第十一話『それでも朝はやってくる』
目を開くと、まだ薄闇が部屋を満たしていた。
窓ガラスの向こうには淡い朝霧が立ち込め、町の輪郭をやわらかくぼかしている。柔らかな光がカーテン越しに差し込み、部屋は深海の底のように静かだった。
「もう朝か……」
声を漏らすと、わずかな音も部屋の壁に吸い込まれて消えた。
俺は重い体を起こし、ぎしりと音を立てるベッドからゆっくりと足を下ろした。床の冷たさが足裏に染み、意識が徐々に覚醒していく。
視線を落とすと、自分の細く華奢な身体が目に入る。その度に、俺は微かな嫌悪と諦めを噛み締めた。生まれ変わっても、この身体からは逃れられないのだろうか。
ふと、昨夜の親子の姿が心に浮かんだ。リーナとアリア。泣き腫らしたその顔が、鮮明に瞼の裏で揺れていた。
――『手紙、ちゃんと届きました。ありがとうございます……』
リーナの震える声が、耳の奥で何度も繰り返される。
(違う、俺がしたのは届けたことじゃない)
俺はゆっくりと握り拳をつくった。
売っただけだ。ただ、偶然持っていたものをスキルで売却しただけ。
あの親子に本当に届けたかったのは、俺じゃない。
それはもう、この世界にはいない誰かだった。
(俺は、あの人の想いを勝手に値段をつけて売り払ったんだ)
胃の奥が冷たくなり、罪悪感が背中を伝い降りる。
胸が締め付けられ、呼吸が浅くなった。
自分のスキルに対する後悔が、今更のように込み上げてくる。
誰かの大切なものを『正式売却』という名の下で、簡単に取引してしまった罪悪感。
このスキルを使うということは、俺が誰かの想いや願いを値踏みしてしまうということでもある。
「こんなつもりじゃなかった……」
だが、今さら後悔しても、もう遅かった。
俺が売ったその手紙は、確かにあの親子の心を揺さぶり、傷つけ、そして癒したのだ。
俺は唇を噛み締め、小さく息を吐いた。
何も知らない顔をして、これからもスキルを使い続けるのか――その重さが、ひどく心に刺さった。
部屋の扉がそっとノックされた。
「蒼汰ちゃん、起きてるかい?」
マーサさんの声だ。
俺は慌てて表情を作り、静かに扉を開ける。
「はい、起きてます」
マーサさんはいつものように穏やかな笑顔を浮かべ、大きな手で俺の頭をそっと撫でた。
「朝ごはんできてるから、降りておいで。今日はちょっと寒いよ」
「あ……ありがとうございます。すぐに行きます」
ドアが閉まると、部屋に再び静寂が訪れた。
マーサさんの手の温もりは優しく、心地よかった。だが、それがかえって自分の中にある罪悪感を浮き彫りにするような気がして、胸の内が苦しくなった。
俺は頭を振り、その気持ちを無理に押し殺して身支度を整えた。
階段をゆっくり降りていくと、食堂は朝の穏やかな空気に包まれていた。
窓から差し込む柔らかな朝日が、木製のテーブルや椅子の輪郭を金色に染め上げる。
「おはよう、蒼汰ちゃん」
マーサさんが厨房から顔を覗かせ、明るく手を振った。
「おはようございます」
声を返しつつ、食堂にいる他の宿泊客をさりげなく目で追った。
エイノは静かに黙々とパンを口に運んでいる。彼の広い背中は朝日に照らされ、作業着に刻まれたシワがはっきりと見えた。
窓辺ではオリナ婆さんが相変わらず庭を眺めながら、小さな花のつぼみのようにほほ笑んでいる。
ラナは隅の席で今日も何かの本を広げ、眼鏡を押し上げてはページをめくっていた。
その日常の景色が、俺に小さな安心感を与えてくれる。
少しずつ、この宿の光景が俺にとって特別なものになりつつあった。
席に着くと、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、スープのやさしい湯気が鼻をくすぐった。
マーサさんが柔らかく微笑みながら、ハーブティーを俺のカップに注ぐ。
「ちゃんと食べてるかい? ほら、今日はちょっと特別なジャムがあるんだよ」
マーサさんの手に握られた小瓶は、色鮮やかな赤いジャムが詰まっている。
その細やかな気遣いに、少しだけ心が和らいだ。
「いただきます……」
俺はパンをちぎり、口に運んだ。
甘酸っぱいジャムの味が口いっぱいに広がる。
だが、心のどこかにはまだ、あの親子の涙が残っていた。
売却した手紙――それがあの人たちにとって、どれほどの意味を持つかを考えると、胸の奥がずきずきと痛んだ。
これから先も、この痛みを抱えながらスキルを使っていくのだろうか。
(それでも、俺は生きていくしかないんだ……)
窓の外、町は朝日に照らされて鮮やかに色づき始めている。
