試写会の指定席
ナメちゃんは宅配便の箱に張り付いて大邸宅に不時着した。紅葉とは違うタイプの人種を観察すると、虻の翅というゲームソフトを開発した人間が使用人として働いていた。
1 花ケ咲
南口改札口を潜る直前、選ばれた住民の豊かさが感染する。不審者を窺う視線を背中に受けてはガードマンが常勤する駅の電光掲示板で月花家の所在を確認する。
緑のランプが点滅し最短コースを知らせる、自動化により高級住宅地は訪問者を厳選し管理しているのか。
信用金庫に寄り道をするため北側に進むと眼の前を疾ける野分が屋根の雨樋に溜まっていた枯葉を攫う。
砂埃に頬を叩かれ無意識に橋の方角を睨みつける。
土管から現れた子供達が石垣をよじ登る。リーダーの少年が手を差し伸べ仲間を引き上げ狭い路地裏へ急ぐ。
河から釣り上げた鯉をバケツに入れ「宝物」を最後の少女が覗き込んでいた。……あんな日もあった。
羽雄は感傷的な気になり瞬きをする。
風が嘲笑して紺色のコートを身体に巻き付ける。
眼を少し持ち上げれば街はやけに眩しい。直射日光が都市に墜落する凄まじい街!どぶ川に筏を浮かべ遊ぶ乞食の一群がスラム化した街には似合う。
此処が花ケ咲か!
人気の無いコンビニの店内からは店長が頬杖をついて陳列棚に並ぶ商品の数を数えていた。金髪の店員がもぞもぞとしゃがんで動いている。卑猥な想像が的中した。飲みきれずに床に何かを吐出していた。
埃塵の彼方に視えるのは乱雑に建てられた貧民街の風景。
だらりと垂れ下がる異様な物体に一瞬首吊死体かと驚愕した。
よく見ると高圧配線に絡むカイトの絵柄の顔が頬を切られ路地を見下ろす。
同じ様に遊び飽きられた運命に同情しているのか?!
傾いたブロック塀に寄り掛かり鍵の壊れた子供の自転車が転がっていた。
野良猫が野積みされた廃棄物の隙間から鼠をいたぶる風景。
何と言う不衛生な街であろう!臭覚に異常のある者しか生存出来ない場所を確認する。
風向きにより酒宴を開く乞食達の衣類からは悪臭が漂う。
よく南側住民から苦情が来ないものだ。
Cachingを済ませ再び切符を買い駅に戻る。方角を確認して歩き進む。
南側の高級住宅地は装いを一変していた、区画整理された道路に沿い、Mansionも陸屋根ではなく日本瓦を葺く事で美観を統一されている。南北の景観は明らかに差別化されていた。
先程の疑問が一つ解決された。南側に植林された樹木が北側の悪臭を浄化しているのだ。
遊歩道と呼ぶには広大な森が広がる。これ程の格差が同じ街で行なわれて良い物なのか?!
帝国リゾートが開発した区画と地元不動産が開発した区画では貧富が歴然である。
花ケ咲南は趣向を凝らした家々が所得と虚栄を此れ見よがしに飾り立てる。十二番地にある月花家はその辺りでも屈指の敷地面積を誇る。
外観は切妻屋根の勾配が峰を連想する地味な景観であるが厳かな風情が地に足をつけている。
何代にも渡り受け継がれた樹木は大理石の塀の上から他人の視線を遮る。
ふと見上げた塀の上に巡らされたガラス片に真新しい血痕が付いていた。
つい最近泥酔者でもよじ登ろうとしたのか?割れた二級酒の瓶がU字溝に散らばり不意に想像力を働かした。
外国なら撃ち殺されていただろう!
無職の期間が心まで貧しくするのなら、来る方角を間違えたのかも?深く吸い込む空気にこの街で勤めたいという希求が宿る。此処は…風が違う。
人工的な美は風さえも変えてしまえるのか。
失業保険のある使用人に羽雄は憧れた。
眺める門扉には瀟洒で奢りある薫りが充填されているのか!
貧しき訪問者の踵をかえしチャイムを押す事を躊躇わせる。
鋼鉄の黒い扉は一度招かれたら脱出不可能の牢獄のゲートに思える。
遠回しに邸宅を伺い手入れの行き届いた庭木に眼を留めた。
葉隠に遊ぶ猫の姿が無くしかけた安泰と言う言葉を過ぎらす。
軽佻な選択により職業を決定する者は後に過ちに振り返る。
「三十年の人生の中には色々な事があった」
きつく結んだ唇を緩め微笑を浮かべると壁に少しより、モニターカメラに好印象を与える様にチャイムを押す。
数秒後インタフォーンから透明だが幾分神経質な声が響いた。
野牙羽雄さんですね!
少し後方へ下がって下さい。
声と共に手も触れないでドアが開閉すると眼前に聳える邸宅の全景が現われた。
「やはり使用人を雇う邸宅だな」
そう思ったのが家に対する第一印象である。
独特の色調に配られた扉は四季をImageしてあるのか、注文の多い料理店の様に声で誘導され室内に入る時不安が寄せた。
殺菌室に入れられ消毒でもされようものなら退散したであろう。
地上を照らす輝きを逸脱したシャンデリアがロビーに3つ下がり、照明の役割よりもモビールと見た方が良さそうだ。まるで異国に赴いた様に周囲を見渡し、吹き抜けの玄関ホールの硝子を射して入る光線に感動する。
此れが東京で個人邸なのか!?
第三国の大使館が幾つ入るのであろう。
高鳴る鼓動を押さえ背筋を伸ばす。
金箔の屏風が室内扉となり各室を繋げている。全開された東南を一直線に測ればボーリングのレーンは作れる。
コートハウスであると気付いたのは中庭の壁泉のライオンが監視していたからだ。辺りに注意を向けると、レイアウトを無視して置かれた観葉植物の陰で何かが動く。
戦慄に近い動揺に息を飲むと、初老の男が近づいてきた。
背の高い男は片足を引きずりその都度油の切れた機械の音がする。
義足なのかと疑うが、彼が手にしている植木鋏の音であった。男は植木鋏を右手で開閉させては危なっかしく鞘に収める。
鋭利な刃物に敏感な性質なので安堵した。
初めての面接で首など切られてはたまらない。
ニヤッと笑う男の犬歯が光り囂しい鳥の鳴き声が反響する。
シャンデリアの上に鳥籠が在るのか!
見上げると鳥が嘴で檻を広げ逃げようとしている。
男は蘭星と大声で叫ぶ!
扉の陰からポニーテールにしたメイドが現れる。
水を飲ます時間だと告げる男の命令に蘭星は鳥籠を繋ぐチェーンを降ろす。
数分の沈黙の後男の沈着な声が威嚇する。
月花家の管理を任されている執事であると告げられたあと、植木鋏を床に置き彼は胸元に手を入れる。
その仕草に何が飛び出すのかと恐れると、携帯用ウェットティッシュを取り出した。
庭仕事の手垢でも落とすのかと窺うと手を拭いてくれと要求された。
云われるままに手を拭くと邸内を案内する前に確認があると告げられた。
主人に一任されているらしく、かなり横柄な態度で接する執事は眼鏡の奥から斜視の瞳を瞬かせた。
丁寧だが幾分無礼な雰囲気でもある。
名刺を渡され確認すると、月花家執事、田妻新男と明朝体で印刷されてあった。
この様な紙切れ一枚で人間はプライドを持つものなのか。
豪華なソファーに腰を下ろす時考えた。ハンケチを敷いた方が礼儀だろうか?!いやハンケチを敷くという事はソファーが汚れているから敷くというふうにも取れる。この場は尻を持ち上げて座ろう。
……田妻は管理会社の紹介状と羽雄を見比べていた。
羽雄の恰好が滑稽に思えたのだろうか?!
