第十六話『静かな傷、つながる声』
朝の光が、細い格子窓を柔らかく撫でていた。
石造りの壁に反射した淡い光は、まるで水面のように、静かに揺れている。
蒼汰は、ぼんやりとその光を見つめたまま、布団の中で息を潜めていた。
(……もう朝か)
耳を澄ますと、遠くから鳥のさえずりが微かに聞こえた。
薪を燃やす匂いが、かすかに鼻先をかすめる。
ゆっくりと体を起こすと、冷えた石床から伝わる冷気が、素足にじわりと沁みた。
肩まで伸びた黒髪を手櫛で整えながら、蒼汰は着替えに手を伸ばす。
リリアンに仕立て直してもらった服。
袖を通すたびに、少しずつ馴染んでいく布の感触。
しかし、胸元のふくらみは、今日もシャツの中で確かに主張していた。
(……慣れたわけじゃない。ただ、見ないようにしているだけだ)
苦い思いを噛み殺しながら、胸元の布をそっと撫でる。
それから、気持ちを切り替えるように深呼吸し、部屋を出た。
階段を降りると、ふわりとハーブと焼きたてのパンの香りが迎えてくれた。
朝の光が、食堂の木製テーブルを金色に染め上げている。
「おはよう、蒼汰ちゃん。今日もいい天気よ」
エプロン姿のマーサが、にこやかに手を振った。
彼女の胸元には、昨日とは違う花模様の刺繍が施されていた。
「……おはようございます。今日も、温かいですね」
まだ少し硬い声でそう答えると、マーサは笑って、スープ皿をカウンター越しに差し出した。
温かいハーブスープと、こんがりと焼かれたパン。
蒼汰はスプーンを取り、ゆっくりと一口、スープを啜った。
ハーブの香りと野菜の甘味が、じんわりと体の芯まで染みわたる。
冷えていた心まで、少しずつ溶けていくようだった。
「今日もどこか行くの?」
「ええ、市場に……少し、仕入れを」
マーサはうんうんと頷きながら、パンにバターを塗っていた。
「気をつけるのよ。町の外れで、ちょっと不穏な噂も聞いたから」
「……わかりました」
言葉を交わすたびに、心にほんの小さな灯りが灯る気がした。
ここは、戦う場所じゃない。生きる場所だ。
──そのとき。
「おっはよ〜」
ふわふわとした声と一緒に、シュリが階段を降りてきた。
銀髪が寝癖で跳ね、赤い瞳はまだ眠たげだ。
「おはよ、シュリ」
「うへへ……いい匂い〜……」
眠たそうに鼻をくんくんさせながら、蒼汰の向かいに腰を下ろす。
シュリの無防備な仕草に、思わず頬が緩んだ。
(この町で、少しずつ……俺も、居場所を作れているのかな)
そんなことを考えながら、パンをちぎって口に運んだ。
「今日、何するの〜?」
「市場に行って、少し買い付け。様子も見ておきたくて」
「ふふん、あたしも気が向いたら出かけようかな〜」
シュリがふにゃっと笑い、マーサも後ろでくすくす笑っている。
蒼汰はスープを飲み干し、ゆっくりと立ち上がった。
「じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃい。気をつけてね」
マーサが手を振り、シュリも両手をばたばたさせながら見送ってくれた。
扉を開けると、朝の冷たい空気が頬を撫でた。
遠くで鐘の音が鳴り、石畳の道に人々のざわめきが満ちていく。
(今日も、一歩ずつ……)
肩に入っていた力をそっと抜いて、蒼汰は市場へ向かって歩き出した。
朝の陽光が石畳を柔らかく照らし、町全体がゆっくりと目覚める気配を漂わせていた。
市場へ続く通りは、すでに多くの人で賑わい始めている。
野菜を積んだ荷車を押す農夫、朝食用のパンを抱える子ども、香辛料を売る商人。
石造りの建物と建物の間に差し込む光は、まるで川の流れのように、道行く人々を柔らかく包んでいた。
(……こんなにたくさんの人が、それぞれの今日を生きている)
そんな当たり前の光景が、今朝はなぜか胸にしみた。
蒼汰はそっと革袋を抱え直す。
