第十七話『ひとつの勇気、静かな選択』
朝の光が、石造りの窓をやわらかく照らしていた。
夜の名残を静かに押し返すようなその金色の光は、宿の壁に淡く反射し、目覚めの気配を運んでくる。
蒼汰は布団の中で目を覚ました。
体の芯に残るぬくもりを感じながらも、胸の奥は、昨日から続くある種のざわめきを抱えていた。
ラティナが無事に戻ってきたこと。
自分は何もできず、ただ見ているしかなかったこと。
(……俺にも、できることがあるなら)
そう思った瞬間には、もう身体が動いていた。
廊下に出ると、まだ誰の足音もない。
足元から伝わる冷たい床の感触が、身体をしゃんとさせる。
微かな木材の匂いと、静けさの中に息づく空気の流れが、確かに朝が始まったことを告げていた。
食堂へ向かい、棚から掃除用の雑巾とバケツを取り出す。
静寂の中で水を汲む音が、宿の空気をわずかに揺らす。
バケツの水面に揺れる光が、まるで誰かの目のように、蒼汰の心の奥を見つめ返してくるような気さえした。
蒼汰は、無言でテーブルを一つひとつ拭き始めた。
(こういうことなら、俺にもできる)
それだけで、ほんの少し心が軽くなる。
木目に沿って布を滑らせる手元に集中すると、余計な思考が静かに遠ざかっていく。
拭き終わったテーブルの表面に、淡い朝の光がにじむ。
ほんのわずかでも、自分が関わったことで誰かの朝が快くなれば。
その想いが、無言の手の動きに変わって伝わっていくようだった。
「……蒼汰ちゃん?」
背後から声がして、振り返ると、マーサが廊下に立っていた。
髪はまだ無造作にまとめられていて、エプロンもつけていない。
寝起きの顔なのに、目元はすでに優しく緩んでいた。
「もう起きてるの? こんなに早く……」
「はい。なんとなく目が覚めて……ちょっと、掃除でもしようかなって」
言いながら、蒼汰は照れくさそうに雑巾を絞った。
マーサはその様子をしばらく見つめ、静かに近づいてきて、そっと肩に手を置いた。
「ありがとう。誰にも頼まれずに誰かのために動けるのって、すごく素敵なことよ」
その声は、朝の空気と同じくらい柔らかだった。
言葉の一つひとつが、心に染み込んでくるようだった。
「昨日、ラティナちゃんのことを見て、きっと何か思ったのよね?」
蒼汰は思わず顔を上げた。
マーサの瞳は優しく、深く、すべてを包み込むようなあたたかさを宿していた。
「あなたは、ただ優しいだけじゃない。ちゃんと、自分の中に行動する力を持ってる子だと思うの。焦らなくていいわ。大きなことじゃなくていい。こうやって、目の前にあることをひとつずつやっていけば、必ず誰かの力になれるの」
その言葉が、じんわりと胸の奥に広がった。
蒼汰は小さく頷き、言葉を絞り出すようにして答えた。
「……ありがとうございます」
そのとき、階段の上から足音が聞こえてきた。
「おっはよ〜」
寝癖を跳ねさせた銀髪を揺らしながら、ふにゃっと笑ったシュリが降りてきた。
目元にはまだ眠気が残っているものの、彼女の表情はどこか安心したようにも見えた。
「ふわぁ……二人とも早いねぇ」
「おはよう、シュリ」
「おはよ〜……ごはん、ある?」
「今から作るわよ。もう少し待っててね」
マーサが明るく答え、ゆったりとした足取りで台所へと向かっていく。
その背中には、今日も変わらず、包み込むようなあたたかさがあった。
蒼汰とシュリは、窓際の椅子に並んで腰を下ろした。
カーテンの隙間から差し込む陽光が、まだ肌寒さの残る空気の中で、机の上にやさしい模様を落としていた。
ふと、外の通りから荷車の軋む音が聞こえた。
早起きのパン職人が、小麦の袋を積んで配達に出るのだろう。
その日常の音さえも、蒼汰の心には心地よく響いていた。
大きな変化は、まだ何も起きていない。
けれど、何かが静かに動き出している──そんな予感だけは確かにあった。
蒼汰はその感覚を胸に、今日という日をまっすぐに見つめていた。
朝食を終える頃には、宿の中にもいつもの賑やかさが戻りつつあった。
蒼汰は皿を片づけた後、食堂の隅で小さなため息をついた。
静かな時間が終わり、町も本格的に動き出す。
今日は、外の空気をもう少し深く吸い込んでみたい。
「ねえ、蒼汰ちゃん。もしよかったら、今日、一緒に市場行く?」
