第十九話『広がる備え、つながる声』
翌朝、宿の食堂にはいつもより早く数人の姿があった。
パンとスープを前に静かに話す声、表情には少しばかりの緊張がにじんでいる。
窓の外では、薄曇りの空を鳩が横切っていく。まだ陽は高くない。
食堂にはパンの焼ける香ばしい匂いと、スープの湯気が立ち込めていた。
蒼汰は自分の席に着きながら、周囲の様子を観察していた。
マーサの料理は相変わらず美味しそうで、テーブルの上には蒸したじゃがいもと卵のサラダが並んでいる。
近くの席では、若い冒険者二人が地図を広げ、黙々と何かを確認していた。
「おはよう、蒼汰ちゃん。よく眠れた?」
マーサがエプロン姿で声をかけてくる。
「はい、ありがとうございます。……今日、ちょっと試してみたいことがあって」
「ふふ、それは楽しみね。気をつけてね」
蒼汰はうなずき、温かいスープに手を伸ばした。
体にじんわりと染み込んでいくその味に、気持ちが少し和らぐ。
食事を取りながら、蒼汰は昨日のノートを思い出す。
祝福品の転送。緊急時の対応手段。
(自分でも何かできることがある。なら……)
もっと多くの人に、このスキルが役立てば──。
朝食後、蒼汰は受付カウンターへ向かった。
ちょうどリーナがメモを整理しており、蒼汰に気づいて顔を上げる。
「おはよう、蒼汰さん。今日は……何か依頼、ですか?」
「いえ、今日は。ひとつ、提案というか……お願いに近いんですが」
蒼汰は革袋の中から包みを取り出し、机の上に置いた。
中身は昨日と同じ、ラベル付きの小瓶と簡易の包帯、乾燥果実。
「もし、冒険者の方でこういう補給品を必要としてる人がいれば、試しに届けてみたいんです。
僕のスキルで、直接その人のもとに“渡す”ことができます」
リーナは目を瞬かせ、包みと蒼汰の顔を交互に見つめた。
「……それって、“正式売却”、ですよね? 蒼汰さん、以前話してましたよね」
「はい。実際に使う場面が増えてきたので、今日はもう少し踏み込んで試してみようと」
蒼汰は少しだけ気恥ずかしそうに笑う。
「今はまだ実験段階です。でも、誰かの役に立てるならって思ってます」
リーナは頷き、目を細めた。
「実はちょうど、森の南の見回り班と連絡が取れてなくて。軽い接触があったって話も……補給が届いてないの」
言葉に重みがあった。受付嬢としての経験と、どこか心配する姉のような気配が、その目に浮かんでいた。
蒼汰はすぐに頷いた。
「その人の名前、教えてください。今すぐ送ってみます」
リーナは紙を取り出し、しっかりした筆致で名前を書いた。
「アドリナ・セルネ。巡回中の警戒班の一人です」
「セルネさん……分かりました」
蒼汰はその名を胸に刻むように繰り返し、革袋の中の小瓶を手に取った。
小さな緊張が胸の奥に生まれていた。
昨日までとは違う、見えない相手へ手を差し伸べる行為。
けれどそれは、初めて「自分の行動が誰かの命に繋がるかもしれない」と感じた瞬間でもあった。
(ちゃんと、届いてくれ……。こんな風に誰かの無事を願うなんて、いつ以来だろう)
空はまだ青く、けれど町の空気は昨日より確かに、張り詰めていた。
石畳の外には、風に揺れる布の音と、遠くで響く鍛冶場の金属音が交じっていた。
それでも蒼汰の中には、不思議な静けさがあった。
自分にできることを、ただ一つずつ──
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蒼汰は革袋の中から、小さな包みに入った薬草と回復薬、乾燥果実を取り出した。
一つずつ中身を確認し、簡易の布で丁寧に包む。
ラベルには、小さな文字で「支援物資」とだけ記されていた。
(今までは対面で渡すか、試しで近場にしか使ってこなかった。
本格的に“支援”として使うのは、これが初めてだ)
手元の包みを握りしめ、静かに息を整える。
「正式売却──アドリナ・セルネに」
言葉に集中しながらスキルを発動する。
右手から包みがすっと消えたとき、空気に微かな震えが走った。
それは、いつもよりも確かな手応えがあった。
(届いてくれ。どうか、間に合って……あの人が“欲しい”と、少しでも願っていてくれたなら)
気持ちの奥にある不安と期待が混じり合い、胸の奥がじんわりと熱くなる。
