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第十八話『目に見えぬ兆し、ささやかな備え』

朝の光が、宿の壁をやわらかく染めていた。

昨日の疲れが少し残っているような体を起こしながら、蒼汰はノートを手に取った。


前夜に書いた記録をなぞるように読み返す。


『森の南。音が少なかった。鳥の声も、獣の気配も薄い。足跡はなし。だが、草が倒れていた。シュリは何かが通ったと言った』


読みながら、鉛筆の先で小さく追記する。


『森の手前、風向きが変わる。匂いに混じる焦げたようなにおい。周囲の反応はまだ薄い。が、気づいている者もいる』


一文書くごとに、心のなかで小さな重みが増す。

まだ何も起きていない。けれど、蒼汰の中には確かな“待機感”が芽生えていた。


(何かが起きる前に、準備しておかないと)


窓の外では、洗濯物を干す音や水を汲む声が響いていた。

宿の朝はいつも通りで、だからこそ、その“いつも”がどれほど脆いかを思い知らされる。


蒼汰はゆっくりと立ち上がり、革袋を手に取った。

財布の中身を確認する。

少し心許ない額だが、必要最低限の備えくらいは整えられるだろう。


階下に降りると、食堂ではマーサが朝食の準備をしていた。

湯気の立つスープと、焼きたてのパンの匂いが心地よい。


「おはよう、蒼汰ちゃん」


「おはようございます。……少し、買い出しに出ようと思って」


マーサは手を止め、蒼汰の顔をじっと見た。


「森で、何か感じたのね」


そのひと言に、蒼汰は驚く。

だが、否定する理由もなかった。


「……少しだけ。だから念のために。何かあった時、手ぶらじゃ不安で」


マーサは小さく微笑み、鍋の蓋をゆっくり閉じた。


「えらいわ。動けるうちに、動いておくのがいい。町のみんなが、同じように気づけたらいいのだけどね」


その言葉に、蒼汰は背筋を伸ばす。


「何かあった時、せめて誰かの手助けくらいはできるようにしたいんです」


「あなたのそういうところ、本当に好きよ」


柔らかな声に背を押され、蒼汰はパンを一切れとスープを急いで胃に流し込んだ。

扉を開けると、ひやりとした朝の空気が頬に触れた。


通りに出ると、陽光はまぶしく、石畳の上を歩く人々の影がゆっくりと伸びていた。

屋台の準備をする商人たちの手の動き、遠くで荷車を押す音、店先で立ち話をする老夫婦の笑い声。


そんな日常の景色の中で、蒼汰はどこか現実感の薄い感覚を抱いていた。

町がいつもの顔をしていることが、逆に恐ろしかった。


(昨日の森の静けさが嘘みたいだ)


革袋を握りしめ、足を速める。

今日は市場で保存食と薬草を少し。

あと、もしあれば簡単な護身具も──


頭の中で必要なものを整理しながら歩く。


(正式売却スキルでなら、冒険者に物を届けることもできる。今後、使い道を広げられるように考えよう)


視線の先では、少年が木箱を抱えながら小走りにパン屋へ向かっていた。

彼の背中が、なぜかまぶしく感じた。


(俺にも、できることがあるはずだ)


朝の日差しが、前を照らしていた。


---


市場に到着したのは、ちょうど商人たちが屋台を整え終えた頃だった。

朝の光に照らされた布屋根が風に揺れ、どこか気だるげな香辛料の匂いが鼻先をくすぐる。


蒼汰は通りを一本ずつ歩きながら、保存食や薬草の露店を見て回った。

目当ての品はすぐに見つかったが、値段は先週より少し上がっている。


(やっぱり……需要が増えてきてるのか)


値札に小さく書かれた「備蓄用」の文字が、胸の奥に静かに響く。


乾燥キノコと根付きの薬草を数点購入した後、彼はふと広場の方角へ足を向けた。


そこでは、数人の冒険者が小声で何かを話していた。

その中に見知った顔があった。


「……あ、蒼汰!」


陽に焼けた顔のフィオが、片手を上げて近づいてくる。


「おはよ。相変わらず早いな」


「おはようございます。フィオさん、何か……あったんですか?」


「うーん、まだ確定じゃないけどね。森の西の方でも、音が少ないって。動物がまったく姿を見せないとか」


「……西も、ですか」


蒼汰の表情が強張る。


フィオの後ろに立つ仲間たちも、深刻そうな顔をしていた。


「ギルドじゃ警戒用の小規模調査が増えてる。今は常連しか受けられないみたいだけど、念のため気をつけてね」


「ありがとうございます。僕も、できることから備えておこうと思ってます」


その言葉に、フィオは微笑んで頷いた。


「そういうところ、変わらないね。じゃ、また」


彼女たちは次の目的地へと歩いていった。


蒼汰はしばらくその背中を見送った。


(森の南だけじゃない……西でも。

 これは、偶然なんかじゃない)