肩に下げた小さな袋には、今日使う分だけの資金。
残りは宿の部屋に置いてきた。
不用意に持ち歩いて奪われでもしたら、今の自分には立ち直れない。
(今日も、ちゃんと稼がないと……)
そんな決意を胸に、石畳を一歩一歩踏みしめていく。
最初に立ち寄ったのは、乾燥保存食を扱う屋台だった。
木箱に山盛りに積まれた乾きキノコや干し果実。
粗末な布の屋根から、陽の光がまだらに差し込んでいる。
「よぉ、兄ちゃん……おっと、姉ちゃんか?」
屈託のない笑顔を向ける商人に、蒼汰は小さく会釈を返した。
(……まぁ、どっちでもいいか)
市場の雑踏の中では、いちいち訂正するだけ無駄だ。
だけど。
ほんの少しだけ、胸の奥がざらつく感覚が残った。
(もし、ちゃんと……男として生きられたら、こんな風に引っかからなくて済んだんだろうか)
そんな考えを振り払うように、蒼汰は木箱に視線を落とした。
(……質はまあまあ。値段次第だな)
目利きは、もう自然と身についている。
短い言葉を交わし、必要な分だけをまとめて購入すると、蒼汰は人目の少ない路地へと移動した。
人気のない影の中で、革袋の中身に手を当てる。
《正式売却》
青白いウィンドウがふわりと浮かび上がった。
《用途:冒険者用携行食》
《売却価格:1,100シエル》
(よし、まずまず)
利益は小さいが、確実な一歩だ。
そっと袋を叩いて整え、再び市場の喧騒へと戻る。
通りを歩いていると、ふいに聞き覚えのある声が飛んできた。
「……あっ!」
振り向くと、赤毛を三つ編みにした女性が手を振っていた。
灰の道標の一員、フィオだ。
「やっぱり君だ! この前、鉱石売ってくれたよね!」
「……ああ、覚えてる」
フィオは満面の笑みで駆け寄ってきた。
背後には、短髪の剣士ゼヴと、ローブ姿の魔術師ミーナもいる。
「また何かいいもん仕入れたら、教えてよ!」
フィオの無邪気な言葉に、蒼汰は小さく笑って答えた。
「気にしておくね。……ところで、今日は?」
「うん、今日は森の南のほうをちょっと偵察してきたの。まだ平和だけど、なんか、地面の掘り返し跡とかあってさ」
フィオが眉をひそめる。
ゼヴも無言で頷いている。
(森の南……少し気にしておこう)
まだはっきりした異変ではない。
でも、小さなほころびは、いずれ大きな傷になるかもしれない。
軽く保存食を譲り渡し、礼を言われながら別れると、蒼汰は再び通りに溶け込んだ。
(こうして、少しずつでも顔を知っている人が増えていくのは……悪くない)
春の匂いを含んだ風が、石畳をさらさらと撫でていく。
遠くで鐘の音がひとつ、澄んだ音を響かせた。
小さなつながりが、確かにここにある。
蒼汰は、もう一度革袋を確かめながら、静かに歩き出した。
午後も深くなり、市場の賑わいも少しずつ落ち着きを見せ始めていた。
蒼汰は革袋に手を当てながら、ゆっくりと宿への帰路を辿っていた。
石畳を踏みしめるたび、革靴越しに伝わる感触が、確かに一歩前に進めたという実感をもたらしてくれる。
(……もうすぐ、夕飯の支度の匂いが漂ってくる頃か)
そんなことを考えながら、宿の前まで戻った時だった。
玄関先が、妙に騒がしい。
扉が開け放たれ、中から慌ただしい人影と、ざわめく声が漏れ出している。
「あっ、蒼汰ちゃん、手を貸して!」
マーサの鋭い声。
ただならぬ気配に、蒼汰は胸を高鳴らせ、小走りで駆け寄った。
そこには、長身で浅黒い肌の旅商人フェリナがいて、ぐったりと肩を貸されている少女──見習い鍛冶師のラティナがいた。
(女の子……? 酷い怪我……)
ラティナの腕や膝には、擦り傷と裂けたような切り傷が無数に走り、
血のにじんだ泥が乾いた斑点を作っている。
肩口の服は破れ、細い指先も擦り剥けて震えていた。
顔は土で汚れ、こめかみには赤黒いあざが浮かんでいる。
「どうしたの?」