しばらくして、カウンターの奥にいたリーナが顔を上げた。
机の脇に置かれた魔導通信機の水晶が、かすかに光を放っている。
「……蒼汰さん。届いたみたい。セルネさんから“感謝と報告、受領済み”って」
「本当に……? よかった……」
蒼汰は胸に手を当て、そっと息をついた。
「内容の詳細までは書かれてなかったけど、“助かった”とだけ、簡潔に届いてる」
リーナの声には、少し安堵がにじんでいた。
蒼汰は再び深く息を吐いた。
(誰かの命に、少しでも触れられたのなら……)
「リーナさん、今後も必要があれば言ってください。補給でも道具でも……僕にできることなら、きっと届けられると思います」
「ええ、もちろん。あなたの力は本当に貴重だわ。最近は物資の調整も難しくて、あなたの存在が本当に助けになってる。
……無理はしないで。でも、頼らせてね」
蒼汰はこくりと頷いた。
空を見上げると、雲がゆっくりと流れていた。
朝の張り詰めた空気が、少しずつ動き出しているように感じる。
カウンターから離れ、受付の近くに置かれた長椅子に腰を下ろした。
手帳を取り出し、さっそく記録をつける。
『アドリナ・セルネ宛、支援物資:正式売却により転送完了。
反応:届いた。使用感想なし。今後の確認要』
ペン先を止めて、もう一行だけ加える。
『次に備える。渡せる相手を増やすための準備が必要』
ふと、後方で会話する冒険者たちの声が耳に届く。
「さっき、支援物資が届いたらしいな。スキルで直接送ったって話だ」
「ほんとか? どうやって届くんだ、それ」
「魔道具か何かを使ったんじゃないかって話だ。詳しくはわからないけど、冒険者の誰かがやったらしい」
蒼汰は黙って聞きながら、視線を手帳から窓の外へ移した。
誰かが噂している。
自分のしたことが、少しずつ波紋を広げ始めている。
それは怖くもあり、でもどこか、誇らしくもあった。
宿の広間には、いつも通りの朝の風景が戻ってきていた。
湯気を上げるスープ、椅子を引く音、笑い声、咳払い。
それらの音に紛れて、蒼汰はふと、自分が“ただの客”ではなくなりつつあるのを感じていた。
必要とされるということ。
期待されるということ。
前の世界では、そんなふうに誰かに求められることなんて、ほとんどなかった気がする。
それは少し重たいけれど、今の彼には確かに――嬉しかった。
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昼が近づき、宿の前を通る人通りも増えてきた。
市場のほうからは荷車のきしむ音が響き、通りすがりの客が店先の香辛料を覗き込んでいる。
気温も上がりはじめ、町はゆっくりと昼の顔を見せつつあった。
蒼汰は一度部屋に戻り、使い終えた封筒を整理していた。
補給物資の記録、スキル使用時の反応。
それらを簡単な表にして、効果や反応のパターンを記録しておく。
(この先、もっと数が増えても、混乱しないように)
ノートの端には「感謝の反応があると気持ちが落ち着く」と小さく書かれていた。
自分がどういう時に嬉しかったか。それも含めて、記録に残しておく。
窓辺からは、乾いた風がカーテンを揺らしていた。
その揺れに合わせるように、蒼汰の心も少しずつ落ち着いていく。
階下に降りると、マーサが広間に大きな布袋を持ち込んでいた。
腰に手を当てて、「ふぅ」と息をつく姿が印象的だった。
「蒼汰ちゃん、おかえり。ちょっと見てってくれる?」
布袋の中には、乾燥したパンの端切れや、甘い香りのする保存食の切れ端が入っている。
いずれも廃棄には惜しい、けれど商品としては中途半端なものたちだった。
「これ、ロジーさんの屋台の残り。ギルドが引き取り忘れたぶんでね。蒼汰ちゃんのスキルで売れるか見てみない?」
蒼汰は袋を覗き込み、いくつかの食材に触れてみる。
どれも品質は悪くないが、商品にならなかった理由もなんとなくわかる。
形が崩れている、乾燥しすぎている、香りが少し飛んでいる。
(でも、保存食としてなら十分。誰かが必要としていれば──)
試しに、一つを取り出して想像する。
『外で休憩中の冒険者、朝食を逃した人』
イメージが浮かび、名前のない“誰か”が浮かび上がる。