目を伏せたまま、蒼汰は露店の棚に並ぶ粗末な小刀を見つめた。


装飾も何もない、ただの鉄の塊。

けれど、今の自分にとって、それは十分に意味のある道具だった。


革袋の中の小銭を数え、躊躇いながらも一振り選ぶ。


(使わないで済めば、それでいい。でも……)


小さく息を吐き、袋に小刀をしまった。


そのまま歩き出すと、すぐ近くの路地に、小柄な少女が荷車を押しているのが目に入った。


「あ……おはようございます」


顔を上げると、そこにいたのはラティナだった。


腕には包帯が巻かれたままだが、動きは軽快で、表情にも張りがある。


「ラティナさん、もう大丈夫なんですか?」


「うん、もう平気。森の方には行かないようにしてるけど……お店の手伝いくらいはしないとって」


荷車の中には乾物と野菜が詰め込まれていた。


「なんだか、最近どこも忙しそうですね」


「うん……ギルドの人も、お客さんも、ちょっと緊張してるっていうか。なんとなく、空気が違う気がする」


蒼汰は頷いた。


「僕も、今日はその準備で買い物してるんです」


「そっか……えへへ、なんか、心強いな」


ラティナは荷車の取っ手を握り直し、笑った。


「蒼汰さんも気をつけてね。また宿で!」


彼女の背を見送りながら、蒼汰はそっと革袋の重みを確かめた。


(正式売却で、何か届けられるよう準備もしておこう。宿の人や冒険者の誰かに必要な物を、即座に渡せるように)


そこには、昨日までにはなかった“決意”が、確かに詰まっていた。


---



午後に差し掛かった市場の空は、朝よりも少し白んでいた。

陽射しが屋台の布屋根に淡い影を落とし、時折吹く風が紙袋をはためかせる。


蒼汰は買い物を終えたあとも、しばらく市場の空気を感じながら歩き続けていた。

革袋の中には、小刀、乾燥キノコ、薬草、それに数点の雑貨。


何かが起きたとき、それらが役に立つとは限らない。

けれど、“備える”という行動自体が、彼にとっては確かに一歩だった。


「おかえり」


通りの端で声がして、振り返るとそこにはシュリがいた。

蒼汰が荷物を持って出たのを見て、自分もふらっと出てきたのだという。


「市場までは来てないよ。近くまでね」


彼女は手をひらひら振って、特に理由もないといった風に笑った。

髪が風に揺れ、陽を受けて銀色にきらりと光る。

その姿は、まるで町のざわめきの中でも一際異彩を放っていた。


「町の空気、変わってきてるよね」


「うん……みんな、はっきり言わないけど、どこか落ち着かない感じがする」


蒼汰は通りすがりの人々の顔を見やった。

慌てるわけではないが、どこか足早な様子。

買いだめをする人も少しずつ増えてきている。


屋台では、保存食を手にする手が多く、乾いた果実や干し肉が飛ぶように売れていた。

ある老婆は袋を二つも抱えて去っていく。

それは“何かを予感している者の動き”にしか見えなかった。


「ギルドの依頼も、備蓄関連が増えてるって。情報を持ってる人は、もう動いてる」


シュリはぽつりと呟いた。


「……私が祝福したものを、みんなに渡せればいいんだけどな~」


その言葉に、蒼汰は足を止めてシュリを見た。


「それ、試してみようか? 俺にはそういうスキルがある。『正式売却』っていうんだけど……欲しい相手に、直接物を“渡したことにできる”んだ」


「へぇ……そんなスキル、あるんだ? それ、めっちゃ便利じゃん!」


蒼汰は頷く。

「今は小規模でも、備えの方法は模索しておきたい。たとえば、シュリにしか使えない薬品を、俺のスキルで直接送れるなら、それは戦力になる」


「それなら、あたし用の祝福品、夜にでも作ってみるよ」


二人は歩きながら、必要なものについて簡単にメモを取り合った。


一人で考えるよりも、こうして誰かと話すことで、次にやるべきことが自然に見えてくる。

それは孤独を感じていた蒼汰にとって、小さな安堵でもあった。


「……ねえ、蒼汰ちゃん」


「ん?」


「こうやって、備えるのって悪くないね。怖がるのと違うし、ちゃんと自分で立てるって感じがしてさ」


「うん。俺も……今はまだ弱いけど、少しずつでも、何かできるようになりたい」


ふと、蒼汰は足を止めた。


広場の片隅、冒険者ギルドの掲示板に、一枚の紙が新しく貼られている。

『警戒区域:森南~西部境界/監視強化のため外出時はギルド受付へ申告』


(……やっぱり、ただの気のせいじゃなかった)