もしかしたら臀部に疾患のある者と勘ぐったのかもしれない。
英国製スーツで身をこなす田妻は急に背を向けた。
シャンデリアの埃が気になるらしく、駆け出すと羽箒で蝶の形のクリスタルガラスを擦っていた。
……此れは三千万です。クリスタル一粒が平均的サラリーマンの月給ですね!?
此れは明日からあなたの仕事です!
と聴こえた。
正面を向かれ緊張ぎみの風貌を゙眺められる!
……栄養状態があまり良くありませんね!
要らぬお世話である!ボディビルのインストラクターの面接に来た訳では無い。
健康状態はと聞かれると同時に問題ありませんと告げた。
田妻の顔から緊張がほぐれ笑顔が浮かんだので、睨みつけた事を反省した。
腰の力を抜くとソファーに深く掛けた。
ふんわりしたクッションが今まで座ってきた椅子のイメージを一新させた。
本来ソファーとはこの様に人間を包み込む感触を備えた物なのか?!
……当面は通いにして貰いますから。
田妻は履歴書に眼を通しながら事務的に告げた。
……月花家では香様と草次様は海外に出向いておられます。
管理は私が一任されている関係上!
初老の穿鑿家の真意は理解できる。
素性の分からぬ三十男を観察する期間が必要なのだろう。
……ほう?Computerーprogrammerでいらしたんですか?資格がある方がほうボイラーの免許もお持ちですか!
人間は学歴や資格に弱い。履歴書に書いた資格から田妻の口調が変わり出した。
穿鑿されるのは好きでは無いが、相手の趣向に合わせるのも面白い。
時間的余裕がある職業に転職したかったのです。
聞かれる前に告げていた。
実際睡眠不足や過労で倒れた先輩を見てから考えを決めたのだから。
一挙一動に眼を配るのは田妻の元の職業が管理職であった事を思わせる。
……特技は簿記ですか。ほう、検定試験にも合格なさっている。
頭脳労働者が今度は体力が入りますよ。
語学は苦手ですか?
生家が青果業で苺の扱いは慣れている。また好物は蝗の佃煮だと言いそうになった。
初対面の人間にジョークはまずい。まして管理職上がりは才能やユーモアに敵対心を持つ者と決まっている。
……あの飾り棚は人間国宝の方が製作した自家数億のものです。
田妻はリビングを指差すと一つ一つの調度品の価値を伝える。
説明を小一時間されてようやく先程のメイドがお茶を運んでくる。
英語混じりの片言の日本語を話す仕草が可憐だ。
蘭星の指がティカッブを置き、腕を避けた瞬間彼女の腰に手が触れてしまった。
弁解の言葉が交差し、彼女は赤面すると厨房へ下がる。
緊張がほぐれると同時に尿意を催してしまった。
「トイレを拝借できますか?」
細々と動き回っていた田妻は外国製の掃除機のノズルを布で擦っていた。
……この掃除機はWHITE HOUSEで使用しているものです、
注釈に恐縮して頷くとゲストのトイレに案内される。
……くれぐれも汚さない様にお願いしますね。
大理石の床に和式トイレ、周囲を鏡で囲い僻地のクラブを連想する。
鳥の羽根が浮いている便器に蘭星のしでかした報復が窺われる。
可愛い顔している癖に残虐な娘だと思った。
ドアの陰でウェットティシュを持ち蘭星が待ち受ける。
羽根が血で汚れていたよと告げる。
………ワタシわからない。ナゼ水飲ませよとしたら鳥が溺れました!
この場は言い訳を信じるのが得策であろう。
潔癖症の住人に馴れるには時間がかかるだろうが、彼女のはにかむ笑顔には好感が持てた。
あの鳥の寿命が終わったおかげで明日からの仕事も一つ減った。
結構感謝しているよと彼女に微笑んだが、分かっているのだろうか。
…猫の餌に私されます。蕗子様は恐ろしいと怯える。
たまたま水を飲ませた鳥が溺死した事が余程ショックだったのか。
彼女は軽い錯乱状態を起こす。
神経が細すぎると切れてしまう。鳥籠に入れられたあの鳥はもう一人の俺かも知れない。
通路を行くと颯爽とSkateboardに乗る娘とすれ違う。
洗い晒しのジーンズからラベンダーの香りが漂い、見送ると赤いホットパンツの縊れた腰が挑発的に揺れていた。
蘭星に尋ねるとあれが月花家の一人娘、蕗子であると教えられた。
壁面に飾られた歴代の社長の肖像画は人類の進化を思わせるようだ。
蘭星から田妻にバトンタッチされた案内は、邸内巡りではあるがハイキングに行くより疲れる。
室内を歩きふとある完全なる確信に到達した。
コーディネーターやデパートの外商に唆され、一番高いもので室内を満たしたに違いない。
田妻は明日からお願いしますと咳払いをする。その瞳の奥には底知れぬ猜疑心が内在されている。
窓辺から土蔵を見詰めているのを感じた様だ。
あれはという問い掛けに唇を結んだ田妻が一語一語噛み締めるような忠告をした。
……豚小家が離れに有りますが獰猛な獣が居るので近付かない様に!?
前の使用人の方が腕を食いちぎられました。
土蔵の中で飼う動物とは何だろうと想像したが餌にされるのは御免だ!?
分かりましたと応えると、くれぐれもと念を押された。
時のない場所と云う表現が適す月花家で小間使いとして雇用されて一週間が過ぎた。
歌を口ずさみ人の枯れ葉を掃く時間が好きだった。
洋画の一コマのように自分を俯瞰して、こういう人生も在る物だと納得出来る。
建売住宅のローンに追われる人間からすれば、夢を見ている様な毎日である。
僻みよりも現実認識の境界が無くなる。庭園の芝生に遊ぶ猫にしてみても野良猫とは毛並みが違う。
二階の窓から猫を呼ぶ声が響いた。
表札に記されている蕗子と云う画学生だ。
「日の丸に気をつけてね」
庭を駆け回るチンチラは日の丸と云う呼び名らしい。
真昼に寝起きの顔を見せた蕗子は用事を言いつけようと叫んでいた。
普段は立ちいる事が許されぬ室内は金の調度品が並び、格別な身分の人の生活空間は高級ホテルの一室のようであった。
三方向にある窓から自然光が差し込み、南のバスルームとトイレを通り過ぎ東側に置かれている応接セットまで陰を延ばす。
アトリエは螺旋階段を上った3階にある様だ。
異国の言葉が響き外人モデルが二人、蘭星に案内されて降りてくる。
蘭星は通訳も兼ねている。片言の日本語で会釈した彼女はモデルを見送る。
壁にかかる絵画は紛れもないピカソの草上の昼食である。
裸婦のセクシャルな姿態が眼に焼き付き暫く呆然と佇む。
ふと足元にくすぐる様な囁きが近付いた。猫の日の丸が擦り寄っていた。
しゃがみ込むと膝に乗り懐いてくる。
アトリエの螺旋階段から蕗子の足首が視える。
彼女は飼い猫が羽雄に抱かれたのを珍しがり日の丸に告げていた。
「臭いけどトイレじゃないのよ、そこは」
金持ちの表現は時としてジョークではなく厭味にもなる。
畜生の習性は気まぐれなものだ。
指にじゃれつく猫に蕗子は私のも舐めてと云った。その言葉は欲情を刺戟した。
アトリエではイーゼルに乗せられた黒人ヌードが5人絡み合うのか?まるで溶け合う様にデッサンされていた。その構図の捉え方はかなり異質ではあるが、異様な存在感と肉感が融合された配色は心に強引に迫ってくる。
この種類の絵は天才的な閃きがなければ描けないだろう。
感性の鋭い女性であると羽雄は感心した。
入れ違いに出ていったモデルの車のエンジン音がガレージで響いた。
蕗子がモデルの為に取り省いた砦からは媚薬の香りが漂う。
外国製の掃除機の吸い口に異物が詰まったので、取り出すと赤いランジェリーが用途を終え埃まみれになっていた。
Made inFranceである。
階下では衛星放送のChannelを変え蕗子がScreenの画面を追う。中国の産児制限と云う番組では等身大のCasterが医療問題を提起していた。
…あの娘の国の性生活って貧困なのよね?
