第十五話『小さな違和感と、繋がる気配』
朝の光が、窓の格子を抜けて差し込んでいた。石壁に映る光の模様は、まるでゆらゆらと揺れる水面のようで──蒼汰はぼんやりとそれを眺めていた。
「……朝、か」
いつものように早起きして、顔を洗い、服を整える。リリアンに仕立て直してもらった服は、やはり肌馴染みがよく、古着とは思えないくらい軽やかだった。胸元のふくらみは、今日もシャツの中で隠し切れないが──今は、もう少しだけ慣れた。
(慣れた……というか、見ないようにしているだけか)
少し苦笑して階下に降りると、ちょうど朝食の準備が整ったところだった。大鍋から立ち上る香草の匂いと、ほんのり焦げたパンの香ばしさが混じり合っている。
「おはよう、蒼汰ちゃん。今日は早いわね」
カウンターの奥でエプロン姿のマーサがにこにこと笑っていた。今日のエプロンには、昨日までと違う柄の刺繍──ひつじのワンポイントが縫い込まれている。
「……可愛いですね、それ」
「わかる? 昨日のお客さんがくれたの。気に入っちゃって、すぐ付けたのよ」
大柄な体に、ひらひらのエプロン。蒼汰は思わず頬がゆるんだ。
席につき、野菜と香草のスープを口に運ぶ。あたたかく、優しい味だった。胃の底がほっと緩んだような気がした。
「おーはよーございまーすっ」
軽い足音とともに、階段を降りてきたのは、銀髪赤目の猫獣人──シェリル・ルナティアだった。今日もふわふわした口調で、寝癖のままの髪を両手でわしゃわしゃとかきあげている。
「あれ……ここ、ごはんのとこだっけ?」
「寝ぼけてないで、ちゃんと座って」
マーサが苦笑しながらカウンター越しにスープの皿を差し出した。
「うわあ〜、今日のもいい匂い〜。ありがと〜……」
シュリは椅子に腰かけると、ふにゃっと笑いながらスプーンを手に取る。
「あっ、そうだそうだ!」
急に思い出したように、彼女は蒼汰に向き直った。
「聞いてよ〜、あたし、こっちの町に来る前、王都でパーティ組んでダンジョン行ってたんだけどね……また迷子になっちゃってさ〜」
「……また、って」
「うん。分岐で地図見ながら進んでたはずなのに、なぜかスタート地点に戻ってて……パーティの子たちに“あれ?ここまた来た?”って言われちゃってさ〜」
蒼汰は思わずスープを飲む手を止めた。
「王都の冒険者って、大変そうだな。人も多いんでしょ?」
「めっちゃ多いよ〜。でも、あたし、けっこう強い方なんだよ?ほんとほんと!」
と胸を張ってから、ぺたんと手のひらでテーブルを叩いた。
「それでも迷子になるからさ〜、チームの子たちに“ちょっと距離おこうか”って言われちゃって。あはは、だからしばらくお休み!」
「……そうなんだ」
シュリの言い方は明るいけれど、聞いていると、どこか胸がきゅっとなるような感覚があった。
「っていうか、君の名前、なんていうの?」
「あ、俺は……蒼汰。気持ちは男なんですけれど、体は女性なんです」
と、蒼汰は自分の胸元を少しだけ指差す。
「そっか〜。じゃあ……蒼汰くん? でもマーサさん“ちゃん”って呼んでたし……うーん、どっちがしっくりくる?」
「……どっちでも、いいよ。この町では“蒼汰ちゃん”で通ってるから、そっちでも」
「わかった〜、じゃああたしは“蒼汰ちゃん”って呼ぶねっ」
「君は?」
「シュリ! 本名はシェリル・ルナティアっていうんだけど、長いし、そう呼んでくれていいよ〜」
「じゃあ、よろしくな。シュリ」
「よろしく〜!」
スプーンをくるくると回しながら、シュリはスープをすくって口に運んだ。
「で、蒼汰ちゃんって、今は何してるの?」
「冒険者として登録してる。採取とか配達とか、あとはスキルを使って物を売ったりして……」
「へえ〜っ、すごい! 若いのに、ちゃんと働いててえらいなあ……あたし、さっきまで寝てたし」
笑いながら頬を膨らませるその姿に、蒼汰は思わず吹き出しそうになった。気が抜けるような、けれど心の距離がぐっと近くなる瞬間だった。
「いや、別に……生きるためにやってるだけだよ」
「でも、それを“ちゃんとやってる”って、やっぱすごいと思うよ〜。うんうん」
「……ありがと」
不意に受け取った言葉が、どこか胸の奥に灯りを灯した気がした。温かくて、ちょっとだけ、誇らしい。
「さて……じゃあ、行ってきます」
「いってらっしゃ〜い」
ふわふわと手を振るシュリを背に、蒼汰は扉を開けた。
春の陽射しが、石畳をきらきらと照らしている。背を正し、彼は今日も一歩を踏み出した。
ギルドの扉を開けると、いつもの香りが鼻先をくすぐった。
冒険者たちの汗と革のにおい、それに乾いた薬草や油の匂いが混じった空気。
