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第十話・中編 「灯の在処」


名を、レオン・ファルグレイという。

どこにでもいるような農夫だった。

強くも賢くもないが、毎朝畑に出て、昼には土の匂いをまとい、夕方には背中の痛みを抱えて帰る。

そんな暮らしを、当たり前のように続けてきた。


村の名前すら地図にないような山あいの地。

日が沈むのが早く、夜はすぐに冷え込む。

家々の窓に、ろうそくの火がともりはじめると、人々は自然と静かになる。


魔石ランプなんて便利なものもあるらしいが、あれは高価すぎる。

一つで数万シエル。買ったとしても、替えの魔石や加工費で破産する。

俺たちみたいな暮らしには、ただの夢物語だ。


けれど、それでもいい。

暖を取るための小さな火、ろうそく一本の灯が、家族のいる場所を照らしてくれるのなら、それだけで十分だった。


家には、俺の生きる理由があった。


一つは、妻のリーナ。

背は高くないが、手足はしっかりしていて、家の修理や畑の作業でも男に引けを取らなかった。

表情はどちらかと言えば硬いが、根はとても優しい。

疲れた日でも、何も言わずに湯を沸かして待っていてくれる。

一緒にいる時間が長くなるほど、言葉よりも仕草で伝わることが増えた。


もう一つは、娘のアリア。

七歳。茶色がかった栗毛に大きな瞳、そして転びやすいくせによく走る。

誰に似たのか、よく笑い、よく喋り、よく怒る。

俺が帰る足音を聞くと、いつも一番に玄関まで走ってきて、勢いよく飛びついてくる。

「パパーっ!」という声は、どんな薬草よりも疲れを吹き飛ばした。


そして三つ目――家の中でともる、ろうそくの灯だ。


夕暮れ、畑から帰る道すがら、窓からこぼれる橙の光を見るたびに思った。

この家に戻ってくるためなら、どんな苦労も耐えられる、と。


だが、その日常は、じわじわと削られていった。


春は霜が遅れ、夏は雨が降らず、畑はひび割れた地面と萎びた葉の残骸だけになった。

家畜も痩せこけ、隣家では牛が三頭、病で倒れたという話が入ってきた。


家の戸棚の中身は、目に見えて減っていった。

干しパン、干し魚、塩。保存していた根菜も、日に日に味が落ちていく。


アリアの誕生日は、もうすぐだった。

あの子は、去年の秋からずっと「くまのぬいぐるみがほしい」と言っていた。

旅の商人が持ってきたぬいぐるみを見て、目を輝かせていたのを俺は知っている。


(……このままじゃ、なにもしてやれない)