相槌を打っていいものか迷った。
蘭星がベッドメイクしている姿に蕗子は当てつけているようだ。
…蘭星が片言しか喋らないのは分かるけど、あなたも唖なの。
一方的に詰問しては彼女は抜き散らかした衣類を籠に詰める。
…蘭星?!もうこのフロアーはいいわ!いつまで居るのよ!あたし!シャワー浴びるのよ!此れ!洗濯機に突っ込んでおいてね!?
あと豚小屋の獣二匹に餌もあげるように田妻に言ってね。
くれぐれもあんたは餌をあげに行っちゃ駄目よ。
もう何人も大怪我してるんだから!
蕗子は命令調でヒステリックだが使用人をいたわる気持ちはあるようだ。
考えを変えれば自分の家で使用人が怪我をしようものなら、煩わしい事が自分に降りかかるからであろう。
無言で微笑む蘭星の束ねた髪のリボンが眼に焼き付く。
日の丸を抱えバスルームに入る蕗子のシルエットが揺れた。
*
小雨の降りる庭では衣服を通る冷たさが身に沁みる。雑役を繰り返し肌寒さを堪えるが、楽な仕事というものはやはり存在しない。
泥の跳ねた窓ガラスを磨き、居住者が風景を満喫できるように気を配る。
暴風雨であろうが、決められた作業スケジュールは変更出来ない。
濡鼠になった背中に田妻の神経質な呼び声が染みた。
給与の支給という甘い誘いと屋内作業に戻れるという安堵感が胸を暖めた。
執事室では田妻が何か言いたそうに待ち構えていた。
…、私も会社を経験から上に立つ人間の苦労は分かります。
彼は羨望が欲しいのか!面倒身が良いのは時としておせっかいとも取れる。
おしめの世話までして欲しくない。
腹の中で何を基準にして良い人なのかと思った。
……あなたは友達がいますか。
唐突な質問をする男である。友達の数が人望を決定すると信じているのか、莫迦らしい。
ふと過去の友人関係を思い胸糞が悪い気がした。他人が友情という名の下に欲しがるものはお金とコネ,要は利害である。
差し出された紅茶の湯気に人間を差別する金の亡者の説教が続いた。
……30にもなって自立も出来ないとは、社会の一員として恥ずかしくないのですか。
いい加減にしろと口から零れそうになる。
教科書通りの人生を選び、鋳型に嵌められた没個性的な使用人を募集したのか。腹に溜まった言葉を紅茶と共に飲み込むと温めの虚しさが襲う。
仕事を辞めれば生活出来ない自分の未熟な人生に失望する。
「野牙さん!あなたは人生から逃げていませんか、世の中は
成功者と敗残者に分けられる。お金を稼ぐ者と稼がない者、また稼いでもより多くを稼ぐ者が成功者と呼ばれます。それがビジネスの社会です。」
相槌を打つのにも慣れた。落胆の吐息を隠して給与明細書にサインをした。
……あなたはビジネスで生きる強さが有りますか。
田妻のいつになく執拗な口調にたじろぎ首を振った。
…あなたの未来は破産です。此処を出たら乞食になるのです。
何故こんなに虐められるのか直感的に感じた。この邸宅の使用人は田妻の召使であり子分であり、最低の地位にいる人間なのだ。
地位の低い者は逆境に不満を言っても仕方ない。堪忍袋の尾を締めて深く深呼吸する。
田妻な何か云う前に、贅沢な空気を吸いたいのですと抵抗した。
……贅沢な空気ですか、ちっとも贅沢では有りません。この邸宅の空気は真面目な人が培って残した由緒ある高貴な香りです……と言われた。
あなたも死ぬ気になって仕事をして貰います。……それと!
田妻はまだ何か要求する様な口調である。
……蕗子様の愛猫、日の丸殿が悪性の腫瘍にかかり御殿医が診察に見えます。使用人に抱かれたから変な病気移されたと蕗子様はご立腹です。
厭味よりも自分の月給より高い治療費に驚いた、
午后の陽が翳る西側の居室、日の丸の病室は猫の分際ではなく、やはり御猫様だ。
シャンデリアと外車とペットがやはり金持ちの三点セットである。
日の丸はシャンデリアを見上げ食事をし、高級外車をステイタスとする蕗子の膝で息を引き取るのだろう。
同じ猫でありながら、道路でミンチになる猫とは運命が違うのだ。
24インチのテレビが備えられてある。
「俺の生活は金持ちの猫より劣る、テレビの大きさだけが同じとは」
立ち会いの下、日の丸の室内の掃除を終える
挫折感を味わい退散しようとすると田妻が耳元で囁いた。
……今夜マスカレードが有りますから、会場の飾りつけをして下さい。貴方にも参加して頂きますよ。
その最後の言葉に危険を感じてしまった。
2 奇妙なマスカレード
夕暮れは都心を紅色に染め月花家のガレージは外車のショールームに変わる。階段の踊り場から覗くメンバーは仮面や仮装で自己演出している。
招集された蕗子のサークル万華鏡は独特なオーラを放つ。
南西に位置する豪華な執事室の扉を開けると田妻が招き入れた。
直立不動のまま佇むと田妻はクローゼットから変装用の道具を取り出す。
蕗子のパーティーに参加する為には使用人にもタレント性が要求されるのか?!
この危険なゲームに病みつきになってはマズイ!
鏡に向かう田妻は女装を始める。何やら不気味な空恐ろしい雰囲気を感じた。
「唯一の気晴らしです!マスカレードは無礼講です!貴方もポチラを楽しんで下さい」
ゴジラの胴に犬の頭部が合成されたぬいぐるみを渡され、体型を合わせると尻尾の先に値札が付けられていた。
0が5つも付いているポチラを着れるとは光栄だ!