石造りの壁に囲まれたこの場所は、静かだけれど、確かに「働く場」だった。
カウンターの奥には、アイリスがいた。
栗色のポニーテールが揺れながら、今日も几帳面に帳簿を整理している。
その手元から視線を上げると、彼女はすぐに気付いたように、ふわりと笑みを浮かべた。
「おはようございます、蒼汰さん。今日も調子はいかがですか?」
「ええ。少しずつ……落ち着いてきました」
言いながら、自分でも驚いた。
言葉が自然に出た。それが嘘じゃないと思えるくらいには、少しだけ、心が整っていた。
「なにか、できそうな仕事はありますか?」
「はい、ちょうど探していたところです。簡単なお使いなんですけれど……」
アイリスは手元の資料から、一枚の依頼票を取り出して見せた。
「街の中央に、魔道具や巻物を扱うお店が新しくできまして。開店準備中で忙しく、商品の販促やサンプルの配布を代行してほしいそうです。あなたのスキルなら、きっと適任かと」
蒼汰は目を瞬かせた。
「販促って……その、売り込みですか?」
「正確には、“希望者に商品が届くように”とのことです。あなたのスキル……が、欲しい相手を見つけてくれるのなら、この手の仕事にはぴったりです」
アイリスの声は優しかったが、そこには確かな信頼が含まれていた。
「なるほど……やってみます」
用紙を受け取りながら、蒼汰は静かに息を吐いた。
目的の店は、中心通りを抜けた広場に面した新設の店舗だった。
外観はまだ看板も付いておらず、店先には折りたたまれた木箱や、仮設の屋根が置かれていた。
店の前では若い男性が脚立の上で布看板を掛け直していて、足音に気づいて降りてきた。
「こんにちはー! あ、ギルドの人? よかった〜、間に合った」
「はい、依頼の件で来ました。配達と……販促品の件も、ですね」
「うん、うん! ほんと助かる〜。これ、巻物と簡易魔道具のサンプル。販促価格ってことでちょっと安くしてるんだけど、誰が欲しがってるかわからなくてさ」
蒼汰は受け取った袋の中を確認した。
封印された小さな魔道具と、透明な布に包まれた巻物が数本。
それぞれに値札がついており、内容がわかるよう簡単な解説書も添えられている。
「これ……使える人は限られそうですね」
「だね〜。魔力をある程度持ってる人じゃないと、特にこの“火花巻き”とか、“壁抜け玉”は発動しないからさ。でも、スキルがあるならなんとかなる?」
「……試してみます。欲しがってる人に届けば、それで」
「よろしくお願いしまーす!」
人気のない路地に入り、人通りの目を避けてスキルを起動する。
(この火花巻きを……欲しがっている人に売りたい)
心に強く思い浮かべると、青白いウィンドウが浮かび上がった。
《対象者:ソル・リヴェール》
《希望価格:あり》
《売却価格:1,500シエル》
《売却しますか?》
(あの人なら、確かに使いこなせるだろうな)
「売却する」
巻物がふっと手から消え、代わりに小さな銀貨の重みが手元に落ちた。
蒼汰は静かにそれをしまい込み、次の品へと目を向けた。
(これは──壁抜け玉。使えるのは……)
またスキルを使う。だが、今度は違った結果が出た。
《対象者:なし》
《売却不可》
「……そうか」
今、この街でそれを“必要としている”人はいない、あるいは価格に見合う価値を感じていない。
スキルは正直だ。強制的に売ることはできない。
だからこそ──信じられる。
(売るっていうのは、単に押しつけることじゃないんだな)
数点のサンプルを無事に売却し終えると、報告に戻る前に中央広場をぐるりと見回した。
人々が行き交い、露店からは湯気と香ばしい匂いが立ち上っている。
あちこちで子どもの笑い声が飛び交い、荷車を押す老人の背を誰かがそっと支えていた。
(この町の人たちが、ほんの少しでも楽になるなら──)
スキルは“売却”のためにあるのではない。
“届かない手”の代わりに、“運ぶ”ためにあるのかもしれない。
そう思いながら、蒼汰は静かに帳面を取り出した。
今日の記録を書き留めるために。
午後、街の陽が高くなると、石畳の道は熱を帯びてきた。広場から一本外れた小道では、建物の影が風を冷たく運んでくれる。
蒼汰はそこでひと息ついていた。
スキルの売却は順調だった──少なくとも、表面的には。
だが、心の中には、わだかまりのような違和感がひとつ、確かに残っていた。
(売れないものがあるって、わかってたはずなのに)
売却が成立しなかった「壁抜け玉」。
もちろんそれは、自分が“役に立つ”と思っても、相手がそう思っていなければ意味がないということ。
(けど──)