小さな紙一枚。

けれど、それが蒼汰にとっては、町が“構えた”ことを示す明確な証拠だった。


風が吹いて、貼り紙の端がかすかに揺れる。

人々は気づかぬふりをして通り過ぎていくが、目だけがその文字を静かに追っていた。


掲示板の下では、幼い姉弟がじゃれあっていた。

二人の笑い声は無邪気だったが、その母親の目は、時折掲示板をちらりと見ていた。


蒼汰はそのまま背を伸ばし、もう一度革袋を握り直した。


「じゃあ、夜に試してみようか」


「うん。……きっと、すごく役に立つよ」


どこか嬉しそうに笑うシュリに、蒼汰もつられて笑みを返した。


未来の不安は消えない。

けれど、それに備えようとする意志は、確かにそこにあった。


---


夜の帳が町を包み込む頃、宿の灯りが一つ、また一つと灯っていった。

風が肌を撫でるように冷たく、通りを行く人々の影も心なしか急ぎ足に見える。


蒼汰は自室で机に向かい、小さな袋と薬草を並べていた。


シュリの言っていた「祝福品」。

それをどう安全に届けるか、自分のスキルでどこまで扱えるのか。

今夜は、その実験をするための準備だった。


手元には、彼女がくれた小瓶がある。

中には淡く光る液体が入り、ほんのり甘い香りが漂っていた。


「……これが、祝福の残るもの」


ラベルに小さく書かれた文字には、“集中力増幅”と記されている。

飲めば一時的に思考が冴えるという効果らしい。


(こういうのを届けられたら、確かに役に立つ)


蒼汰は深呼吸し、革袋の中からギルドで使っていた封筒を取り出した。

封をせずに中に小瓶を入れ、シュリの名を思い浮かべる。


部屋の灯りは一本のロウソク。炎がゆらゆらと揺れ、壁に蒼汰の影を映し出していた。


「正式売却──」


言葉と共に、手の中の空間が淡く光った。

次の瞬間、小瓶がふっと消える。


(これで、“渡した”ことになった。あとは──)


これは自分のためではなく、シュリにこの仕組みを体験してもらうための“見せるための実践”だった。


部屋の外から足音がして、すぐにノックの音が響いた。


「蒼汰ちゃーん、ありがとー」


扉が開き、笑顔のシュリが小瓶を手に持って立っていた。

その表情はどこか感心しているようでもあり、ちょっとだけ興奮したようでもあった。


「これ、今もらったやつでしょ? すっごく自然でびっくりしたよ。蒼汰ちゃんから渡されてポケットに入れたって感じだった!」


「そういう仕組みなんだ。“持ってる”ことになる。周りから見ても違和感なく、“今、手渡された”って認識される」


「うわぁ……めっちゃ便利。これ、戦場で使えたら本当に助かるよ」


シュリは小瓶を手の中で転がしながら、ふむふむと頷いた。

「これ、ラティナちゃんにも教えたいな。あの子、荷物多くて困ってたし」


「必要な人に、ちゃんと必要な物が届く。そういう使い方を考えてる」


蒼汰は胸の奥にあった不安がほどけるのを感じた。

できる。

たとえ魔力がなくても、スキルを使えば“助ける”ことはできる。


「ありがとう、試してくれて」


「こちらこそ~。おかげで、すっごく面白いこと思いついた!」


「面白い……?」


「んふふ、それは明日のお楽しみってことで!」


蒼汰は苦笑しながら、部屋の扉が静かに閉じるのを見送った。


静寂が戻った部屋に、ロウソクの火が小さく揺れていた。

外では虫の声が響き、遠くから誰かが笑う声がかすかに届く。


蒼汰は椅子に座ったまま、机の上のノートに視線を落とした。


「……これが、俺にできる“備え”なんだな」


ページの端には、今夜使った小瓶と同じものがもう一つ置かれていた。

手書きのラベルには、丁寧に“回復支援用”と記されている。


窓の外では、誰かが階段を登る音が聞こえ、遠くの部屋でドアが開いて閉まる音が続いた。

町の中はまだ静かに動き続けている。


蒼汰はペンを手に取り、ノートの余白に小さく記した。


『祝福品の転送、成功。効果、使用者確認済。緊急時の支援方法に活用の可能性あり』


そしてその下に、もう一文を付け加えた。


『明日は、もう少し勇気を出して、他の人にも提案してみようと思う』


灯りがかすかに揺れる。

書き終えたページを見下ろしながら、蒼汰は息をついた。

「……明日も、できることをしよう」


---


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