此れは使用人の義務ですかと問い掛けて止めた。
パーティー会場になる大広間では蘭星が動き回る。飾り付けが終わり羽雄は蕗子を呼びに部屋をノックした。
返答が無いので呼ぶと開かずの間と書かれてある室内から聴き慣れた音楽が響いた。懐かしさにドアをノックすると、鍵が外れていたのかドアが開いてしまった。
初めて立ち入るその部屋には巨大なスクリーンが壁に設置されていた。
蕗子に趣意を伝えようと近寄り室内を見渡すとゲーム専用ルームのようだ。
眩いばかりのドレスから背中のラインを見せる彼女がジョイスティックを連打していた。
壁には数社のゲーム別の棚があり、凡そ日本で発売されたゲームは総て揃えられている。マニアでもこれだけの多数のゲームを網羅している人間は希少だろう。
彼女には不得手なジャンルが無いようだ。
某社のゲームに熱中している彼女はグラフィックを多重スクロールしていた。ゲーム史上の金字塔と謳われた赤い羽根はバランスの良さで圧倒的な人気を保っている。
随所に引っ掛かる箇所はあるが、操作を羽根コマンドにすればメッセージが鍵を示す。
……待たせていた!私、いま手が離せないの!
蕗子はRPGのエンディングがあと少しなので焦っていた。
時間が過ぎて階下では招待客に責められている蘭星の謝罪する声が聞こえた。
テレビの画面を睨み、ゲームにうつつを抜かす蕗子の心情を疑問に思った。
地下に続く隠し部屋の扉が彼女には分からないようだ。
おせっかいとは思えたが呟いていた。
天使像がシンメトリーで右側の方の音階が3度上がっているのです。
「眼よりも耳で探れ」と門番も告げている。
彼女は「うるさい」と羽雄を睨み。言われたように試していた。
一応他人の意見を聞く耳を持っていた様だ。
「招待客が待ちわびている」と告げる機会を探し羽雄は彼女のゲームアドバイザーになる。
………マップ3の空き地で聳える鳩小屋ドーム、神宝館内玄関を入り光り輝く生命体ナメちゃんを探す。ミッションはそれでクリアーできる。!
章毎のトラップで考えたくない彼女は甘えては解けと要請する。
ポチラの愛嬌のある牙を剥き応えるとお褒めの言葉を授かる。
…ポチラちゃん良く出来ましただ!
エンディングテーマが流れ、彼女はテロップに現われるスタッフの名前に注意を向けた。
「野牙羽雄」
……この虹の翅のデザイナーって貴方と同じ名前ね!こちらは著名人であなたはポチラちゃん!
同姓同名でも格差があるわね。
暑苦しい犬の頭部を外し、ゴジラの尾を引くと開発責任者であると告げた。
万華鏡の紹介が始まる。前衛音楽師モリソンは奇形のヴァンパイアだ。
蕗子と共同展覧会を企画していると云うが、資金援助が目的だろう。
decoratorTeam茉史と鍵美は兔と白雪姫、二人とも今回の参加には月花家の
インテリアを担当するという利害が絡んでいる。
素顔が怖い嫉村淳は天狗の面を首から下げている。沼に女と共にハマり喘ぐ芸人だったが二年前引退しかっての悪歴を活かし性評論家として名を成している。壁際に立つ2mはあろう黒人モデル、オママはアダルトシネマの男優らしい。
個性豊かな役者人の中で一人だけ浮いている貧弱な骸骨男は陳或善と名乗った。彼と月花家の関係は不明だ。
主催者の蕗子から田妻、蘭星が紹介され、自分の名前が呼ばれるのを恐れた。
元ゲームデザイナー、現月花家使用人野牙羽雄。
虻の翅が誤植で変わったとは言え虹の翅のカルトは多い。みんなが注目する。現状況に空しさを覚えマイクロフォンのプラグを引き抜きたいと願った。
ポチラの役は徹底した奉仕であり、奴隷となりパーティの参加者に媚び諂う事である。
自虐的とも言えるほど、低姿勢で奉仕すると身も心も隷属される。
普段二本足で歩行している者が四足になると世界観が変わるものだ。
突然首にかけられた首輪に驚くと芸を要求される。
…今回は犬とゴジラの合成かい!
前回はオカマの宇宙人だったけどな、このポチラは気に入ったぜ!
蕗子に告げた森村はあからさまな敵対心を表す。
自分の紹介よりも拍手が多かった事が気に入らないのだ。
背中に乗せられたトレイを譲らぬようにオードブルを運ぶ。
蕗子はテーブルに並べられたピンクの水を勧めると飲み干した。
此れは若返りの媚薬、だからこんなに美しい色なの。
彼女の唇に溶けた飲料水は男を惑わす毒薬にも変わるだろう。
円卓を囲みパイン材の皿に盛られた季節の風味を見る。それは明らかに覚醒剤の成分であった。みんなは知らずに飲んだが、誰が調合したのか?!
乾杯の音頭と共に共犯者が誕生した。
照明が薄暗くなりdarkMasqueradeと云う囁きが呼応する。
蘭星に趣意を訊ねると室内の照明が消える。
参加者達が人間当てゲームをするのだという。各々の特徴を掴む為30秒だけ身体を触る権利が与えられる。
柔らかい女性なら良いが、筋肉質の男や体臭のある男の脂ぎった身体は敬遠したかった。
30分間の暗闇では他人を触るよりも逃げたい気持ちで溢れた。
暗闇の時間経過は長い。闇に眼が慣れてくると気配でその人間が判別できるものだ。
嫉村淳は天狗の鼻を誰彼構わず突き立てる。
黄色い声が響き、耳障りだと思うとコーナの暗闇で啜り泣きがした。decorator teamの片割れのようだ。
灯りがつくとソファーの横で蹲っている娘が泣いていた。
相棒が気づいて話を聞くと、誰かが裸で抱き着いて来たというのだ。
鍵美の白雪姫のドレスに乳白色の液体がかけられていた。
蘭星は猫のメイクをして心配そうな視線を向けていた。
茉史が妬村を睨みつける。偉そうな文章書くくせにやる事はえげつない!ハメ撮り野郎のくせに!?
……おいポチラ!蕗子の使用人なら芸をしろよ!
泥酔した森村に首輪を握られる。
彼は馬乗りになり凌辱するつもりなのか。使用人の義務はどこまで全うすべきなのだろう?!
顔を床に圧し当てられ彼の臭い足を近付けられ吐き気がした。
鍵美の件で腹が立っていた茉史が彼を引き離す。
……ゲームはもう終わりよ、鍵美だってえらい目に遭ったんだから。
森村は茉史を無視して何故か羽雄を罵倒し続ける。
陰険な雰囲気に気づいたのか茉史がステージを指差す。
……あんたもう出番じゃないの!ほらっ
舞台衣装を、モリソンに渡し茉史が告げた!
…いつも弱い者いじめしか出来ないのね!
………茉史は何もわかっちゃいねえぞ!
いつもそうだ!俺が楽しむと女が仲裁に入る。
茉史は鍵美と小道具の置き場所でも考えておけ!このパーティにはショービジネスで来ているんだぜ。
煙をわざと相手の顔に吹きかける。
モリソン程ショービジネスを誤解している人間はいなかった、
呆気にとられた茉史が眼を白黒させていた。
モリソンが演奏を始め、いじめから解放された。
蕗子はオママが好みの様だ。分厚い化粧で女王と云うより年増女を彷彿させ、程度の低い女子大の語学力で対応している。
田妻も南部訛の英語で接してはオーバーなゼスチャーで国際人を気取る。
たかがpenis男優に近付く輩の心境は理解できぬ。
ある特定の類似点からあの二人が親子のように思えた。
聴覚に侵入して来る音楽が悪意の想像を突き抜けた。
モリソンはショーマンシップに則り過剰サービスをする。
その時はっきりと断定出来た。明らかにモリソンの脳は焼けていたのだ!
