第十四話『街角の価値、見えない時間』
朝の街路は、いつもより少しざわついていた。
石畳を踏み鳴らす荷馬車の音、屋台の設営にかける板の音、呼びかける声、返事の声。すべてが少しだけ高く、早く、空気の流れをせき立てているように思えた。
宿屋の朝食を終えた蒼汰は、木製の扉をそっと開け、まだ薄く朝霧の残る通りへと歩き出した。
昨日までより幾分、空が澄んで見えるのは、少しずつ気温が上がってきている証拠だろうか。
(今日は……ギルドで依頼、受けてみようかな)
このところ、生活は安定しつつある。
物を拾い、仕入れ、売る。そのサイクルが自然になってきた。
けれど、どこかで感じているのだ。
「このままで、本当にいいのか?」という疑念を。
「売る」だけじゃ、きっと届かない場所がある。
それは、あのレオンの手紙が教えてくれた。
(“自分の意思”で動くこと。……忘れないようにしないと)
蒼汰は町の中心部に向かって歩き出す。
市場とは別方向──石畳の先、冒険者ギルドのある建物の裏通りへ。
「おはようございます、蒼汰さん」
受付嬢のアイリスは、いつもの落ち着いた微笑みで迎えてくれた。
くるりとまとめた栗色のポニーテールが肩に揺れる。
眼鏡の奥の碧色の瞳が、まっすぐこちらを見つめてくると、どこかくすぐったい。
「今日は何か、受けてみようかと思って」
「それは嬉しいです。実はですね──」
そう言ってアイリスが机の横の棚から取り出したのは、封のされた小さな木箱だった。
片手で収まる程度のサイズで、周囲には封蝋と“魔道指定”の印。
「こちら、王都から取り寄せた高位魔道具の巻物が入っているそうで。ギルド内の魔道具管理所まで届けるお使いなんです」
「……魔道具?」
「ええ。『魔力のない者には発動できません』と但し書きもあるような、攻撃用の高額品です」
その言葉に、蒼汰はわずかに肩をすくめた。
(……魔力。俺には、縁のない言葉だ)
思わず反応した蒼汰の顔を察したのか、アイリスは少しだけ柔らかい声音になる。
「蒼汰さん、魔法……お使いにならないんですか?」
「……持ってないんです。魔力が」
言いながら、目をそらした。
恥ずかしいとか、劣等感とか、そんな言葉では表せない──“欠けている”という感覚。
けれどアイリスは、何も言わなかった。ただ、ほんの少しだけ視線を逸らし、静かに頷いた。
「そうでしたか。でも、この依頼に魔力は要りませんから。丁寧に届けていただければ、それで」
彼女は、それ以上を聞こうとはしなかった。
それが、どれほど蒼汰にとってありがたかったことか。
「わかりました。やってみます」
「ありがとうございます。……くれぐれも気をつけてくださいね。高額ですから」
封蝋に刻まれた紋章は、見たことのない紋様だった。
竜の尾のような渦巻きと、歯車の形が重なったような文様──それが、どこか冷たく鋭い印象を与える。
(これが、戦うための道具か……)
自分には、決して扱えないもの。
だからこそ、その「橋渡し」になれるのかもしれない。
蒼汰は木箱を慎重に懐へしまい、ギルドを後にした。
街の南、三叉路の先にある建物。
そこが、ギルドの“魔道具管理所”だった。
背の高い鉄扉、そして無人の受付。
代わりに備え付けの鐘を鳴らすと、奥から黒衣の職員が現れた。
「巻物の受け渡しか?」
「はい、蒼汰と申します。ギルドからの依頼で──」
「よろしい、こちらへ」
事務的な対応だったが、それでいい。
やり取りを済ませ、箱の確認を受け、受領印をもらって――終了。
けれど建物を出たあと、不意に胸の中に、妙な静けさが広がった。
(あの巻物……俺が使えたら、どうだったんだろう)
もし、戦えたなら。
誰かを直接守れたなら。
そんな“あり得ない未来”を、考えてしまった。
(……でも、それは違う)
蒼汰は首を振った。
自分の力は、“売ること”“届けること”“つなぐこと”。
武器ではない。
誰かの代わりに動く、橋のような存在だ。
その足元を、今日はひとつ踏みしめた気がした。
管理所を後にして、蒼汰は町の中心部へと戻っていた。
ちょうど昼市が始まる時間で、石畳の両側には簡易屋台が立ち並び始めている。乾燥野菜、保存用の肉、日持ちするお菓子……目立たないが、忙しい人々には重宝されるものばかりだ。
(そろそろ昼食も考えないと)
足を止めかけたそのとき、ふいに声をかけられた。