「森の南で、魔物に遭遇したの」
マーサの声は冷静だったが、その奥にある緊張を蒼汰はすぐに感じ取った。
「……魔物に?」
蒼汰は息を呑んだ。
「うん、追いかけられて……逃げる途中で崖から落ちたんだって。骨は折れてないけど、かなり打ってるわ」
フェリナが眉を寄せながら補足する。
ラティナは俯いたまま、小刻みに肩を震わせていた。
指先をぎゅっと握り、薄く開いた唇から、か細い声が漏れる。
「……怖かった……」
その一言が、場の空気を強く震わせた。
周囲には、他の宿泊者たちも集まってきていた。
壁際には、赤毛の弓使いソルが腕を組み、険しい表情で様子を見守っている。
フェリナの後ろでは、眼鏡をかけた薬草採取のラナが心配そうに手を胸に当てている。
オリナ婆さんは静かに念仏のような呟きを繰り返していた。
宿全体が、まるで心臓を早鐘のように打ち鳴らすような、緊張感に包まれていた。
「蒼汰ちゃん、台所から清潔な布と薬草湯を!」
「はい!」
駆け足で裏手に回り、棚から布と湯を取り出す。
運びながら、蒼汰は胸の奥で不安が膨らんでいくのを感じた。
(……魔物が、こんな近くで……)
これまでどこか遠い世界の話だと思っていた脅威が、こんなにも身近に迫っていた。
蒼汰が持ってきた道具で、マーサが素早くラティナの傷口を洗う。
血と泥が布に滲み、ラティナの細い体がびくりと震えた。
「大丈夫、すぐに楽になるからね」
マーサの手際は見事だったが、彼女の額にも薄く汗が滲んでいる。
──そのとき。
「手伝うよー」
ふわりと柔らかな声がして、シュリがひょっこり顔を出した。
蒼汰が振り向く間もなく、シュリはそっとラティナの手を取り、低く静かに呟いた。
「……祝福を、ひとつ。」
彼女の手のひらから、柔らかな光が滲み出た。
それは焚き火の温もりのように優しく、ラティナの傷口を包み込む。
血が止まり、裂けた皮膚がゆっくりと塞がっていく。
ラティナの表情が、わずかに和らいだ。
「な、なにそれ……!?普通の回復魔法じゃ……」
マーサが驚き、声を漏らした。
「んー……種族の特性みたいなもん。『祝福』って呼んでるけど、普通の人は使えないんだよ」
シュリは屈託のない笑顔でそう言った。
(……すごい)
蒼汰は目を見開いたまま、息を呑んでいた。
(俺も……こんなふうに誰かを支えられたら)
ラティナはうっすらと目を開き、呆然としたような表情で蒼汰とシュリを見つめていた。
「……ありがとう」
小さな声だったが、それは確かに届いた。
「よくがんばったね。生きてて、よかった」
蒼汰は心からそう思った。
彼女がここに、無事に戻ってきたことが、何よりも尊い奇跡だった。
夕暮れの光が宿の中を満たし始めていた。
石畳に映る影が伸び、空気はすこしずつ夜の冷たさを孕んでいく。
だけど、ここには確かに温かな命の灯があった。
静かに、そう感じた。
夕暮れが深まり、宿の中はようやく落ち着きを取り戻していた。
ラティナは、マーサたちの介抱で簡単な手当てを終え、今は食堂の奥の長椅子で毛布にくるまって休んでいる。
ハーブティーの優しい香りが漂い、蒼汰は静かにその様子を見守っていた。
(……よかった。本当に)
ラティナの頬はまだ蒼く、体も小さく震えている。
それでも、確かに生きて、ここにいる。
けれどその事実に、ただ安堵するだけでいいのか、と自分に問いかけていた。
シュリはというと、食堂の隅でひとり、壁にもたれかかりながらあくびをしていた。
赤い瞳は柔らかく、どこか安心したように細められている。
蒼汰は、そっと自分の手のひらを見つめた。
(俺には……なにもできなかった)
マーサやシュリのように、誰かを支える手も、癒やす力も、自分にはない。
見守ることしかできなかった自分が、情けなく思えた。
(何か……俺にもできることはないのか?)