あれを、ラナに渡したかったのは確かだった。彼女が必要としていないのは、スキルが示していた。でも、蒼汰の中にはまだ“届けたい”という思いが残っている。
「……押しつけじゃないって、わかってるけど」
スキルが示す現実は正しい。けれど、正しさだけでは割り切れない感情があった。
──ふと、声が聞こえた。
「ん? そっちの兄ちゃん、スキル持ちかい?」
振り返ると、布屋の前で品を広げていた中年の商人が、首を傾げながら近づいてくる。
「ああ、いや……スキルは持ってますけど……」
「さっき、空気が揺れたような感じがしてな。ああいうの、何か使った気配ってやつだ」
蒼汰は少しだけ表情を曇らせた。スキルの使用を見抜かれることは滅多にない。
が、相手はどうやら、年季の入ったベテランのようだった。
「よかったら、うちの商品、試しに“売ってみて”くれんか?」
商人は、棚の奥からひとつの布の束を持ってきた。
「これはな、旅人が置いていった布でな、触り心地は悪くないが、どこで仕入れたかも定かじゃない。だが、妙に“誰かの手に渡る気配”があるんだ」
蒼汰は手のひらに布を乗せた。少し重い。色合いは地味だが、確かに丁寧に織られていた。
(これを……誰かが欲しがってる?)
スキルを発動させてみると、浮かび上がった名前は──見覚えのあるものだった。
《対象者:リリアン・クレスト》
《希望価格:中程度》
《売却価格:600シエル》
(リリアンさん……この布、欲しいんだ)
蒼汰は迷わず頷いた。
「売却します」
布がふっと手から消え、代わりに硬貨が落ちる。商人は、驚いたように目を細めた。
「……ほんとに、誰かに渡ったのか?」
「ええ、多分。布屋の人で……知ってる人が欲しかったみたいです」
「ふうん……面白いもんだな。スキルってのは」
商人はそう言って笑い、店先に戻っていった。
蒼汰はふと、空を見上げた。
(届けられた。でも──俺の気持ちと、相手の“欲しさ”って、必ずしも同じじゃないんだ)
マーサに食材を届けた時も、ラナにポーチを届けた時も、「これは役に立つ」と思ったものが、確かに受け取られていった。
でも、それが“欲しい”という強い気持ちでなければ、売却は成立しない。
“欲しい人に、届けられない”。
スキルには、やはり限界がある。
けれど──
(それでも……探せるなら、届けてみたい)
自分が「いい」と思ったものを、ちゃんと誰かが「いい」と感じてくれたら。
それはきっと、つながりになる。
“代わりに届ける”スキルが、自分を世界とつなぐ手段になるなら──
「……やってみよう」
そう呟いた声は、昼下がりの風に乗って、静かに流れていった。
午後、街の陽が高くなると、石畳の道は熱を帯びてきた。広場から一本外れた小道では、建物の影が風を冷たく運んでくれる。
蒼汰はそこでひと息ついていた。
スキルの売却は順調だった──少なくとも、表面的には。
だが、心の中には、わだかまりのような違和感がひとつ、確かに残っていた。
(売れないものがあるって、わかってたはずなのに)
売却が成立しなかった「壁抜け玉」。
もちろんそれは、自分が“役に立つ”と思っても、相手がそう思っていなければ意味がないということ。
(けど──)
あれを、ラナに渡したかったのは確かだった。彼女が必要としていないのは、スキルが示していた。でも、蒼汰の中にはまだ“届けたい”という思いが残っている。
「……押しつけじゃないって、わかってるけど」
スキルが示す現実は正しい。けれど、正しさだけでは割り切れない感情があった。
──ふと、声が聞こえた。
「ん? そっちの兄ちゃん、スキル持ちかい?」
振り返ると、布屋の前で古びた反物を並べていた中年の商人が、品物を見下ろしながらふと顔を上げ、蒼汰を見つめた。その眼差しには、わずかな興味と、何かを探るような光があった。
「ああ、いや……スキルは持ってますけど……」
「さっき、空気が少し揺れた気がしてな……おかしな話だけど、俺にも“何かが誰かの手に渡る”気配だけは感じ取れるんだ。お前さん、もしかして似たようなスキルを持ってるんじゃないか?」
蒼汰は少しだけ表情を曇らせた。スキルの使用を見抜かれることは滅多にない。
が、相手はどうやら、年季の入ったベテランのようだった。
「よかったら、うちの商品、試しに“売ってみて”くれんか?」
商人は、棚の奥からひとつの布の束を持ってきた。
「これはな、旅人が置いていった布でな、触り心地は悪くないが、どこで仕入れたかも定かじゃない。だが、妙に“誰かの手に渡る気配”があるんだ」
蒼汰は手のひらに布を乗せた。少し重い。色合いは地味だが、確かに丁寧に織られていた。
(これを……誰かが欲しがってる?)