――それでも朝はやってくる。その事実が、今の俺にはなぜか少し残酷に思えた。
朝食を終えた後、俺はマーサさんに軽く挨拶をして宿を出た。
外に出ると、朝霧はすでに晴れかけており、町はすっかり目覚めていた。
石畳の上を人々が慌ただしく行き交い、通りの露店は賑やかな呼び込みと笑い声で活気にあふれている。
今日もまた、一日が始まる。
その当然の事実に、昨日感じた罪悪感が遠ざかっていくような安堵を覚え、同時にそれを許す自分に嫌気がさした。
(俺は、いつもこうして都合よく忘れようとしてる……)
石畳の道をゆっくり歩きながら、そんな後ろめたさが胸を締め付けた。
町の市場に近づくと、様々な露店が視界に入った。
鮮やかな果物、珍しい形の野菜、見たこともない布地や細工物――異世界特有の品々が並び、それを眺めるだけでも心が躍るようだった。
ふと、一人の少女の姿が目に留まった。
先日、市場で出会った焼き菓子を売っていたあの少女――マリィだ。
彼女は今日も一生懸命に、小さな不格好なパンを並べていた。額にはまた粉がついていて、前髪には火の粉で焼け縮れた跡がある。
(相変わらず頑張ってるな……)
俺は思わず微笑み、そのまま店の前に足を向けた。
「いらっしゃいま……あ! 蒼汰さん!」
マリィは俺に気づくと、満面の笑顔を浮かべた。
「また来てくれたんですね! えっと……あの時は本当に助かりました。私の作ったパンが、本当に売れるなんて……」
彼女は嬉しそうに、だが少し恥ずかしそうに目を伏せた。その表情が、少し前に会った親子の姿と重なった。
「あれから少しは売れてる?」
「はい、ちょっとずつですが。昨日、新しいお客さんが『面白い味だ』って言ってくれて……それで、もっと頑張ろうって」
俺は彼女の言葉に頷きながらも、心の中でひとつの罪悪感がよぎった。
あの時、彼女の焼き菓子をスキルで売った。彼女の努力や気持ちを、本当に理解しないままに。
「蒼汰さん……?」
マリィが不思議そうに俺を見上げる。
「ああ、いや、なんでもないよ。また、今度買いに来るよ」
俺はそう言って、その場を後にした。
笑顔で手を振るマリィの姿が、何故かひどくまぶしかった。
市場の人波に紛れながら歩いていると、ふと昨日の記憶が再び心に甦った。
――手紙を受け取ったリーナとアリアの姿。
売却したという事実に向き合うたび、苦しくなる自分がいた。
俺が持つスキル『正式売却』は、確かに便利で、確かに生活を支える手段になっている。
けれど同時に、俺は誰かの人生に踏み込んでいる。その責任から逃れることはできない。
そんな思考を繰り返しているうちに、俺の足はいつの間にかギルドに向かっていた。
冒険者ギルドは相変わらず活気があった。
入り口を通ると、酒場のような喧騒が俺を出迎えた。
受付にはいつも通りのアイリスが立っていて、俺を見ると微笑みを返してくれる。
「蒼汰さん、おはようございます。今日は何か依頼を受けられますか?」
その笑顔があまりにも屈託なくて、俺はかえって胸の内にある感情を悟られないように言葉を慎重に選んだ。
「今日は……まだ決めてないかな。何か、軽めのやつはある?」
「それなら、薬草の採取や小物の配達なんかもありますけど。お疲れなら、無理せずゆっくりするのもありですよ」
アイリスの言葉に、俺は小さく首を振った。
「いや、何かしてないと……落ち着かないから」
「……蒼汰さん、もしかして、昨日のことでまだ何か……?」
アイリスの声が優しく問いかける。その眼差しは静かで、まるで俺の心の内を見抜いているかのようだった。
「……いや、大丈夫だよ。ちょっと考えごとがあっただけ」
アイリスはそれ以上何も聞かず、小さく頷いただけだった。
彼女の持つ優しい配慮に、俺は少しだけ救われた気がした。
受付横の掲示板に目を向け、小さなクエストを選び取った。
(こうしている間だけでも、余計なことを考えずに済む……)
そんな思いを胸に、ギルドの扉を再び開けて外に出る。
街の雑踏が、俺を包み込んだ。
頭の中に浮かんでくる罪悪感は完全に消えないまま、それでも俺は歩き続けるしかなかった。
薬草採取の簡単なクエストを選び、俺は再び街の外に出た。
町の門を抜けると、空はすでに夕暮れの淡いオレンジ色に染まり始めていた。
道端の雑草は夕陽を浴びて影を長く伸ばし、風に揺れている。その静かな光景を目にしながら、俺は町外れの草原へと足を運んだ。
草原は静かで、街の喧騒は風に運ばれてかすかに届くだけだ。
薬草を摘み取りながらも、ふと手が止まる。俺の心は、まだあの親子の姿から離れられずにいた。
――本当に俺がしたことは、正しかったのだろうか?