不意にかけられた声に振り返ると、シュリが紅茶のカップを両手で包み込むようにして見つめていた。
「ちょっと見たいものあるし、でも……方向、また間違えるかもだし。あたし、ひとりだと心配で」
シュリは笑いながらも、どこか拗ねたように頬を膨らませた。
「もちろん。俺もちょうど行くところだったから」
蒼汰が頷くと、シュリはぱっと笑顔になった。
「やった〜! じゃ、準備する〜」
そう言って部屋に戻っていくその背中を見送りながら、蒼汰も上着の裾を整えた。
──町は今日も静かに目覚めていた。
外に出ると、朝の冷たい風が鼻先をくすぐった。
陽射しは穏やかで、石畳を歩く人々の影が長く伸びている。
宿の前を通りすぎる商人たちの笑い声や、パン屋から香ばしい匂いが漂ってきて、朝の活気が町に満ちているのを感じさせた。
市場へ向かう道すがら、蒼汰とシュリは並んで歩いた。
「ねえ、昨日さ……あの、ラティナちゃん。無事でよかったね」
「うん……本当に」
蒼汰は頷きながら、昨日の出来事を思い出していた。
あの細い腕、泥にまみれた顔、震えていた声。
(誰もが、あんな風に突然、危険に巻き込まれるかもしれない)
(その時、俺は……何もできないまま立ちすくんでいた)
「……何かあった時にさ、あたし、祝福とか使えるけど……」
ふいに、シュリがぽつりと呟いた。
「でも、間に合わなかったらって、思うとさ……少し、怖い」
「……同じだよ。俺も何もできなかったし。だから、少しずつでもできることを増やしていきたいなって、思ってる」
シュリはふにゃっと笑った。
「うん、それ、あたしも。のんびりだけど、進もう~って」
朝の風に吹かれながら、二人は小さく笑い合った。
やがて市場が見えてきた。
木製の屋台が通り沿いにずらりと並び、干し魚や色鮮やかな果物、布地や陶器が彩り豊かに広がっている。
香辛料の香りが風に乗って鼻をくすぐり、どこか異国の空気を感じさせた。
シュリはさっそく布の屋台へ走っていき、ひとつひとつ触れては「これ可愛い」と呟いている。
蒼汰は少し離れた場所から、ふと周囲に目を向けた。
市場の一角では、数人の冒険者風の男女が話し込んでいた。
耳に入ったのは「森の南」「動物が消えた」「地面が掘られていたような跡が」などの断片的な言葉。
(……また何か、あるのかもしれない)
心の中に、冷たいものがじわりと滲んでいく。
けれどその一方で、背筋が自然と伸びていく感覚もあった。
「……ねえ蒼汰ちゃん、あとでさ、森の近く……ちょっとだけ見に行ってみない?」
「……そうだな。行ってみようか。無理しない範囲で、少しだけ」
言葉を交わす声は軽い。
でも、その奥にあるものは、静かに澱のように深かった。
ふと、蒼汰は手にしていた布の端を、指先でそっとなぞった。
その感触は、どこか今の自分にとって必要な“繋がり”のように思えた。
気づかないうちに、ふたりの歩幅はそろっていた。
踏み出したその足は、確かに昨日より少しだけ、遠くを目指していた。
---
昼下がりの陽射しは、朝の清涼さをそのまま残しつつ、わずかに緩んだ暖かさを帯びていた。
市場での買い物を終えた蒼汰とシュリは、町の東門を抜けて、森へと続く小道に足を向けていた。
「……このへん、あたし初めてかも」
「俺も、近くまでしか来たことなかったけど。今日は少しだけね」
町の外に出るのは、それだけでほんの少しの緊張を伴った。
けれど今の蒼汰には、その緊張を超えて確かめたくなるものがあった。
石畳の道が土に変わり、やがて木立の影が地面に編み模様を描き始める。
風は木々の隙間を抜けて、少しひんやりとした匂いを運んでくる。
小さな虫の羽音が、かすかに耳に触れるたびに、森の気配がすぐそこにあることを教えてくれた。
森の手前に立つと、そこはすでに日常の気配からわずかに隔てられた世界だった。
「……静かすぎない?」
シュリが足を止め、耳を澄ませるようにあたりを見回す。
けれどその目は、警戒よりも観察に近く、状況を正確に捉えようとする鋭さがあった。
「鳥の声……少ないな」
蒼汰も同じ違和感を覚えていた。
普段なら聞こえるはずの羽音や獣の気配が、今はほとんど感じられなかった。
地面に目をやると、草がところどころ荒らされたように倒れている。
「誰かが通った、のかな……?」