胸の奥がきゅうっと縮み、呼吸が苦しくなる。
誰かが倒れたとき、何もできないまま立ち尽くす自分。
誰かが苦しんでいるとき、ただ願うことしかできない自分。
(このままじゃ、また同じだ)
遠くで、鐘の音が二つ、ゆっくりと夜の帳を告げる。
その音が、まるで胸の痛みをなぞるように響いた。
蒼汰はふと席を立ち、小さな窓際へ歩いた。
夕闇の中、石畳の町は少しずつ静まり返っている。
通りを行き交う人影もまばらになり、屋台の灯りがひとつ、またひとつと消えていく。
空気は冷たく、けれど不思議と澄んでいて、遠くで誰かが歌うような声が風に乗って流れてきた。
(俺にできることを、探さないと)
拳を小さく握りしめた。
今日できなかったことを、明日できるように。
何か、小さなことでもいい。
誰かがつまずいたとき、そっと手を差し伸べられるように。
誰かが泣いていたとき、隣で寄り添えるように。
(焦っても仕方ない。でも、立ち止まったままじゃ、変われない)
自分に言い聞かせるように、深く息を吐いた。
食堂に戻ると、マーサが気づいてにっこりと笑った。
「大丈夫、蒼汰ちゃん。焦らなくてもいいのよ」
その声は、包み込むように優しかった。
マーサはすべてを見抜いていた。
そっと近づき、蒼汰の肩に温かな手を置く。
「無理に大きなことをしようとしなくていいの。小さなことを、一つずつでいいのよ。優しくすること、気にかけること、誰かのために少しだけ動くこと。それだって、十分立派なことなんだから」
その言葉に、胸の奥の硬くこわばっていたものが、少しずつ解けていくのを感じた。
「あなたは、あなたのやり方で、ちゃんと誰かを支えられる子だから」
マーサの手のひらの温もりが、心の底まで染み込んでいく。
「……はい」
短く返事をして、蒼汰は席に戻った。
テーブルの上には、まだ温かいハーブティーが置かれていた。
湯気の向こうに、誰かの笑い声がかすかに聞こえた気がした。
(明日も、生きていこう。少しずつでも、前に進もう)
静かに、心にそう誓った。
夜が深まり、食堂に流れる空気はどこか柔らかかった。
ラティナは静かに寝息を立てながら、長椅子の上で毛布にくるまっている。
シュリは壁際で丸くなり、時折しっぽを小さく動かしていた。
マーサは奥の厨房で食器を片付けながら、時折こちらを気にかけるように視線を送ってくる。
静かだが、心を撫でるような温かい静寂だった。
蒼汰は、空のティーカップを手のひらで包みながら、ぼんやりと考えていた。
(何か、小さなことでもいい)
(俺にできることを、探そう)
目の前にある現実を、少しずつでも変えていくために。
ふと立ち上がり、厨房へ向かった。
マーサが気づいて顔を上げる。
「どうしたの、蒼汰ちゃん?」
「……何か、手伝えることありませんか?」
言葉にすると、胸の奥が少しだけすっきりした。
マーサは驚いたように目を瞬き、それからふわりと笑った。
「そうね、ちょうどお皿を拭こうと思ってたところなの」
蒼汰は頷き、差し出されたふきんを受け取った。
ぎこちない手つきで、けれど一生懸命に皿を拭く。
マーサは隣で優しく見守っていた。
「焦らなくていいのよ。大切なのは、心を込めることだから」
皿一枚一枚を大事に扱ううちに、蒼汰の心の中のざわめきも、少しずつ静かになっていった。
(こういうことの積み重ねなんだ)
(小さなことでも、きっと誰かの役に立てる)
蒼汰は静かに、けれど確かに、前へ進むための一歩を踏み出していた。
夜の宿は、そんな小さな決意を、やさしく包み込んでいた。