自分の拳を膝の上でぎゅっと握った夜、村の掲示板に“王都・短期出稼ぎ募集”の張り紙が貼られた。


土木作業、荷運び、清掃、雑用。3ヶ月。

賃金は日給制。住居は簡易宿舎。

条件はきつかったが、それでも「誠実に働けば得られる対価」があるのなら、それは、俺にとって十分な光だった。


「パパ、誕生日には帰ってこれる?」


「……ああ。ちゃんと帰ってくるよ」


アリアの笑顔を思い浮かべながら、そう誓った。


出発の前夜。

リーナは黙って荷物を詰めていた。

彼女が夜に部屋でひとり作業をしているときは、たいてい泣いていることを俺は知っている。

けれど、声をかけるべきじゃないと、今回ばかりは思った。


明け方、荷車のロープを締めていたとき、二人の気配が背後に現れた。


「……灯りは、ちゃんとつけててくれよ」


「うん。あなたが帰ってくる場所だから」


リーナが小さく言った。


アリアが前に出てきて、口を尖らせた。


「パパ!ちゃんと“くまさん”買ってきてよ!」


「忘れないよ。約束だ」


「うそついたらダメだからね!」


小さな手が、俺の手をぎゅっと握ってきた。

ああ、この手の感触を、俺はずっと守りたかった。


「……絶対、帰ってくる」


俺はそう言って、手を放した。


帽子を深くかぶり、家のほうを振り返ったとき。

窓のろうそくが、ひとすじの風に揺れていた。

その橙の灯りが、まだかすかに残る月明かりの中に、滲んで見えた。



----------


王都に着いたのは、最初の霜が降りた日だった。


空気は凍てつき、石畳を踏む音が濡れたように響く。

田舎の湿った風とは違う、乾いた冷たさが肺の奥に突き刺さる感覚。

遠くで鐘の音が鳴っていた。低く、重たく、まるで異国の空気がそのまま音になったようだった。


どこもかしこも石と影でできたこの都に、俺はひとりで来た。

帰る場所を胸に灯して。


最初の仕事は、郊外の農道敷設だった。

地ならし、斜面の補強、杭打ち、砕石運搬。

日が昇ると同時に道具を握り、沈むまで土と石にまみれる日々。


誰もが黙々と作業していた。

同じように、何かを背負ってここへ来たのだろう。

言葉は少なかったが、互いの沈黙にこそ、重みがあった。


作業が終われば、共同宿舎へ戻る。

石壁の冷たさがじかに伝わる狭い寝床、乾いた毛布、粥のように薄い晩飯。

それでも、不満は言わなかった。言えば、心が崩れそうだった。


(これが、王都で稼ぐということか……)


俺は働いた。

足に痺れが残っても、手に血がにじんでも、声を上げずに杭を打った。

ただ、“帰る”ために。


いつの間にか、指折り数えていた日数はわからなくなっていた。

朝が冷たく、昼に風が強くなり、夜に吐く息が白くなる。

季節が少しずつ進んでいる。

きっと、それは“約束の日”が近づいているということだ。


その頃、右足に異変が起きた。

歩くたびに膝の裏がきしみ、ふくらはぎが痺れる。

宿舎で靴を脱ぐと、足首が腫れ、指先が紫がかっていた。


それでも働き続けた。

痛みが身体の一部になっていくのを、ただ受け入れた。

誰に訴えるでもなく、黙って。


ある朝、給金の一部を手にして、王都の市場へ足を運んだ。

背中に血の滲んだ包帯を巻いたまま、足をひきずりながら歩いた道の先。

布屋と革細工の間に、小さな玩具店があった。


埃をかぶった棚の奥に、ひとつのぬいぐるみが置かれていた。


くまのぬいぐるみ。

茶色で、少しだけ目がずれていて、左の耳が折れていた。

けれど、見た瞬間にわかった。あれだ。アリアが欲しがっていたのは。


「これ……包んでもらえますか?」


そう言ったとき、声が震えた。

背中を曲げた店主が無言でうなずき、薄紙で丁寧にくるんでくれた。


俺はその包みを、まるで命のように抱えた。


その日は、不思議と足の痛みが少しだけ軽く感じた。


作業場では、もうすでに俺の異変に気づいている者もいた。

それでも誰も言わない。

痛みは皆にあるからだ。


右足はもう、まともに地を踏めなかった。

引きずるたび、布の内側で擦れた肉が泣いていた。


それでも手紙は書き続けた。

ほとんど習慣のように、毎晩。


「アリアのくまさん、買えたよ。きっと、気に入ると思う」


「リーナ、寒くなってきたけど、灯りはちゃんとついてるか?」


ペンを握る指が痙攣しても、文字は崩れようとも、止めたくなかった。

帰る灯りが、まだ遠くで揺れている気がした。


あと少し。

あと、少しだけ――


---------


膝が、笑うというより、もう震えていた。

右足はとうに限界を越えていた。

膝下がまるで別人のように重く、ふくらはぎに広がった熱は、足先の感覚すら奪いはじめている。

歩くたびに、骨の中で何かが砕けては擦れるような、そんな生々しい痛みがあった。


それでも俺は、歩いた。


王都の労働を三か月。歯を食いしばり、血を吐きそうな日々を乗り越えて手にした銀貨――

ぬいぐるみを買ってもなお残ったそれは、冬を楽に越せるだけの価値があるはずだった。


あれで灯油の代わりのろうそくを買える。毛布も。干し肉も。麦も。塩も。

あの家を、少しでもあたたかくできる。


(あと少しだ。あと少し……)