小さな薬草を指先で摘み取るたびに、その疑問が浮かんでは消える。
俺のスキル『正式売却』は、ただの売買ではない。それは確実に誰かの人生に関与する力だった。
その重さを感じ始めた今、自分の行動ひとつひとつに慎重さが増している。
「……この世界で、自分らしく生きるなんて簡単に考えてたけど……」
つぶやいた言葉は、風に流れて消えていった。
自分が望む生き方を選びたいと願っていたはずなのに、いつの間にか、自分の力が誰かを傷つけてしまうことを恐れている。
ふと空を見上げると、薄紫の空に小さな星がちらつき始めていた。
慌てて腰を上げ、薬草をまとめてバッグに収めると、俺は急いでギルドへと戻った。
ギルドに戻り、薬草の納品を済ませて外に出る頃には、空はすっかり夜の色を帯びていた。
店の灯りがひとつずつ灯り始め、暖かなオレンジの光が街を包み込んでいる。
俺はゆっくりと宿へ向かって歩きながら、昨日リーナとアリアが泣きながら告げた言葉を反芻していた。
『ぬいぐるみなんてなくても……お父さんが帰ってきてくれるのが一番だった』
あの言葉は、俺の中に刺さった棘のように残っていた。
手紙を売ったのは俺自身だ。その行為が、確かにあの親子を救いもしたが、同時に心を掻き乱したことも否定できない。
石畳の道をゆっくり歩きながら、足元の影をじっと見つめた。
宿の前に差し掛かる頃、俺の足取りは重くなっていた。
扉を開けると、マーサさんがいつもと変わらない笑顔で出迎えてくれた。
その瞬間、張りつめていた心の糸が、ふと緩んだ。
「おかえり、蒼汰ちゃん。今日は遅かったね」
マーサさんの大きな手が優しく俺の背をぽんと叩く。その触れ方は、まるで母親のようだった。
「ただいま、マーサさん。ちょっと考え事をしながらだったので……」
俺が曖昧に言うと、マーサさんは何も言わずに微笑んで、小さく頷いただけだった。その表情には、すべてを察してくれるような安心感があった。
「あんまり考えすぎるんじゃないよ。ゆっくりお風呂に入って、今日は早く休みなさいな」
マーサさんの言葉は、静かに俺の心を解きほぐしていく。俺は小さく頷いて、階段を上がって自分の部屋に向かった。
部屋に戻り、ベッドに腰掛けると、深いため息が漏れた。
ランプの灯りが部屋の隅々まで柔らかく照らし、その暖かさが孤独を少しだけ紛らわせてくれる。
荷物を片付けていると、不意にリリアンから受け取ったばかりの服が目に入った。
それを手に取り、布地を指でなぞりながら、リリアンの静かな微笑みを思い出した。
『女性の冒険者は大変でしょう?』
リリアンの言葉には、静かな配慮があった。
彼女もまた、俺が持つ複雑な事情を深く理解してくれていたのだろうか。そんな人々に囲まれていることが、ほんの少しだけ救いだった。
新しい服を胸に抱えながら、俺は小さな決意を胸に抱いた。
これからもきっと、自分の行動で誰かを傷つけることがあるかもしれない。でも、だからこそ、その痛みをきちんと受け止めていかなければならない。
――『正式売却』というスキルが与えてくれるものと、その裏側にある重さ。
この世界で生きるということは、きっとそういうことなのだろう。
ベッドに横たわると、重いまぶたがゆっくり閉じていく。
遠くから聞こえてくる街のざわめきが、優しく耳をくすぐった。
それでも、朝はやってくる。
どれだけ苦しいことがあっても、罪悪感に囚われても。
それを受け止めながら、また明日も歩いていく。
俺はもう、それしかできないのだから。
意識がゆっくりと眠りの淵に落ちていく中で、そんなことをぼんやりと考えた。