「ねえ、君。もしよかったら……これ、届けてくれない?」
振り向けば、浅黒い肌の女性が小さな木箱を抱えていた。
年の頃は四十代半ば。手には染みや火傷跡があり、まっすぐな目でこちらを見ている。
「えっと……」
「ギルドの人じゃないのは分かってる。でも、何度か君が、代わりに物を届けてるのを見てたから。私、配達依頼ってあまり得意じゃなくて……」
差し出されたのは、ややくたびれた布の包みだった。
「これ、知人の家に届けてほしいの。実は……手作りの乾燥おかずなのよ。仕込みに失敗した部分もあって、売りには出せなくて……でも、食べられるから、届けたい人がいるの」
(売れない。でも、渡したい。そんな想い)
「分かりました。届けてみます」
蒼汰は受け取り、胸元に包み込んだ。スキルを起動しようとしたそのとき──
《対象者:指定可能》
《相手が受け取る意志あり、金銭支払いは不要》
《売却価格:0シエル(贈与処理)》
(……やっぱり、こういうのもいけるんだ)
「ありがとうございます。君みたいな人がいるだけで、なんだか町が……優しくなる気がするね」
女性のその言葉に、胸の奥が不思議と暖かくなった。
(売るだけじゃない。“繋ぐ”って、こういうことだ)
しばらくして別の通りで、今度は雑貨屋の女主人──皺だらけの顔をした老婆に呼び止められる。
「そこの、そこのあんた……ちょいと来とくれ。昨日の子ね? いい顔してるわ」
「あ、はい……」
「これね、壊れた傘の取っ手なんだけど、捨てようかと思ってたのよ。でも、なんか“素材”として面白いって言ってくれた人がいた気がして……」
ごそごそと、箱の中から見せられたのは、木の節目が独特なS字状の棒。
どこかの芸術家が“味”と言いそうな形をしている。
(……これ、装飾素材とか、手元の飾りに使えるかも)
スキルを使うと、反応が出た。
《対象者:フェリナ・クラヴィール》
《素材:木工芸の実験素材/興味あり》
《売却価格:220シエル》
(よし、これは売れる)
蒼汰は銀貨を払って買い取り、すぐさま売却した。
「へえ、もう誰かに売ったのかい?」
「ええ。素材として、欲しがってた方がいたようで」
「ふふ。若いのに、うまいことやるねえ。ま、私も悪くない目をしてたってことかいね」
老婆はくしゃっと笑い、次々と他の商品を並べ直し始めた。
その後も蒼汰は、乾燥パリツのまとめ袋を見つけ、別の冒険者へ売却。
また、壊れかけの小瓶、金具の取れたピアス片など、「売れなさそうなもの」ばかりが、思いがけず価値を持ってスキル売却できた。
(本当に、相手が“欲しがってるかどうか”なんだ)
品の良し悪しじゃない。今、誰かが“必要としてるかどうか”。
それが“価値”を決める──スキルを通じて蒼汰が学びつつある最も大きな教訓だった。
──そして夕方。
ギルドへ戻り、魔道具巻物の納品報告と、ついでに“拾い物の売却届け”も記録として提出したところで、アイリスが声をかけてきた。
「今日もお疲れさまでした。……その、蒼汰さん」
「はい?」
「ギルドって、魔法のない人にも、居場所を作れる場所でありたいと思ってるんです」
不意に、真っ直ぐな瞳でそう言われた。
それが、どれほど嬉しかったか。
「ありがとうございます。俺も……できること、探してみます」
蒼汰はそう答えて、ギルドを後にした。
陽が傾き、町の影が少しずつ長くなっていく。金色に染まる石畳の道を、蒼汰はゆっくりと歩いていた。買い物袋は軽く、懐の財布にはいくつかの銀貨と銅貨の重み。
(今日は、思ったより稼げたかも)
けれどその重さ以上に、蒼汰の足取りを軽くしていたのは、体の内側に灯った小さな“自信”だった。
──本当に価値があるのは、物じゃない。
必要としてくれる“誰か”に、必要なときに、きちんと届くこと。それを手助けできる自分のスキルは、やはり“役に立つ”のだと──今日ほど強く思えた日はなかった。
宿へと向かう道すがら、角を曲がったときのことだった。
「うーん……あれ? ……おっかしいなあ……さっきここ、通ったような……?」
声がした。
困ったような、それでいてどこか楽しげな声。蒼汰が振り返ると、そこには見慣れぬ風貌の人物が立っていた。
──銀髪に、赤い瞳。しなやかで引き締まった四肢。目立つ猫の耳と、長いしっぽ。
(……獣人?)
