崩壊する日常
1999年8月1日、東京都世田谷区
その日、8歳の誕生日を迎えた横田恭子は、バースデーケーキを母が切り分けるのを黙って見ていた。
その表情にほ毛ほどの喜色も感じられず、誰が見ても不満があるように見える。
恭子の母、明恵も彼女の不満を当然の如く察している。
その理由ももちろん容易に想像がついた。
「お母さん、どうしてお父さん朝からいないの?
いつ帰ってくるの?」
「今日は帰れないみたいなの」
「どうして?」
少女の問いに母はできるだけ穏やかに答える。
「大事な仕事なのよ」
仕事、そう仕事だ。
恭子の父である道輝は自衛官だ。
今朝から、緊急かつ重要な国防の任についている。
「でも、昨日、明日はいっしょにケーキ食べようって約束したんだよ!」
恭子が声を荒げる。
いかな緊急事態で道輝が出勤していようが、僅か8つの少女がそれに納得できるはずがない。
「ごめんね」
明恵は恭子に詫びることしかできなかった。
恭子は今日をずっと楽しみにしていた。
家族でバースデーケーキを囲むこと。
大好きな父に誕生日を祝ってもらうこと。
少女にとってはとても大切なことだった。
「嘘つき!嫌い!パパもママも大っ嫌い!!」
とうとう恭子は食卓の椅子から降り、何処かへ走って行ってしまった。
「恭子…!待ちなさい!」
明恵は追いかけようとするが生来脚の悪い彼女は8歳の少女にすら追いつけず、見失ってしまうのだった。
ー
その頃、道輝は神奈川にいた。
3日前、鎌倉市内で発生した未知の災害に対しての自衛隊による超法規的な対処がよりにもよって昨日の夜、閣議で決定されたためである。
愛娘の泣き顔が、頭に浮かび道輝は頭の中で何度も詫びた。
そして、今回何が起こったのか、報告を思い出していく。
この災害は間違いなく世界で最も奇妙なものだ。
午後2時30分頃、鎌倉市街に突如として黒い球体が発生、発生した球体は質量を持ち、住居を破壊
しながら巨大化し、半径100mほどになったところで変化が止まった。
即座に付近の住民に避難指示が発令された。
同日、午後4時頃、球体の質量が消滅が確認される。
触れるとすり抜けるのだ。
その後、調査隊が球体に亜空間ゲートのような性質があることを確認したのだそうだ。
なんでも球体の内部に入り、もう一度外に出た瞬間、一面の大草原、中世の十字軍のようななりの大量の人間を観測したのだそうだ。
全くもって信じられない。
調査隊は直ぐに退却したそうだ。
荒唐無稽な報告に誰しもが調査隊は気が触れたのだと笑った。
だが、鎌倉に依然として浮かぶ黒い球体は見る者を全て黙らせた。
くだらないと笑っていたノストラダムスの大予言が数カ月早く的中したようだった。
政府は対策委員会を設立し、対処を開始した。
だが、全てが遅かったのだ。
翌日には門から調査隊が目撃したと思われる軍が現れて『門』周辺を占領してしまった。
住民の避難が完全には完了していなかったこと、市街地であったことで自衛隊の火力攻撃は即座には行えなかった。
しかし、国土を奪われて黙ってられるほど日本という国は愚かではない。
夕方には当該地区の住民の避難が完了し、その日の夜には各大臣や首相による火器の使用承認が出され、『軍』の情報の割り出しが完了し作戦が完成。
道輝達も作戦に駆り出されるのであった。
横浜市郊外の仮設本部で道輝には待機命令が出された。
「恭子ちゃんの誕生日だったんだろ?残念だったな」
同僚の竹内が笑う。
「まあ、こんな状況なんだ。しょうがないさ」
と道輝。
「でも恭子ちゃん、泣いてそうだよな」
「あんまり言うなよ、辛すぎて任務に集中できなくなる」
道輝は大仰に涙を拭うような仕草をとる。
辛いのは本当で、大げさにふざけてみせないとやってられなかった。
「おいおい、しっかりしてくれよ、大黒柱だろうがおい
ハハッ」
竹内はそんな道輝を見て笑う。
二人の会話で、仮設テントの中に僅かに笑いが起こり、空気が明るくなった。
「しかし異世界から騎士様達が攻めてくるなんてなんかの小説みてえだな?横田」
「本は読まんから何とも言えん。
フィクションならどれほど良かったか」
「ああ、本当にありえん話だぜ、さっき連中に威力偵察で撃った20mmも効かなかったんだろ?