呼吸が白くなっていた。

森の入り口はもう見えている。木々は痩せ、冬を迎える準備に入っている。

湿った落ち葉が足に絡み、木の根がぬかるんだ道の下から顔を覗かせる。


手にしていた木の枝は、杖代わりにもう何度も握り直したものだった。

豆のつぶれた手のひらに、握力など残っていない。

それでも、その一本の木にすべてを預けて、俺は森へと足を踏み入れた。


……その瞬間だった。


気配がした。


空気が、変わった。

それまで風が吹いていたはずの道に、ふと、息が止まったような冷たさが満ちた。


そして、すぐに――


「おい。動くなよ、じいさん」


声。

背後から。

低く、濁った男の声。

斜め後ろにもう一人の足音。枯れ枝がぱきりと折れる乾いた音。


目を動かすと、森の薄闇の中に、鉈のような刃と弓が見えた。


野党。


この季節、森に入るなら覚悟していた脅威。

だが、まさか今日、このタイミングで。


「置いてる荷、降ろせ。食いもんが入ってりゃよし。金でもかまわねえ」


「……それは、持っていけない。どうしても……渡さなきゃいけないんだ」


「渡す? 誰に?」


「……家族にだ」


「ほう。そりゃ立派な動機だ。けどな」


ザクッ。


男が足元の泥を蹴るように踏みつけた。


「こっちは“ここ”で生きてんだよ。正義は関係ねえ。命張ってんなら、黙って置いていけ」


男の目が、俺の背の荷物の包みに向いた。

くまのぬいぐるみ。紙に包んだそれの角が、少しだけはみ出していたのかもしれない。


(それだけは、絶対に……)


一歩、後ずさる。


右足が泥を踏んだ瞬間、ぐにゃりと関節が外れかけ、激痛が脳に火を走らせた。

足が滑る。手が地面に突き刺さる。視界がぶれる。


その瞬間、男の一人が駆け寄り、肩口に何かが当たった。

鈍く重い衝撃。身体が後ろに倒れ、落ち葉と血と泥の中に沈んだ。


「チッ、しぶといな……」


「逃がすなよ。金持ちじゃねぇが、着てるもんがわりと新しい」


男たちの声が、風にかき消されるように遠のいていく。


体が言うことを聞かない。

右足は焼けた鉄の棒のように熱く、肩は砕かれた陶器のように痺れている。


でも、俺は、這った。


ただ、それだけ。

背中の包みを、胸に抱えるようにしながら。


(くそ……まだ……まだ死ねない)


落ち葉の匂い。腐った木の皮の匂い。湿気た苔の感触。

森の土が、顔を濡らす。

けれど、その冷たさよりも、胸にある温もりのほうが、俺には強かった。


くまのぬいぐるみ。

アリアのために買った、最初で最後の贈り物。


紙の包み越しに、あの子の笑顔を思った。


なんとか、斜面の根のくぼみに身体を沈めた。

全身が痛む。指の先すら、思うように動かない。


それでも、震える手で革袋を取り出した。


中には、便箋。

筆記具。

そして、銀貨と、ぬいぐるみ。


(届けてくれ。……せめて……これだけは)


皮の袋に、ひとつひとつを詰めていく。

手が震えてうまく結べない。

それでも、何度も、何度も。


(リーナ……ごめん。もう……声も……届かないかもしれない)


「アリア、誕生日……忘れたこと、ないんだよ」


「パパ、帰るつもりだったんだよ。ちゃんと。走って、帰るつもりだったんだ」


視界が滲む。

涙なのか、血なのか、わからない。


「会いたい……まだ……会いたい……」


声にならない声が、胸の奥から漏れた。


会いたい。

声を聞きたい。

髪を撫でたい。

指先を、繋ぎたい。


ただそれだけを、ずっと、夢見ていたんだ。


空が、ゆっくりと紅く染まりはじめていた。

木々の枝の隙間から、ろうそくのような光が差し込んでいた。


あの灯りが、まだ、遠くで揺れている。


静かに目を閉じた。

右手は、ぬいぐるみを包んだ袋を、最後まで離さなかった。


息が、薄れていく。


そして、祈るように。

想いをひとつだけ、風に託した。


──帰れますように。

──この想いが、届きますように。

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