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第十二話『始まりの縁、断られた誘い』

──朝の町に、霧がゆるやかに漂っていた。


蒼汰は、少し湿った布団の重さを払いのけて身体を起こす。

窓の外、淡く霞んだ屋根と空の境目が、まだ朝の訪れを曖昧にしていた。


三日前の夜から、心の奥に沈んだ重さは、完全には消えていない。

あの手紙を“売却”してしまったこと。

リーナとアリアの、泣き腫らした目。


(あれは本当に、俺のやるべきことだったんだろうか……)


罪悪感は、スキルを使うたびに胸に染みついてくる。

だが、それでも。

生きるためには、動かなければならなかった。


この三日間、蒼汰は食料屋や薬草屋、雑貨屋を回っては、使えそうな品を見繕い、仕入れて売っていた。

保存食として需要の高い“パリツ”という名の乾燥きのこ、

傷の手当てに使える草の葉と布で作った簡易包帯セット、

疲労回復用の薬草を瓶詰めにしたもの。


いずれも市場で安く買い、小路の隅でそっとスキルを使って売る。

誰かが必要としてくれている──その表示があるだけで、わずかでも救われた気になれた。


けれど同時に、それが“取引”でしかないことに、どこか後ろめたさも残る。


「……もう、立ち止まってばかりもいられないか」


蒼汰は小さく息を吐いた。


この町で、ようやく自分の居場所を探し始めたのだ。

それを霧の中に沈めるわけにはいかない。


階段を下りると、食堂には柔らかな朝の光が差し込み、パンの焼ける匂いが鼻をくすぐった。


マーサはいつものように笑顔で迎えてくれた。


「おはよう、蒼汰ちゃん。今日はちょっと冷えるね。温かいスープにしておいたよ」


「……おはようございます」


席に着くと、焼き立てのパンと根菜のスープ、それに香草の香りが優しいハーブティーが並んでいた。

蒼汰はそっと手を合わせ、静かに食べ始める。


パンはふっくらとしていて、スープの旨味が胃をほっと温めた。

数日前は食べ物の味すらわからなかったのに、今日はちゃんと“美味しい”と感じる。


(……少しずつ、戻ってきてるのかもしれない)


「今日は、外に出るのかい?」


マーサがテーブル越しにそう問いかけてきた。

大きな体に似合わず、声はやわらかく、深く澄んでいる。


「はい……今日は、ちゃんと歩こうと思います」


「そうかい。それなら、よく見て歩くんだよ。商人ってのは、道端の石より、落ちてる空気を読むもんさね」


「……はい」


その言葉に少し笑ってしまいそうになる。

でも、きっとマーサは本気で言っているのだろう。

彼女の言葉には、どこか芯のあるあたたかさがあった。


食後、蒼汰は一度部屋に戻り、昨日洗濯してもらった衣服を袋から出して身支度を整える。

洗い立ての服は少しだけ草の香りが残っていて、ひんやりと肌に吸いつく。


(……今日こそ、ちゃんと歩こう)


小さくつぶやいて扉を開けると、霧はもうすっかり薄れていた。

瓦屋根がくっきりと顔を出し、遠くの空に雲が流れていく。


背筋を伸ばして、蒼汰は石畳の道を歩き出した。


朝の市場は、少し遅れてから本格的な賑わいを見せ始める。


パンの焼ける香ばしい匂い、薬草の香りに混じって、どこか甘い匂いが鼻先をかすめた。

蒼汰は一つひとつの露店を目で追いながら、人の動きと商品を観察していた。


(保存食、軽い包帯、疲労回復の薬草……冒険者が買いそうな物って、意外と日用品に近い)


この三日間で売ってきた物のいくつかは、きっと冒険者の手に渡っている。

ふと、道の先で数人の冒険者が小さな瓶を眺めながら話しているのが目に入った。


「これ、ちょうど欲しかったんだよな。使いやすいんだよ」


「この布包帯、ちゃんとしたやつだったな。前に使ったときもそうだった」


その言葉を耳にした瞬間、蒼汰の胸に小さな波紋が広がる。

自分が売ったものかどうかはわからない。けれど、必要な誰かの元に届いているのかもしれない——その思いが、少しだけ心を軽くしてくれる。


露店の列をひとつ折れたところで、ふと見覚えのある姿が目に留まった。

手の甲に白い粉がつき、前髪の一部がほんの少し焦げて縮れている。


(あれ……前にパンを売っていた子……)


彼女の屋台には、今回は焼き菓子が並んでいた。素朴な見た目だが、彩りのある包装や、リボンのかかった小箱が目を引く。


蒼汰が近づくと、少女が顔を上げ、ぱっと瞳を輝かせた。


「あ……あのっ! やっぱり……あの時の!」


その声に蒼汰は少し戸惑った。

彼女は確か、数日前に市場の隅で売れ残りのパンを売っていた少女だ。

だが、相手はこちらを“直接売ってくれた人”として覚えている——スキルの仕様だ。


(……あの時の“売却”が、ちゃんと届いてたんだな)