バリアみたいなのを張って防いだって聞いたぞ。魔法ってやつかな。
本当にファンタジーな話だよな」
二人は待機中、不安を紛らわすかのように、話を続けた。
彼らの役割は戦闘機によるミサイル攻撃だ。
作戦は軽機関銃が効かない相手に徐々に使用火器の口径を上げていき、対象の軍の耐久度を試し、且つ出方を伺うというものである。
現在許可されている最大火力のミサイルは謂わば現状の最終手段ということになる。
だがまずミサイルの出番はなく決着するはずだ。
そう、そうなるはずだった。
待機が解除、出撃命令が出されたとき、二人は何を思ったのだろう。
もう、答えは出ない。
ー
その日、自衛隊は『軍』の『魔法』により壊滅的な打撃を被り撤退。
第一次作戦において『軍』と交戦した自衛隊員全員が殉職した。
そしてその数時間後には多摩川に防衛ラインが敷かれ、第二次作戦、首都防衛へと動き出すことになる。
だが、最後の希望でもあった防衛ラインは突破され、『軍』の都内侵入を許す。
その後『軍』は国連の介入による核攻撃でようやく全滅した。
核による介入を承認した内閣は総辞職に追い込まれ、省庁の再編が行われた。
都内は汚染により人が住めなくなり、首都機能は崩壊した。
それから、8年が経った。
甚大な打撃を被った東京、神奈川には今なお深い爪痕が刻まれている」。
ー
2007年、9月1日、さいたま市
都内における核汚染、核によるインフラの破壊により、現在の首都機能は埼玉に移行している。
東京に本社を置いていた企業は地方に分散し、政治の埼玉、経済の大阪、といった具合にこの二都市が大きな発展を遂げた21世紀において、ここさいたま市は数年前とはかなり異なる様子を見せていた。
市内に建造された大型のコンクリートビル群が現在の日本の脳である。
横田恭子はこの日、父の墓参りを済ませ、件のビルの中でも一際小さい建物に入っていた。
彼女は学生服を着ており、一見すると普通の女学生にしか見えぬのだが、その目には普通の子供たちに宿っている光がまるっきり感じられない。
死んだ魚のような目、そんな形容が最も似合う。
目には酷いクマがあり、本当に死人のようななりであった。
8年前の純粋な少女の面影は微塵も残っていなかった。
彼女はかつかつと音を立てながらビルに入り、エレベーターに乗る。
階を指定するキーの下部に胸ポケットから取り出したカードを当てると、パネルに表示される行先が「B100」に切り替わった。
エレベーターは20分も下降を続け、ようやく目的地に到着した。
自動ドアがひらく。
そこにはSF映画の基地か何かのようにシンプルな白い樹脂材のみで構成された無機質な廊下が続いている。
廊下の両端には部屋番号の書かれたこれまた無機質なドアが並んでいる。
どれほど無機質かというととってもなく上に人感センサーと思われる機器、横にエレベーターにもあった磁器タイプのカード識別装置が付いているのみである。
恭子はまっすぐに歩いていき、001と書かれたドアをカードを使って開けた。
「やあやあ!」
野太くも明るい男の声がする。
部屋は執務室のようになっており、最奥の執務机に座った男が声の主だ。
男は高そうな黒スーツに高そうな赤ネクタイ、高そうな革靴を履いており、ガタイも良く、髪はオールバック。
出来るビジネスマンにも有能なガードにもヤバい組織の長にも見える強者の雰囲気を纏っている。
この男の名は黒井啓介、恭子の現在の保護者兼上司にして、恭子の母、明恵の学生時代の友人である。
「こんなところに呼んだ理由は何ですか?」
恭子は男は正反対の張りのない声で答えた。
「挨拶を無視されるとおじさん傷つくぞ。
可愛い恭子ちゃんには良い子でいて欲しいんだ」
まあいいや、と話しを続ける黒井。
「君をここに呼んだ理由はお願いがあったからだよ。
恭子ちゃんには『向こう』に行ってもらいたい」
「向こうとは、あの黒い門のことですか?」
「そうだ、異世界への扉であるあの門を超えて向こう、異世界に行ってもらいたい。」
「何でまた今になって」
「鎌倉市内の封鎖域に8年前のあの日以来初めて異世界人が現れた」
黒井の言葉を聞き、恭子の身体が僅かに震える。
あの日魔法を直接目にした恭子は異世界人の恐怖を知っている。
8年前のような『魔法』を扱う集団が現れたら、また核に頼らざるを得なくなる。
それにもし、核の炎すら防ぐ『魔法』が8年で発明されていたら、現在の技術では対処が困難だ。
なにより連中は残虐で非道な化け物なのだ。
目の前で母を失ったあの日の光景が脳裏をよぎった。
「しかし今回来た人たちは魔法も行使できないし、ぼろぼろな感じでね、何かから避難してきたようなんだって。
意思疎通を図って情報を集めてはいるんだけど言語もまだ不明瞭で、信用もできない。
だから恭子ちゃん達には向こうで何が起こっているのか正確に把握して来て欲しい。」
「異世界の調査はほとんど行われていないんでしょう?
危険過ぎると具申します」
恭子の言う通り異世界への大規模な調査はまだ行われておらず、異世界人とのやりとりもない。
大規模な調査を行った場合、向こうにある可能性の高い未知の資源、エネルギーをめぐり、国際的に何らかの問題が発生するからだ。
だから現在は門周辺に見張りの意味も含めた簡易の基地を作り、その範囲で得られる情報を入手することしか出来ていない。
未知の土地を調査しなければならないのだ。
「確かに危険だね、勿論強制はしないよ。
君は部下である以上に、明恵さんの大事な一人娘なんだ。
これはあくまでお願いさ
でも、君なら大丈夫だと思うけどね」
啓介は微笑を崩さない。
「君はこっちで最強の魔法使いなんだから」