狂気を演出していた森村の音楽には芸術性があった。其れは過去の才能である。
鍵美がモリソンのPerformanceと派手な音楽に顔を顰めていた。
……事務所絡みだから来たけど、モリソンもう終わりね。
あなたに絡んでいたでしょう。
狂気を演出出来なくなった彼はただの狂人と成り下がるだけね。
連中は限界を超えようとして薬物を使っている。能天気なジャンキー。
人間を超えた後には何が残るかあなた分かる。
鍵美の伝えたい内容が理解出来た。
……狂気だね!
鍵美は利発な娘の様に眼を輝かせた。
そう、自己の人間性までも狂気が破壊し続けるわ。
陳が骸骨のコスチュームを纏い蕗子と話しているが突然そっぽを向かれる。
道化は羽雄だけではなかった。Masqueradeに参加した者それぞれに道化なのだ。
ただ一人主催者の蕗子を除いて。
蘭星とたどたどしい日本語で会話する時間だけが羽雄には救いになった。
だがその救いも陳が奪い取ろうとしていた。
蘭星との会話に割り込む恰好で入り込んだ陳は、蘭星が日本語が分からないのを良い事にして卑猥な表現を好んで使用する。
…………私彼女いません!みんな私の事コジンショウテンシュと呼びます。
羽雄は個人商店の経営者かと思ったが、会話から推測すると個人昇天主が正しい様だ。
3 幻想姉妹
陽光が川面に撥ね、季節が変わる兆しが大気の温もりから感じられる。
蕗子専用のマンションは玄関がオートロックされ、暗証番号を知らなければ中には入れない。
彼女のメルセデスに同乗して出向いた地下のガレージは外車の保管庫のようだ。やはり種族の違う人々は集まる場所が似るものなのか。
各棟別にエレベーターが分かれている。大理石の床は鏡面仕上げされ、歩く人をステンレスの壁と下から照らす。吹き抜けのエントランスは遺跡の様だ。
ベネディクト修道院公園が一望出来る、高級マンションの一室は調度品こそ少ないがやはり別世界である。
…都内には此外にも父母専用のマンションがあるわ。
蕗子には虻の翅の力が効いたのか!
…あのゲーム、開発したなんて凄いわね
たかだかプログラムの世界で虻の翅を開発しただけですよ。
確かに羽雄の開発するソフトは評判が良かった。
…隠された才能があったなんて驚き!あの虹の翅の開発責任者だった人がなぜ私の家で使用人しているの?!
版権を会社に取られたんですよ。
3名しか居なかった弱小ソフト会社は虹の翅ビルを今では3つも建てていた。
ゲーム開発はプロでもビジネスは素人だった自分の不甲斐なさを嘆く。
……ゲームって幾らぐらい掛かるの?
あの時のギャラは買い取りで5万てした。
蕗子は5万と云う金額にびっくりしたようだ。
……そんな安いお金で才能を売っていたの!お金なら幾らでも払うわ。あの!Masqueradeをゲームで再現して欲しいの!
彼女の要望に羽雄は考え込んでしまった…!
彼女は商才はある、やり手の女性だ。
自分の好きな様に開発したいという
欲求が羽雄の中には残っていた。
もう一度、ゲームの世界に返り咲きたい。
モリソンは敵キャラだろう!
内容はどうしようと考えていると、彼女からアイデアが送られてくる。
結局は彼女の満足の為に仕事するなら同じだ。
*
午后の蕗子のマンションでは猥雑な臭気が室内を取り巻いていた。
モリソンがスカートの中に顔を埋め蕗子を快楽へと導いていく。
彼女はいつもより快感の質が高い事に満足である。
突然電話のベルが彼女の気持ちを現実に戻す。
陳からの電話であった。
……なに!
いま忙しいの!
ゲームのキャラクターデザインで大変なの!
あんたも自分の仕事があるんでしょう!こんな真っ昼間から私用で電話してたら解雇されるわよ!
研究室で薬品調合するしかあなた出来ないんでしょう!
陳は若禿の妙薬が企画でボツった事を蕗子に知らせ同情を乞おうとしたが、蕗子には無関係な事であった。
執拗に愚痴を告げる陳の金切り声に受話器を尻に押し当て蕗子は数秒すると欠伸をし話を少しだけ聞こうと殊勝な気持ちになった。
陳は蕗子の空白の苛立ちに謝罪するとお願いだから、数分間だけ話をして欲しいと頼んだ。
彼女は数分間モリソンがする行為を続行させながら陳の退屈な会話に付き合う。
じゃあねと言うと同時に蕗子はモリソンが見上げる顔にウインクする。
……いやな野郎なんだ!
私の事を好きでしょうがないって、あたしはあんな左曲がりに興味が無いんだ。
一度の行為が愛情に変わるなんて幻想は男だから持てるのね。
少女趣味の憧れを愛と思い込んだ時期があたしにもあったけど……人生経験がそれを消去してくれたわ。
あいつは所詮陰よあんたがあたしを輝している時に背中に佇んで居るだけなの!
あたしの眼には映らないのにくっついているものだから存在を感じちゃうのね!
モリソンは蕗子の哲学的表現に驚いた。
こんな莫迦の見本みたいな女でもたまには真実を告げるものだと感心したのである。
蕗子はさり気なく告げた言葉に何の意味も考えてはいなかった。
自分がいつか陰に侵食される経緯等彼女の単細胞では理解の範疇外であった。
……男って莫迦ね!
蕗子は普段の口癖に自分を戻すと、ベッドに食い込む臀部を少しずらしモリソンを見据えた。
この男も莫迦な野郎だと嘲笑いながら、口から出る言葉は犯罪を挑発する類のものであった。
脇毛に滑る肉感のざわめきに声を喘がせては、蕗子はモリソンの首に両手を絡ませ耳許に囁いた。
…ねぇ…あんた…あいつの事を脅してくれない。
手の一本二本圧し折ったって構わないから。
モリソンは彼女の道具とされている屈辱を知らず同意の意味にかニヤッと笑う。
深い蕗子の奥の入口を探り身体を少し持ち上げていった。
*
ミルの音が消えフラスコに滴る珈琲の馨しい香りが室内に漂流する。
蘭星は青い薔薇を花瓶にいけて少し俯くと横顔の翳りを向けた。
窓に沿い置かれてある陶器のCollectionに陽射しがあたる。
コンポートの果実に薄い透明な光の織り成す青い線が延びていた。
壁を振動するベルが鳴り蘭星は驚いた様に振り返る。
蕗子はベッドでマンデリンの注がれるのを待つ。
蘭星は珈琲メーカーが落とすマンデリンも花瓶の青い薔薇も壁のピンクの受話器も全部一人で触れなければいけない自分にふと腹が立った。
…なぜ私がいつもあんたの分まで…そう心で呟いた。
虹の翅のオペレーターはきついけど楽しかった。
あんたがキャラクターを描いて順調に進んでいたのに、3ヶ月も辛抱が出来ないのね。
最後の原案のData打ち込みに突然飽きるなんて!
…あんなに手間のかかるものなら良いわ!ネオには悪いけど。お金は払うわ!
お金を払えば希望まで削ぎ取っていいのね!
蘭星は拝金主義の権化に厭味を告げようとした。
午后の時間は静寂とは裏腹に訪れる。
永遠の風に導かれて女たちが春の丘を駆けていく……ラジオから四季が聴こえる。
殺意の片鱗にも似た意地悪な気持ち、ビバルディは嫌いだ。
なぜか理由ははっきりしている。妹がいつも彼氏とベッドインする時に流す音楽だからだ!