「でも、足跡はないよ。動物なら踏み跡がもっとばらばらになるし、これは……不自然な静けさだね」
そう言ったシュリの声は落ち着いていて、むしろ蒼汰よりも余裕があった。
彼女は赤い瞳を細め、木々の奥へと意識を向けるようにしてから、軽く頷いた。
「まだ近くにはいない。でも、気配がある。少し前に、何かがここを通ったと思う」
その断言に、蒼汰は内心で驚いていた。
同じ場所に立っていながら、自分では何も感じ取れなかったものを、彼女は確かに捉えている。
二人は並んで腰を下ろし、しばらくのあいだ無言で森を眺めていた。
木々の間から差し込む光は揺らぎ、葉の影が二人の足元に不規則な模様を落としている。
空気は澄んでいるのに、何かが欠けているような、そんな不安が胸の奥に広がっていく。
(……この感覚、なんだろう)
耳を澄ませても、風の音しか聞こえない。
それが余計に不気味だった。
「蒼汰ちゃん。もし何か来たら、あたしが守るから」
不意にかけられたその言葉に、蒼汰は顔を向けた。
「……シュリ?」
「うん。だって、あたし、こう見えても王都で冒険者してたし、けっこう強いよ?」
にこっと笑う彼女の笑顔は、あくまでいつも通りのふにゃっとしたものだったが、背後には確かな自信があった。
「……ありがとう」
蒼汰は、静かにそう答えた。
心の中に、小さな安心が灯る。
「でもさ、そういう時こそ、見逃さないようにしなきゃって思うの」
「昨日、ラティナちゃんを見て思ったんだ。助かったのは偶然かもしれない。だからこそ、何かを見逃しちゃいけないって」
蒼汰の指先が、地面に落ちた小枝をそっとなぞった。
枯れたそれは、どこか脆く、自分の無力さと重なって見えた。
(ここで、何かが起きようとしている。そんな気がする)
けれど、それが何なのかはまだ言葉にならない。
目に見えない何かが、この森の奥で静かに蠢いている。
「……今日はここまでにしようか」
「うん。深入りはよくないしね」
二人は立ち上がり、静かに森に背を向けた。
そのとき、ほんの一瞬、蒼汰は背後に気配のようなものを感じて振り返った。
だが、そこには何もいなかった。
ただ木々が風に揺れ、葉の擦れる音が遠く、耳の奥に残っていた。
帰り道の空は、高く澄んでいた。
それなのに、蒼汰の胸の中には、なにか重たいものが小さく沈殿していた。
森の奥で何が起きているのか。
それを知るには、きっともっと近づかないといけない。
けれど、それはまた、別の日の話だった。
---
森から戻る道すがら、蒼汰とシュリは言葉少なだった。
けれどその沈黙は、気まずさではなく、互いの考えを噛みしめるような静けさだった。
町の石畳が見えてきたとき、どこか懐かしい温もりが胸に広がる。
あの森の静寂とは対照的に、ここには人の営みの音があった。
パン屋の窯から立ち昇る煙、店先で交わされる軽口、馬の蹄が地面を叩く乾いた音。
焚き火の匂いと焼き立てのパンの香りが混ざり合い、石壁に陽がまだらに落ちている。
「なんだか……町って安心するね」
蒼汰がぽつりと呟くと、隣を歩くシュリが頷いた。
「うん。でも、安心できる場所を守るのって、けっこう大変なんだよね」
何気ない言葉のようでいて、その奥には覚悟があった。
宿に戻ると、マーサがちょうど昼食後の片付けをしていた。
二人の顔を見るなり、タオルを手にしたまま、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。二人とも、無理はしなかった?」
「うん、大丈夫。ただ、ちょっと森の方が……静かだった」
蒼汰の返事に、マーサは少し表情を曇らせた。
「……あのあたり、最近なんだか落ち着かないのよね。冒険者の話でも、ちょくちょく耳にするわ」
「何かが起きる前に、備えておかないと」
マーサの言葉に、蒼汰は頷いた。
心のどこかで、町の外に迫り来る気配を確かに感じ始めていた。
その後、シュリは気だるげに「ちょっと寝る~」と自室へ消え、蒼汰も自分の部屋へ戻った。
扉を閉めた瞬間、静けさが降りてくる。
壁には夕暮れの色が映り込み、室内の空気が淡く橙色に染まっていた。
カーテンを揺らす微かな風が、今日一日の重たさをふわりと撫でてくれるようだった。
蒼汰は荷物を机の上に置き、使い慣れたノートを開いた。