蒼汰は穏やかに頷いてみせた。


「……うん。少し、覚えてるよ」


少女は安堵したように微笑み、それから少し照れたように小声で続けた。


「本当に、ありがとうございました。あの時の売上で、材料を買い直して……やっと、少しだけお菓子作りが形になってきたんです。まだ全然だけど……」


その手元には、見よう見まねで作ったようなクッキーや、小さなマドレーヌ、焼き色のきれいなパウンドケーキが並んでいた。

包装こそ粗いが、そこに込められた気持ちが伝わってくる。


「すごいじゃないか。……前に会った時は、パンだったよね?」


「あ、はい! あの時は失敗作ばっかりだったんですけど……パンより、焼き菓子の方が好きで」


彼女は小さく笑いながら、いくつかの商品を並べ直す。


「私、いつかちゃんとしたお菓子屋さんになるのが夢なんです。ちゃんと、毎日、少しずつでも前に進んでいきたいって……」


その言葉に、蒼汰の心が静かに揺れた。

数日前、自分は泣きながらも歩き出した少女の手助けを、確かにしていたのだ。

あのときの売却が、ここに繋がっていたのなら、少しだけ——この力を使ってもいいと思える。


「……俺も、頑張らないとな」


小さく呟いてから、蒼汰は顔を上げて尋ねた。


「名前、教えてもらってもいい?」


少女の瞳が大きく見開かれる。そして、ぽっと頬が赤く染まる。


「えっと……マリィです。マリィ・フランベル……!」


「マリィ。いい名前だね」


蒼汰が微笑むと、マリィは照れながらも嬉しそうに目を細めた。


「また来ます。きっと、また」


「……はいっ!」


その笑顔を背に、蒼汰はゆっくりと市場を後にする。

自分も誰かと関わっているのだという、あたたかな実感が背中を押してくれた。


だがその帰り際、市場の角を曲がったときだった。


「──蒼汰?」


聞き慣れない声に、名を呼ばれる。


振り向くと、三人の冒険者がこちらを見ていた。

その顔には、確かに“知っている”という確信が浮かんでいる。


蒼汰の足が止まり、胸の奥にまた違う波紋が生まれた。


「蒼汰、だよな?」


そう呼びかけてきたのは、少し日焼けした快活そうな女の子だった。

赤毛のポニーテールが軽く揺れている。軽装の革鎧に弓を背負い、腰には小型のナイフ。


その隣には、浅黒い肌の無口そうな女性と、背の低い眼鏡の少女が並んでいた。


(……誰だろう、この人たち)


目の前の三人は、明らかに自分を“知っている”目で見ている。

けれど、蒼汰には彼女たちに心当たりがなかった。


「ごめん……どこかで会ったっけ?」


そう問いかけると、赤毛の彼女が「そっか、顔覚えてないんだな」と笑って言った。


「市場で売ってた保存食とか、応急セットとか。あれ、あんたが売ってたんだろ? うち、何度も助かっててさ」


「えっ……」


蒼汰は少し驚いた表情を見せる。

スキルで“売却”した物が、彼女たちの手に届いていた。

もちろん、顔を合わせた記憶など蒼汰にはない。けれどスキルの仕様上、彼女たちには「蒼汰に直接売ってもらった」感覚が残っているのだろう。


「ほんとに、助かってるんだよ。タイミングも中身もバッチリでさ。マジでありがたい」


「あ……うん……ありがとう」


素直に感謝の言葉をもらって、悪い気はしない。

けれど、どこか胸の奥がざわざわとする。


赤毛の彼女が手を差し出した。


「改めて、私はソル。弓使い。こっちはフェリナ、そしてこの子がラナ。三人で小さいパーティ組んでんの。……で、ちょっと相談なんだけどさ」


ソルが少し照れくさそうに視線を外し、軽く笑う。


「今度、採取系のクエストに行くんだけどさ。一緒に行かない? 蒼汰がいてくれたら、物資の管理とか、売買とかすごく助かるんだ」


「え……俺が……?」


突然の申し出に、胸が跳ねた。


一緒にクエストに出る。冒険者の一員として、誰かと歩く。

そんな選択肢を、蒼汰はこれまで深く考えたことがなかった。


だがすぐに、現実が思考を冷やしていく。


(俺は……非力だ。剣も持てないし、魔法も使えない。足手まといにしかならないかもしれない)


戸惑う蒼汰の沈黙を見て、ラナが控えめに口を開いた。


「あの……蒼汰さん、あの時……市場で薬草の瓶、売ってくださった時に、私、すごく嬉しかったんです。だから、少しでも一緒に……って」


彼女の声は静かで、けれど確かだった。


それでも蒼汰は、言葉を絞り出すように答えた。


「……ごめん。俺、戦えるわけじゃないし。多分、足手まといになると思う」


ソルが少し目を見開き、それから苦笑した。


「そうか。……でも、あんた、すごくちゃんと見て売ってるじゃん。うちのパーティ、何度も助かってる。それって、戦い方じゃないにしても、支える力なんだぜ」


その言葉は、どこか胸の奥に残った。


(支える力……)


けれど蒼汰は、自分の弱さをまだ受け入れきれていなかった。

誰かの後ろをついていくだけで、自分の存在がかき消されてしまいそうな怖さがある。


「ありがとう。でも、もう少し……自分のやり方を見つけてからにするよ」


そう答えると、三人はそれ以上は踏み込んでこなかった。


「……そっか。まぁ、また気が向いたら言ってくれよ。うち、いつでも待ってるから」


ソルがそう言って軽く手を振ると、フェリナとラナも小さく会釈をして去っていった。


蒼汰は立ち尽くしたまま、彼女たちの背中を見送る。


(俺は、本当にこのままでいいのか……)


不安と、安心と、少しの後悔が混ざり合った感情が胸の奥に渦巻いていた。


けれど、それでも。


――今はまだ、自分の足で立っていたかった。


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