……お姉ちゃんにモリソン渡そうか?
また妹のおせっかいが始まった。
居候の身だから我慢しているが腹に溜まった言葉は山程あった。
宝石箱を抱え今日の宝石を選ぶ妹の横では能無しジャンキーが寝転がっている。
あんたの全財産が燃えちゃえば良いのよ。あんなカッコ悪い彼氏なら居ないほうがましよ!
自分が飽きたら姉に押し付ける神経は異母姉妹のせいだろうか。
確かに蕗子の母親は奔放な性格であった。
あんたみたいに鍵のかからない部屋に住む心境が理解出来ないわ!
…お姉ちゃんみたいに鍵を掛けてると良い男迄寄って来ないわよ!
いつも会話の鼻を挫かれる。
社会に出るまでは私の人生の選択が正しかった。
いや…正しかったこそ、社会で除け者になってしまったのだ。
職業の選択が間違っていたのね。
あんたみたいなだらし無い女になぜ、男が群がるのか分かっているの。
トレンディ雑誌から抜け出たような程度が低い男が街には氾濫してるからよ!
私は有能な人が好きなの。品位のあると付け加えたが、妹は間髪をいれず口撃する。
……お姉ちゃんの理想ってあたしからすれば不能!
窓から入り込む風は新しい季節を馨らすが、忘れていた温もりは蘇らない。
ふと…蘭星は言い過ぎた事の反省に妹を見た。
あんたとの比較によって純粋な情熱が残るなんてね………!
……安堵した精神の危機感や葛藤が蘇るわ。
見せ掛けの幸福による存在証明の希薄さを自己嫌悪しなさい。
余計なお世話よ!
人に恩義を感じるのは苦手なの!
…脳がイカれちゃうわよ!
世を拗ねて暮らすだけの人で無しになりたい訳ね!
嘆かないでよ!人の為に…
色情狂になって精神病院にいけば良いんだわ。
…患者の局部を食いちぎって隔離される事など願わないで…!
奇妙な連帯意識が産まれる。
…過去を清算する為に姉さんは得意先の名刺を燃やしたんでしょう。
アドレス帳も燃やしたわ。
しがらみを断ち切りたかったのよ。
「これからかかる電話だけを友達にしたかったのよ」
……恋人の過失責任の身代りをして捨てられちゃ男が嫌になる気も判るけどね。
感謝しているわ!
……深刻になるのが姉さんの悪い癖よ…
一級建築士の資格まで持っていたのに!
労災に加入しない現場で事故が起こったの!彼の人生を棒に振らせたくは無かった。
愛していたから彼が裏切るなんて思えなかった。
見放されたなんて思いたくなかった。
本棚に顔を埋めた蘭星は古ぼけた写真集を抜きページをめくると告げた。
因縁なのね!
めぐる血の循環が運命を決定づけ、繰り返すのわ、此れを悪因と呼ぶのかしら。
カラーグラビアをめくり脱ぐしか残されていない落ちぶれたアイドル歌手を眺める。写真集を出した時点でゴミ箱に棄てられる運命は悲しいわ。裸体で最後を飾る末路は欲望を商売にした報いね!
あなたはお母さんに良く似ている。
普通の世界じゃ生きれなくて、夢を亡くしながらも探す所が!
似てやしないと反発しそうになった蕗子は思い留まった。
2杯めの珈琲をカップに注ぎベネディクト公園を眺望するVerandaに立つ。
蕗子は会話をわざとはぐらかした。
……ろくでなしの男でも一緒にいれば温もりや願望の核は残せるわよ。
蘭星は蕗子の寝乱れた姿態に愛想を尽かすように告げた。
いつまで月花家に滞在するつもり。私は申し訳なく思ってしまうわ。
野牙さんだって私達の事を令嬢とメイドというふうに思い込んでいるし……!
人を騙すのは良くないわ。
パパが破産して月花の世話になっているけど…私達は使用人よ!
執事の立場を悪用しているわ。月花家の人達が帰国したら大変よ。
蕗子は姉には内緒にしている一つの事実を黙殺した。
やっと巡り会えたお母さんが贅沢をしていたのが許せなかった。
二十も歳が違う爺の 後妻になっていたのが…!
……心配無いわよ!
蕗子のいつも通りのヒステリックな声が響いた。
パパが獰猛な2匹の獣に毎週餌を与えているわ。
蘭星はその言葉に覗く事を禁じられた土蔵の動物の正体を勘ぐった。
第4章 裸の虫
ベネディクト修道院跡は区画整理され区民公園になっている。
緑地に寝転がると背中に冷たい土の感触がする。生きているってこんな実感なんだろう。
羽雄を跨ぐ恰好で茉史はまだ寒い空気を吸って望郷心を募らせる。
……此処には永年封じられた欲望の亡霊が居るのよ。
邪気を帯び公園には孤独な者の後が絶えないから。
花ケ咲の北側地区と酷似する雰囲気を感じた。
…俺達も貧しく乱雑な人の仲間かな?
芯まで凍りそうな寒気に襲いかけられ彼女を見上げる。
満月が藍色の空間に切り抜かれて浮かぶのが茉史のストッキングの隙間から覗かれる。
「かもね…」
温かい響きの声だと思った。
何時まで跨いでいるんだい。
スカートの中身を此処で確認する気はないぜ。
修道院の名残が至る処に点在する。丘の上には鐘撞き堂がある。
知らずに足を向け上り詰めると、出迎えのマリアの像の顔には髭が描かれていた。
落書きやスプレーで汚された壁面には小さな電話が置かれている。
……この電話だけはコードごとちぎられた形跡がないね。
カレラにも電話だけは必需品なのよ!ある取り決めやルールがあるの。脂ぎった手で握られた受話器を取っても無駄よ。
蕗子の隠れ家から灯りは視えるけどね…!
電話からは月並みの居留守のメッセージが響く。
……はい蕗子です。ただいま彼と宇宙旅行の真っ最中。帰還は午後の2時頃かな!?……蕗子です。イリュージョンによろしく。
宇宙旅行とはボディペインティングの事よ。
ヘビーペッティングだろ。
訂正しながら茉史の言葉にすまなく思った。彼女は直感が鋭い。
幻影は茉史曰く木炭を握っているのだと思うと嫉妬した。
よしんば電話に出たとしても話の途中で切られるかもな?!
蕗子の顔が浮かぶ夢が憎らしい。
生活の中に足を踏み入れる仕事ゆえ思い込みも激しくなったのだろう。
蕗子って派手で人懐っこいから結構モテるけど、凡そ常識の無い女よ!
ちょっと待ってという言葉に騙されると何時間でも待つ羽目になるわ。
自分の都合だけ、人に嫌われたくないくせに癖に嫌われる事を平然と行う。
はっきり言って頭が悪いのよ。自分以外の事に神経が生き届けないのは眼中に無いの領域を越えているもの!
蕗子の悪口を言い続ける茉史は仕事の契約が取れなかったことを事を憤慨している様だ。
ギミとも!そう鍵美よ!Masqueradeから険悪なムードなの。Decorator維持するのも大変。
あなた!ゲームボツったってギミに知らせたんでしょう。
ギミも怒っていた。あの子は蕗子の後輩だから、口に出して言わないけど!大ポラ蕗子めって!
記憶障害があるような神経症的なノリには苛立つとも!
