鹿肉のロースト。山葡萄のソースに、焼いた根菜を添えて。
「これ、王宮でも出てこないわよ」
「マルタさん、それ前も言ってましたよ」
「何度でも言うわよ。事実なんだから」
「私も同感だ。宮廷の晩餐会よりもここの料理の方が上だと、自信を持って言える」
フリードリヒ元会長が、静かに、しかし確かな声で言った。
「会長……」
「わしは長年、宮廷の料理を食べてきた。技術の高い料理人は山ほどいる。だが、食べる人の顔を思い浮かべながら作る料理人は、ほんの一握りだ」
「……ありがとうございます」
「お前の料理には、それがある。だから人が集まるんだ」
隣でクルトが小さく頷いていた。
デザートは、蜂蜜と木の実のタルト。どんぐり粉の生地は香ばしく、噛むたびに森の香りが広がる。
私は料理を出しながら、一人一人の顔を見ていた。
笑っている。みんな、笑っている。
(ああ——これだ)
この景色が見たかった。処刑を宣告された夜、失ったと思ったもの。それは名誉でも地位でもなく、この当たり前の風景だった。
「リーネちゃん! 次はいつやるの?」
「来週はどう?」
「毎週やってほしい!」
「考えておきますね」
嬉しい悲鳴に囲まれながら、ふと、視線を感じた。
テーブルの端。フリードリヒ元会長と話していたクルトが、こちらを見ていた。
目が合った。クルトは、すぐに逸らした。
食事会が終わり、片付けをしていると、フリードリヒ元会長が近づいてきた。
「ひとつ報告がある」
「はい」
「ヴィクトリアが、王太子との婚約を辞退した。叔父の失脚で後ろ盾を失って、自ら身を引いたようだ」
「……そうですか」
「王太子も、自らの不明を恥じて表舞台から退くことを陛下に申し出たそうだ」
不思議と、何の感慨もなかった。あの人はもう、私の物語の登場人物ではない。
「それともうひとつ。クルト——レオンハルト殿のことだが」
「何かあったんですか」
「内部告発の功績が認められて、陛下から新たな役職を打診された。が、辞退したそうだ」
「辞退……?」
「『森に用がある』と言ったらしい。陛下が苦笑しておられたよ」
胸の奥が、じわりと温かくなった。
客が全員帰った後、森は静けさを取り戻した。
焚き火の前に座る。隣にクルト。足元にシル。
いつもの場所、いつもの配置。
「クルト」
「何だ」
「国王から役職を打診されたって聞きました」
「……あの老人、余計なことを」
「断ったんですね」
「ああ」
「なんて言って断ったんですか」
「……別に」
「『森に用がある』って言ったそうですね」
「…………」
「その用事って、何ですか」
クルトは黙った。焚き火がぱちぱちとはぜる。
「……聞くまでもないだろ」
「聞きたいんです」
「……お前の飯を食うことだ。文句あるか」
「ありません」
笑ってしまった。
「宮廷に戻るか」
「戻りません」
即答だった。自分でも驚くほど迷いがなかった。
「ここで料理を作り続けます。この森で。この石窯で」
「そうか」
「クルトも、ここにいてくれますか」
「……聞くまでもないだろ。さっき言った」
「もう一回聞きたかったんです」
「……面倒な女だ」
「面倒で結構です」
「……ああ。面倒で結構だ」
でも、その声は優しかった。
シルが、私たちの間に寝転がった。銀色の毛並みが焚き火に照らされて、黄金に輝いている。
「明日の献立、もう考えてるんです」
「もうか」
「秋が深まるから、温かいシチューなんてどうかなって。鹿肉と根菜をたっぷり入れて、ローズマリーの香りを効かせて」
「美味そうだな」
「仕上げに山葡萄の赤いソースをひと筋」
「それ、俺が好きなやつだろ」
「気のせいですよ」
嘘だ。クルトが初めて私のスープを飲んだ夜と、同じ味にしたかった。あの夜から、すべてが始まったから。
「……あの夜のスープと、同じ味にするつもりだろ」
「分かるんですか」
「分かる。お前の料理は全部覚えてる」
それは——今まで聞いた中で、一番嬉しい言葉だった。
クルトが笑った。声を出して。あの低くて掠れた笑い声。
それに応えるように、私も笑った。
森は静かだった。頭上には、数えきれないほどの星が瞬いている。王都からは見えなかった星たちが、宝石箱をひっくり返したように散らばっている。
処刑前夜から始まった物語は、終わらない食卓へと続いていく。
明日も、この石窯に火を入れる。明日も、誰かのために料理を作る。隣には、不器用で優しい人と、もふもふの銀狐。
それだけでいい。それだけで、十分すぎるほど幸せだ。
風が木々を揺らした。森が囁く。おかえり、と。
——石窯の火種は、消えない。それはきっと、この先もずっと。
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