鉛筆を手に取り、手のひらでページを軽くなぞる。
そこには、昨日までのいくつもの記録が並んでいた。
『森の南。音が少なかった。鳥の声も、獣の気配も薄い。足跡はなし。だが、草が倒れていた。シュリは何かが通ったと言った』
手は自然と動いていた。
今はまだ答えは出ない。
けれど、こうして記録を残すことが、明日への繋がりになると信じたかった。
(自分の感じた違和感を、忘れないために)
(いつか、それが誰かの役に立つかもしれない)
そんな思いが、言葉に形を与えていく。
窓の外では、誰かが薪を割る音が響いていた。
その規則的な音が、どこか、蒼汰の胸に安心を与えていた。
町は、今日も変わらずここにある。
誰かの手によって、守られ、動き続けている。
そして、自分もまた、その輪の中に少しずつ入れてもらえている──そんな気がした。
蒼汰は窓辺へ歩き、小さく開けた窓から外の空を仰いだ。
空はゆっくりと茜色から藍色へと変わっていく途中だった。
西の空には一番星が浮かび始めている。
(明日も、できることを探そう)
そう心に誓って、蒼汰はそっとノートを閉じた。
紙の端が夕日を受けて金色に光り、そのまま静かに闇へと溶け込んでいった。
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森から戻る道すがら、蒼汰とシュリは言葉少なだった。
けれどその沈黙は、気まずさではなく、互いの考えを噛みしめるような静けさだった。
町の石畳が見えてきたとき、どこか懐かしい温もりが胸に広がる。
あの森の静寂とは対照的に、ここには人の営みの音があった。
パン屋の窯から立ち昇る煙、店先で交わされる軽口、馬の蹄が地面を叩く乾いた音。
焚き火の匂いと焼き立てのパンの香りが混ざり合い、石壁に陽がまだらに落ちている。
「なんだか……町って安心するね」
蒼汰がぽつりと呟くと、隣を歩くシュリが頷いた。
「うん。でも、安心できる場所を守るのって、けっこう大変なんだよね」
何気ない言葉のようでいて、その奥には覚悟があった。
宿に戻ると、マーサがちょうど昼食後の片付けをしていた。
二人の顔を見るなり、タオルを手にしたまま、ほっとしたように笑みを浮かべた。
「おかえりなさい。二人とも、無理はしなかった?」
「うん、大丈夫。ただ、ちょっと森の方が……静かだった」
蒼汰の返事に、マーサは少し表情を曇らせた。
「……あのあたり、最近なんだか落ち着かないのよね。冒険者の話でも、ちょくちょく耳にするわ」
「何かが起きる前に、備えておかないと」
マーサの言葉に、蒼汰は頷いた。
心のどこかで、町の外に迫り来る気配を確かに感じ始めていた。
その後、シュリは気だるげに「ちょっと寝る~」と自室へ消え、蒼汰も自分の部屋へ戻った。
扉を閉めた瞬間、静けさが降りてくる。
壁には夕暮れの色が映り込み、室内の空気が淡く橙色に染まっていた。
カーテンを揺らす微かな風が、今日一日の重たさをふわりと撫でてくれるようだった。
蒼汰は荷物を机の上に置き、使い慣れたノートを開いた。
鉛筆を手に取り、手のひらでページを軽くなぞる。
そこには、昨日までのいくつもの記録が並んでいた。
『森の南。音が少なかった。鳥の声も、獣の気配も薄い。足跡はなし。だが、草が倒れていた。シュリは何かが通ったと言った』
手は自然と動いていた。
今はまだ答えは出ない。
けれど、こうして記録を残すことが、明日への繋がりになると信じたかった。
(自分の感じた違和感を、忘れないために)
(いつか、それが誰かの役に立つかもしれない)
そんな思いが、言葉に形を与えていく。
窓の外では、誰かが薪を割る音が響いていた。
その規則的な音が、どこか、蒼汰の胸に安心を与えていた。
町は、今日も変わらずここにある。
誰かの手によって、守られ、動き続けている。
そして、自分もまた、その輪の中に少しずつ入れてもらえている──そんな気がした。
蒼汰は窓辺へ歩き、小さく開けた窓から外の空を仰いだ。
空はゆっくりと茜色から藍色へと変わっていく途中だった。
西の空には一番星が浮かび始めている。
(明日も、できることを探そう)
そう心に誓って、蒼汰はそっとノートを閉じた。
紙の端が夕日を受けて金色に光り、そのまま静かに闇へと溶け込んでいった。