羽雄は鍵美に作曲を頼んでいたことを事を詫びた。
茉史はいいのという顔をした。
私には飾り付けするしか能が無いもん!
ギミは音大の作曲科中退して美大に入った子だし。
心の貧しさが共鳴できる相手には性格柄没頭してしまう弱さはね!
私達共通の弱点なのに!
茉史は気持ちに吹っ切りをつける意味でか、蕗子の無礼さを告げていた。
人間が優しすぎると社会じゃ利用されるだけだね。
なんで許しちゃうのっていうのは、自分の生き様が無いに等しいのかな!
あの脳天気な蕗子のどこがそんなに良いのかな!
Masqueradeの客はみんな女王様崇拝者だよ。お金持ちのお嬢様で絵の才能があるそれだけじゃない。
才能なんか人間の価値基準にしちゃいけないのよ!我儘を自負する相手には、どんなに才能があっても心を傾けるだけ無駄なのに……!
語彙を少し抑えて茉史は羽雄の顔を見あげた。
ゴメンね!?
まだ…心にゲームが残っているんだね…傷が消えてからでもいいよ。
でもあまり過去に退行すると負に飲み込まれてしまうよ。
あたし……あんたの事心配だから…!
茉史はその次の言葉を言い留まった。
傍らで頬を寄せて羽雄の衣類の匂いを嗅ぎ押し黙ってしまった。
ゲーム制作の蜜も使用人をからかうのが目的じゃ無かったのかな?!
眼中に無かった相手の眼の中に入ろうとしても無駄よ。
確かに彼女の眼に映らない人間が心に入れる筈が無い。
…少し黙ってくれないか!
羽雄は茉史の顔を背中から離すと告げてしまった。
その答えに茉史は羽雄の心中を知る。
いいんだ!おせっかいで莫迦な女って思われても…いいんだよ。
涙声になっていく茉史にすまないと羽雄は謝罪した。
恋愛のリハーサルしてから人は本当に恋愛をするのよ!
過去の男ってみんなあたしと旅行に行きたがり、こっちが本気になったら乗り換える。
あたしって莫迦だなあ!リハーサルされ続けて来たなと思えるな。
ごめんよ…ネオ!あたしじゃ役不足だって解っているんだ!
でも好きでどうしょうもない奴っていたんだね。
数度しか逢って無いのに心にネガが焼き付いて消せ無い。
なんで叶わぬ恋に限って食い込んで来るのかな。
あたしって莫迦野郎だな。
莫迦野郎は自分かも知れないと羽雄は風のざわめきに耳を澄ませた。
嫌われているのに平気で押し掛ける無神経な人間。
ゲームも蕗子も忘れれば良いのにと思えた。
いいんだ…!ネオが気づいてくれたから、少しでも心に近づけただけで良いんだ。
茉史の告白に悲しすぎるある一致点を見出した。
寄りかかる相手をお互い探しながら、心には蕗子が居座っている。
厭な会話が心にのしかかった。
蕗子の甲高い声がヒステリックに心に旋回した。
あれはモリソンとの不一致を蕗子が何の気無しに告げた時だった。
影絵の様に茉史の背後に幻が佇む。
そして聞きたくない言葉が連なった。
……愛されるっていうのはその人間からすごく大切に思われる事、そして守られるっていう事なんだ。
愛された事が君には無いだろう。
好きになると言うことを愛する愛されるというふうに誤解している。
違うんだよ!愛って憎しみが付きまとう物なんだ。お互いにね!
原案データでモリソンを隠れキャラにしたのを彼女は憤慨した。
英雄や豪傑にするなら抜けると自分の技術を推さなければ良かったのか。
……あなたにそんな事言われる筋合いは無いわ!
彼は恋人であなたは友達なの?自分の立場を弁えて物を言って頂戴。
私は永遠にあなたの恋人にならないし、もしあなたがそれを望んでいるなら無駄ね!
私はただの使用人に心を奪われたりしないわ。
彼はアーティストよ!あなたはただのつまらない使用人じゃない。
私と付き合えるなんてお門違い!
自分の能力も知らないで思い上がりも甚だしいわ!
男なら潔く諦めなさい!Gameover!
あの会話がなければ少なくてもゲームは完成しただろう。
未練を嘆くようにマリア像の碑に腰掛ける。
乞食や恋人が散った暗がりはひっそりとする。
茉史は青いゴミ袋を被る少年を見た。
…あんな吸い方したら死んじまうよ!
ちゃんとした吸い方教えてくるね。
007じゃないけど私もボンドガール!
居づらさを感じたのだろうか!呼び止める言葉をいや…強引に抱きしめる強さを羽雄は茉史の求める欲望に従わず見つめるだけだった。
彼女とは世代が同じ分だけ恋愛に対する古臭さも似ていた。
蕗子のマンションの方角に視線を変えると、ガードマンが巡回を終えて控室に戻る。
入れ替わりに小走りで急ぐ男が裏階段のガレージに降りて行った。
なんか気味悪い殺気をその男から感じた。
セキュリティシステムが点検の為切られる時間がベネディクトにはある。
用意周到な怪しい人物の所在を確認したい欲求に駆られる。
ガレージを一望すると男の後ろ姿が見えた、帽子で顔を隠し、黒いレインコートを翻し痰を至る所に吐きまくる。辺りに細心の気を配る男は非常階段の横にあるゴミ置き場に潜れる。
ゴミの袋を抱えた姿が視えまさかと固唾を呑んだ。懐中電灯でゴミの中身を確認して残飯を漁りポケットに何やら突っ込む。肩をピクピクさせるその格好は不気味でもある。
魔女に魔法をかけられた蝦蟇蛙の様だが絶対王子様には戻れないだろう。痴態も度を越すと狂態になる。
蕗子の毒牙にかかり自制心を無くした者は何人いるんだ。
管理室で偽オーナーの差し入れと知らずガードマンが酒宴を開く時刻。
男はガレージを目指し防犯カメラの死角を選びメルセデスに突っ走る。
コートが捲れ一瞬月明かりに陽物が照らされる。
その空をも貫く太さに頭が真っ白になる。
変質者は悲哀を飛ばし首を傾げて差し込んだままのイグニッションキィを確認する。
蕗子がルーズなのは誰もが知っている。車に鍵をかけた事が無いのだ。
可笑しさが込み上げるのを抑えると逆に腹に痛みが襲う。
変質者に感謝しなければいけない。寂しさを一瞬でも忘れさせてくれたのだから!
無感動な小心者は体験という孤独を胸に軋ませ悪事を働くものか!
レンズの世界を凝視すると。男はシートに滑り込み報われない愛をデッサンしている。
ハンドルに頬ずりして顔をびしょびしょにしては涙に暮れる様子が窺われる。
声を殺して唸る純愛の波長さえ聴こえてくる。
なんという哀れな純粋者だろう。
試写会の指定席を観劇する特権を男は与えてくれたのか。
…男は犯罪を成し遂げようとしていた。
明け方栄養剤を買いに行く蕗子はドリンクジャンキーだ。終夜営業の店まで6本のドリンク剤を買いに2キロの道を運転するのだ。
買い溜めが出来ない性格で夜明けの空気と栄養剤のブレンドを愛する。
彼女は店の前、車の中、ガレージでそれぞれ一本、エレベーター、自室で一本飲み、残り一本を目覚めに飲む。習慣づけられたルーティンは彼女が唯一破らないと自慢する事である。
万全の方法を用いて愛の仕返しを執行するのか。
ガレージを離れ非常階段の横にある郵便受けに小包を投函する熱意を挫いてはいけない。
執念の背中を燃やす変質者は数分間の作業を迅速に終える。
茉史は石のベンチに寝転がり藍色の空の深淵を見上げていた。
ポリエチレンの袋から吸い込むボンドで半分空ろな状態だ。酩酊状態に身を置く彼女の後ろを陰が走る。
子猫が餌を求めては深夜3時の時計台に群がる。
変質者の犯罪経緯を話す気にもなれず
平然と傍聴者の立場を崩さず空に星を探すと顔の筋肉が緩む感覚がする。
結局人は同じ様に繰り返していくんだね。
例えばで18で結婚した人も38で結婚した人も社会に合わせて行くだろう。
同じ手続きを取らなければ人生は消化できないのかね!