スキルを発動させてみると、浮かび上がった名前は──見覚えのあるものだった。
《対象者:リリアン・クレスト》
《希望価格:中程度》
《売却価格:600シエル》
(リリアンさん……この布、欲しいんだ)
蒼汰は迷わず頷いた。
「売却します」
布がふっと手から消え、代わりに硬貨が落ちる。商人は、驚いたように目を細めた。
「……ほんとに、誰かに渡ったのか?」
「ええ、多分。布屋の人で……知ってる人が欲しかったみたいです」
「ふうん……面白いもんだな。スキルってのは」
商人はそう言って笑い、店先に戻っていった。
蒼汰はふと、空を見上げた。
(届けられた。でも──俺の気持ちと、相手の“欲しさ”って、必ずしも同じじゃないんだ)
マーサに食材を届けた時も、ラナにポーチを届けた時も、「これは役に立つ」と思ったものが、確かに受け取られていった。
でも、それが“欲しい”という強い気持ちでなければ、売却は成立しない。
“欲しい人に、届けられない”。
スキルには、やはり限界がある。
けれど──
(それでも……探せるなら、届けてみたい)
自分が「いい」と思ったものを、ちゃんと誰かが「いい」と感じてくれたら。
それはきっと、つながりになる。
“代わりに届ける”スキルが、自分を世界とつなぐ手段になるなら──
「……やってみよう」
そう呟いた声は、昼下がりの風に乗って、静かに流れていった。
その日最後の空は、淡いオレンジと群青が混ざった色をしていた。西の地平線が燃えるような赤を見せ、雲が静かに流れていく。蒼汰は宿へ戻る石畳の上を、ゆっくりと歩いていた。
──思えば今日は、いろんな人と会った。
冒険者ギルドでの依頼、魔道具屋での配達仕事、布商人とのやりとり。
そして、自分のスキルで“届ける”という行為が、単なる売買ではなく“誰かを思う行為”だと気づいた。
「……疲れた」
足を止めて、空を見上げる。
石造りの街並みは、夕焼けに照らされて陰影を深めていた。その静かな色彩が、なぜか今日の自分にはやさしく感じられた。
宿の扉を開けると、ふわりとスープの香りが鼻をくすぐった。
「あら、おかえりなさい」
カウンターの奥から、マーサがエプロン姿で微笑んだ。今日のエプロンは、パステルブルーに黄色い小花の刺繍入り。あの大きな身体に、どこか不釣り合いなほど可愛いが、違和感は不思議とない。
「ただいま。……遅くなりました」
「大丈夫よ、まだ夕食前。ゆっくりしておいで」
客席のテーブルでは、何人かの宿泊者たちが談笑していた。耳の長い獣人がワインを傾け、若い女性が草花の編み物をしている。
ふと視線を感じて振り向けば、階段の上からシュリが顔を覗かせていた。
「おかえり〜。ちゃんと無事だった?」
「無事じゃなかったら、ここにいないって」
「そっかそっか、じゃあ、お疲れさまっ」
あっけらかんとしたその笑顔に、蒼汰は肩の力が抜けた。
その後の食事は、例によって温かく、やさしい味がした。
スープはにんじんと芋のポタージュ。パンは外はカリッと、中はふわふわで、添えられたジャムは甘酸っぱい木苺の味だった。
蒼汰は食べながら、ふと帳面を取り出した。
昼に買ったばかりの小さなノート。その最初のページに、丁寧に書き記す。
【本日の記録】
・火花巻き:1,500シエル(売却)
・パリツ(乾燥きのこ):420シエル(売却)
・壊れたポーチ:仕入れ75/売却100シエル(+25)
・布の束:600シエル(売却)
・その他の小物:合計290シエル
・支出:宿泊費1500シエル
【現在の総所持金メモ】
36,300シエル
「……少しずつ、だけど」
ペンを置いて、ページを閉じる。
(少しずつでいい。俺は──俺のままで、進んでいく)
夜が、静かにその幕を下ろしていく。