その隣では、疲れ果てた様子の商人風の中年男性が、うなだれた姿でしゃがみ込んでいた。どうやら、彼女の道案内をしようとして諦めたらしい。
「ごめんね〜。地図は見てたはずなんだけど、いつの間にか同じお店に戻ってて……って、あれ? ここってさっきも見た気が……あれぇ?」
蒼汰は思わず足を止めた。
(これって……もしかして)
「すみません。道に迷われましたか?」
声をかけると、彼女──シェリル・ルナティアは、ぱちんと赤い目をこちらに向けた。
「わっ、びっくりした! ……あ、君、声かけてくれたの? ありがとっ」
ぱたぱたと手を振りながら近づいてきた彼女は、どこか抜けていて、そして自然体で人懐こい。
「うーん、ね、ここって町の真ん中あたり? あたし、宿に行きたかったんだけど、気がついたらお菓子屋さん三回くらい通ってて……」
蒼汰は一拍遅れて頷いた。
「ここは中央通りです。宿なら……もし女性専用のところでもよければ、僕の泊まってる宿を紹介できます」
「ほんと? うれしい! あ、でも……おいしいごはんあるかな……? ちょっとだけそれが心配……」
「かなり。マーサさんっていう、元冒険者の女将さんがやってます」
「それなら安心! じゃあ、ついていってもいい?」
「ええ。……でも、その、そちらの方は?」
蒼汰はようやく、うずくまった商人の男性に視線を向けた。
「あ、忘れてた。こっちの人、途中まで案内してくれてたの。けど、あたしが何度も同じ場所に戻っちゃうもんだから……あの、ありがとね!」
彼女はぺこりと深く頭を下げ、商人の男性も苦笑しながら立ち上がった。
「ま、無事に宿にたどり着けそうならよかった。じゃあ、わしはこれで……」
「ほんと、ごめんね! また会えたら……えへへ、迷ってなければいいけど」
商人が去っていくのを見送りながら、蒼汰はやれやれと肩をすくめた。
(天然……だな。でも、悪い人ではなさそう)
「……はいはい」
なんだかもう、拒否の余地はなさそうだった。
夕焼けに染まる町並みの中、二人の影が並んで伸びていく。言葉は少なかったが、どこか不思議と気楽だった。
マーサの宿へと戻ると、ちょうど他の宿泊客たちが帰ってきていた。蒼汰はマーサに事情を説明し、シェリルが宿を借りることを話す。
マーサは彼女を見ると、微笑みながら頷いた。
「筋はしっかりしてそうね。強い人は好きよ。宿代は前払いでお願いね」
「はーい。えーっと……これくらいでいいかな?」
小袋を差し出すと、マーサは指先で確認して頷いた。
「うん、問題なし。部屋は二階奥の角、日当たりがいいわ」
「わあ、角部屋! ……って、日当たりってことは……朝、まぶしくて寝坊できないかも……」
そんなやり取りを横目に、蒼汰は少しだけ息を吐いた。
(……これで、また少し町に人が増えた)
夜の帳が降り始め、マーサの宿にも穏やかな静けさが満ちていた。
宿泊客たちはそれぞれの部屋に戻り、ロビーには夜の読書を楽しむ者が一人、二人。
その灯りの下、蒼汰は自室の机でノートを開いていた。
パリツの売却、壊れかけの小物、そして贈与された包み──
一日を通して動いた内容を丁寧に記録し、最後に金額を書き加える。
【本日の記録】
・乾燥パリツ:売却420シエル
・雑貨品:売却220シエル
・魔道具の納品:報酬800シエル
・その他小物:売却340シエル
・買付・手数料合計:410シエル
・宿泊費:1500シエル
→ 本日収支:+870シエル
【現在の総所持金メモ】
36,685シエル
(少しずつ……でも確実に、増えている)
数字はただの数値に過ぎないはずなのに、不思議と自分が歩いた軌跡のように感じられた。
そのとき、扉の向こうから誰かの小さな足音が聞こえた。
扉がノックされ、開かれる。
「……失礼します。おやすみのところ、すみません」
顔を覗かせたのはラナだった。彼女は少しだけ視線を伏せ、手にした袋をそっと差し出した。
「この前……ポーチ、ありがとうございました。すごく便利でした。……お礼になるか分かりませんけど」
袋の中には、小さな布でくるまれた、乾燥させた薬草の詰め合わせ。
ささやかだけれど、気持ちがこもっているのがわかる。
「……ありがとう。助かるよ」
「それじゃ……おやすみなさい」
ラナはにこっと笑い、静かに去っていった。
蒼汰は薬草の袋を机に置き、もう一度ノートを開いた。
そして、ページの下に小さな文字で、こう記した。
“繋がりは、いつも目に見える形じゃない”
“でも、受け取ったぬくもりは、確かにそこにある”
その夜、窓の外には雲一つない星空が広がっていた。
この世界の星座は、蒼汰の記憶のどこにもないものばかりだったけれど、なぜか不安ではなかった。
「……明日も、きっと、大丈夫だ」
そう呟いて、そっと目を閉じた。