第十話・後編 『届かなかった贈り物』
陽が傾きかけた市場の端、夕方の空は透けるような藍色に染まり始めていた。
石畳の上に伸びる影は長く、通りの灯りは一つずつ火を灯しはじめる。
細い煙が小さな屋台から立ち上り、香ばしい匂いと、あたたかな喧騒が町に広がっていく。
蒼汰は、歩く足を自然とギルドの方へ向けていた。
特別な用事があったわけではない。
気まぐれに通りを歩き、気がつけば、木製の扉の前に立っていた。
扉を開けると、室内には穏やかな空気が流れていた。
冒険者たちの笑い声、依頼書のやり取り、ペンを走らせる音。
その全てがどこか安心感を与えてくれる。
「こんにちは。今日は、どうされました?」
カウンターの奥から、アイリスが微笑む。
「特に用事はないけど……なんとなく、顔を見に来た」
そう答えると、アイリスは少しだけ目を細めた。
「なんとなく、って案外大事ですよ」と小さく笑って、ペンを置いた。
蒼汰はその言葉に頷き、受付の横の長椅子に腰をかける。
今日の疲れがじんわりと体に広がっていく。
少しの間、ぼんやりと天井を見上げていると――
ギルドの扉が音を立てて開いた。
冷たい風が、ふっと足元を撫でる。
振り向いた先に立っていたのは、ひと組の親子だった。
女性は三十代後半ほどに見えた。
寒さのせいか厚手のマントを羽織っていたが、顔には明らかに泣き腫らした跡があった。
その隣に立つ少女――十歳になるかならないかの年頃――もまた、真っ赤な目をしていた。
手を強く握りしめたまま、視線を彷徨わせている。
受付でアイリスが立ち上がる。
「あ……お待ちしておりました」
その言葉に、親子は深く頭を下げた。
少女の方は、何かを言いたそうに唇を噛んでいる。
蒼汰は、その姿を見た瞬間、胸の奥がかすかに軋むような感覚を覚えた。
(もしかして……)
アイリスがこちらを見て、一歩踏み出すように視線で促す。
蒼汰が立ち上がると、親子はぴくりと反応した。
「あなたが……」
女性が声を震わせながら言った。
「……さっき、大切なものを届けてくださったのに、挨拶もろくにできなくて……すみません……」
「い、言いたかったのに……っ、わたし、泣いちゃって……」
少女が必死に言葉をつむぐ。
その目には、大人びた哀しみと、子どもらしいまっすぐな思いが同居していた。
「……手紙、ちゃんと、届きました。ありがとうございます……」
女性――リーナは深く頭を下げると、胸元から小さな封筒を取り出した。
それは、かすかに泥に濡れた跡のある、皺だらけの便箋だった。
「……これを読んで……ああ、本当にあの人だって、すぐにわかって。癖のある書き方も、言葉も、そのままで……」
リーナの声が、途中で詰まる。
「ずっと、ずっと待ってたんです。でも、帰ってくるのは、もう……って、わかってたのに……」
アリアが、母の服の端をぎゅっと掴んでいた手を、そっと離した。
「……ぬいぐるみなんて、なくてもよかったの。ほんとはね。くまさんじゃなくて、お父さんが帰ってきてくれるのが、いちばんだったのに」
言い終わると同時に、アリアの頬を大粒の涙がつたった。
その声を聞いた瞬間、蒼汰の胸が締めつけられる。
(……俺は、あの手紙を“売った”だけだ)
(ただそれだけ。けれど――)
アリアが小さくすすり泣きながら、蒼汰の袖を掴んだ。
「ありがとうって……伝えたかったの。お父さんの、かわりに……」
蒼汰は何も言えなかった。
声が、喉の奥で詰まって出てこなかった。
ただ、アリアの手が小さくて、あたたかくて。
そして、震えているのが伝わってきた。
そっと、その手を両手で包み込む。
「……届いて、よかった」
たった、それだけの言葉。
それでも、アリアは小さくうなずいて、もう一度泣き出した。
リーナも、涙をぬぐいながら、何度も何度も頭を下げた。
二人が去ったあと、蒼汰はギルドの柱の陰に立ったまま、しばらく動けなかった。
街の灯りが増えていく。
誰かの笑い声、馬車の車輪の音、屋台の呼び声。
そのすべてが、まるで遠くの景色のように感じられた。
(……売ったものの先に、誰かの人生がある)
(ただの“不要品”だと思った物が、誰かにとっての“最後”だった)
自分のしていることの重さを、初めて本当に理解した気がした。
夜の街は、思ったよりも寒かった。
宿の明かりが見えたとき、蒼汰はふと足を止める。
あの親子も、家に帰って、この灯りのような場所で……泣いて、少し笑って、明日を迎えるんだろうか。
(……そうだ。あの人が、守りたかったのは)
この、“灯り”だ。
部屋に戻り、荷物を置いたとき、不意に頭の奥がズキリと痛んだ。
(……俺の、親は?)
脳裏を探る。けれど――
記憶が、霧のように薄れていく。
胸が苦しい。
思い出そうとするたびに、吐き気が込み上げる。
「……っ」
額に手を当て、膝をつきそうになったその時――
「……蒼汰ちゃん? どうしたの、大丈夫?」
後ろから、マーサの声がかかった。
振り返ることはできなかった。
でも、ただその声に、少しだけ、救われた気がした。
ハイペースな更新はこれで収まります、明日から一日1~2の更新になると思います。