──正式売却、価格:2シエル。
「……やっぱり、売れる。買ってくれる人は、いるみたいです」
「そっか、それならよかった。これ、処分するには惜しくってね」
マーサの言葉に、蒼汰は首を縦に振った。
「必要な人がいるなら、僕がきちんと届けてみます」
「頼もしいわねぇ。……あ、そうそう。アイリスさん、あとで探してるって言ってたわよ」
「アイリスさんが?」
「なんか、“気になる本を見つけたから、後で読まない?”って。あの子らしいわね」
蒼汰は思わず笑みをこぼした。
その笑みに滲むのは、安心感と少しの照れだった。
(……誰かに頼られるのって、悪くない)
マーサは袋の口を結びながら、少しだけ声のトーンを落とした。
「蒼汰ちゃん、最近ほんとによく頑張ってるわよ。……でもね、無理しないで。蒼汰ちゃんが元気なのが一番」
「……うん。ありがとうございます」
その言葉は、そっと背中に手を添えられたような、温かさだった。
「じゃあ、これを片付けたら……行ってみます」
その声には少しだけ、軽さが戻っていた。
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本を抱えたアイリスは、陽だまりの窓辺の席に座っていた。
髪をひとつに結んで、静かにページをめくる姿は、まるで図書室の一隅にいる司書のようだった。
窓の外では、雲間から差し込む陽射しがカーテンを透かし、床に柔らかな模様を描いている。
広間には数人の客がいて、それぞれ静かに食事をとったり、書き物をしていた。
その空間の中で、アイリスは確かな“静けさ”の核だった。
蒼汰が声をかけると、彼女はすぐに顔を上げて微笑む。
「来てくれて、ありがとう。今日も忙しそうだったから、無理かと思ってた」
「ううん、大丈夫。ちゃんと間に合った」
アイリスは本を閉じ、胸元に抱えたまま席を詰める。
蒼汰もその隣に腰を下ろした。
「これ、少し前に手に入れたの。古い地方誌で、薬草の採取記録が載ってるのよ。魔力に頼らない保存方法もね」
ページを開きながら説明するアイリスの声は、いつもより少しだけ弾んでいた。
(……本当に、こうして座って話せる時間があるってだけで)
蒼汰の胸の中に、ほのかな安堵が広がっていく。
彼は本の中の図や文章を眺めながら、ページの隅にメモを書き込んでいくアイリスの様子を横目に見た。
指先の動き、丁寧な字、時折唇に浮かぶ笑み。
どれも、この町に根を張って生きている人間の時間そのものだった。
「この花、見たことある。町の外れ、岩陰に咲いてた」
「え、本当? 採れるなら、薬に使えるかもしれない」
「……でも、あんまり数はなかったな。背も低くて、ちょっと踏まれそうな場所で」
「なら、採取する前に囲いを作った方がよさそうね。自然と人の生活の境目って、難しいから」
二人の会話は静かで、どこまでも穏やかだった。
時間が少しだけ巻き戻ったかのように、戦いや不安と無縁の、素の世界に引き戻されていた。
アイリスの指が本のページをそっとなでる。
彼女にとって本は情報であると同時に、心を落ち着かせる儀式のようでもあった。
蒼汰はふと、目の前の静けさと、胸の内側で小さく脈打つ何かを感じ取った。
静かだけれど、確かに息づくもの。
「……アイリスさん。もし、僕のスキルで、もっと誰かの役に立てるなら、使い続けたほうがいいと思う?」
アイリスは驚いたように瞬きをして、それからそっと本を閉じた。
「それは、誰かが“救われた”って実感できた時に、自然と答えが出るんじゃないかな」
「……そう、か」
「でも、蒼汰くんのしていることは、私にはとても尊く見えるよ」
その言葉は、ゆっくりと、確かに胸に届いた。
蒼汰は自分の掌を見下ろし、少しだけ握って、また開いた。
スキルは確かに力だ。
でも、それを何に使うのかを決めるのは、いつだって自分自身。
(誰かの笑顔のために。それだけで、理由としては十分なんだ)
陽の光が傾き、窓の外の影が長くなっていく。
春の風がカーテンを揺らし、静かな時間の中に、小さな決意の芽が根を張る。
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