……逆らえば痛手を被るわ…!
膨らんだ袋を取り上げると破裂させた。
この中に溜まっていたのか!幻想!ほらっ…地べたで土に吸われていく。
私には不良だった期間が人生を凝縮して見せてくれたけど…!
未来を歩き始めると退屈なものなのよ…
現在を維持するよりも。
私達は鱗も毛も甲羅も持たない裸の虫よ!だから装飾品を欲しがるのね。
裸なら裸で良いのに、人は産まれた時の状態を忘れている。
裸で産まれて裸で死ぬのに心は欲望を纏い飾り立てて死へと向かう。
人の心の流れって変わらないわ。
だから永遠に同じだと思う。
茉史は深刻な顔を隠し、…友達で居てくれれば良いんだ。と云った。
眼の中に入らなくても今夜みたいに誘ってくれるだけで。
あたしの事興味持って欲しいだけなんだ。
肩をずらしベンチに放りだしてあるバックを彼女は拾う。
抱き締めるタイミングをまた外してしまった。
此れ!ギミから預かって来た地図、あんたが逢いたいって電話してきたから、あたし…誤解しちゃったけど…ギミとも友達だから……!
ハンドバックを振り回しバイバイと笑う瞳は少し寂しそうだった。
*
トレードマークの赤い帽子を椅子に置きパンチパーマの幾分歪な頭を下げる。
「遅れてすみません」慇懃無礼な口調でお辞儀をし緑のネクタイを締め直す。足を組み時蛍光灯に撥ねた輝き、白い靴がやけにピカピカに磨かれている。サンドウィッチマンの様なド派手な服装は、陳を2キロ先からでも一目で判別できる筈だ。
化学薬品会社の研究室にいる陳とはMasqueradeが縁で知り合う不幸に授かった。
人に好かれるのも良し悪しである。
助平面下げた陰気な人は本来願い下げたい。
陳は臆病な癖にパンチパーマで強がる男だ。
店内の暗がりで他所のカップルを羨み彼は仕事の鬱憤を唾液と共に話した。
彼の研究室では若禿の妙薬を開発したらしい。
養毛剤にして効力を薄めろと鬘メーカーや大手の化粧品会社の圧力が掛かりました。
実際、ハゲは治ります。80%の円形脱毛症が治るのに販売できません。
企画室では朗報が悲報に変わるのに数分です。
その方が会社の利益は上がります。
社会の仕組みは総てそうです。
難癖つけるだけです。実際エイズも治療法が開発されて早期なら治せます。あれは…コンドーム会社が圧力掛けました。
先ず、利益!顧客なんか無視です。
野牙さん!あなたがソフト会社辞めた理由わかります。
あなただけです、私、デカ尻に血迷いました。
月花家のMasqueradeの時は蘭星やあなたに迷惑かけました。
私デコ豚に報われない愛情注いで今は空っぽです。
陳は起承転結を無視して話を作る癖がある。早口で一方的に話を展開する。
蕗子を軽蔑する意味合いか?身体的欠陥にアクセントを強める。
野牙さん!
月花家の人々が日本人の代表ですか。
私は…そうなら日本人総てが信用できません。
蕗子?!
あの後私の事、何か悪口言いませんでしたか。
別にと、応えたが、陳の目的は蕗子の思慕に対する探りが主であった。
蕗子…に私…真心をプレゼントしました。
でも彼女、忘れっぽい性格です。
私Masqueradeの翌日デートの約束しました。
動物園の猿の檻の前で私待ちました。
買ってきた猿餌の辣韮を食べて猿の生態を4時間観察していました。
口の中が辣韮味でゲップが出ましたが蕗子の来る姿を待ち望みました。
6袋の辣韮食べ疲れました。
私、彼女が謝る声期待して電話しました。
彼女…何時もより朗らかな声でした。
すぐ行くと応えると思いました。
博物館でバナナ食べながら恐竜の骨見るんでしょうと言われました。
彼女、約束も場所も自分から指定していて忘れていたのです。
動物園で辣韮の皮を剥く猿を観察する事を忘れていたのです。
陳の悲痛な告白に蕗子の男女関係の奔放さに呆れた。
愛に非常識で礼儀を軽視するのはお嬢様の特権だろうか。
…今日あの96と69しています。
愛に喘いでいるのです!
陳は酒が回ったのか!怒りを交えて蕗子を徹底的に罵倒し始めた。
陳は蕗子を愛していたのだ!
純情な陳の真心を裏切った報いは当然被害者から行われるものであろう。
だが、セックスの会話を好み、特大の声で叫ぶ陳とはあまり同席はしたくない。
新たに出来た友人が精神疾患者や変人なら居ない方が好ましい。
陳が卑猥な言葉を叫ぶ間合いに酒を進め声を遮断出来る芸当も覚えた。
彼にも感謝しなければいけない。
下品な奴の免疫抗体を作ってくれたのだから。
対角線上の4人がけの席では学生が時折、此方を窺い、陳の髪型に暴力団員を想像したのか眼を背ける。
その真後ではいちゃつくアベックが週刊誌の見出しを話題に盛り上がっていた。
業界関係風の女がカメラを下げた男に向かい両手を挙げては嘘っと連発する。
「外車のシートに四つ目キリの、刃先が埋め込まれていたの」
「警察では内装関係者の線で洗っているんだ」
痛そうと〜ぶっとい声が聴こえた。
女が少し身震いしながら自分で無くて良かったと安心している。
「ベネディクトに住む女って、男女関係激しそうだから、振られた腹いせじゃ無いか」
「皮下脂肪が厚い女でも穴に直撃じゃ一溜りも無いな」
ベネディクトと云う響きに蕗子の顔が浮かんだ。
陳は顔の筋肉を弛めては今夜は酒が格別に旨いと飲んでいた。
その時ベネディクトのガレージの変質者が彼であると確信した。
総てから見放されたと思い込み、愛とか友情とか口に出す奴に腹が立つ。
此れが夢を亡くした者の末路だろうか。夢を忘れた者に新たなエネルギーを吹き込むのは憎しみなのか。
当然の報いではあるが尋常でない部分も感じた。
胸につかえていたしこりがどんな形にしろ取り省かれたのは喜ぶべき事なのかも知れない。
旨い酒は飲みたいがあれ程までの執念は持ち合わせていない。
普段は割り勘にしかしないと思われる彼が上機嫌に奢ると言い張った。
「今日は私に払わせて下さい」
陳の心は嵐を乗り越えたのか晴々としていた。
金に困窮している羽雄には天の救いであった。
羽雄が食残しの魚を片付けると陳の営業バックが眼に止まった。
ヘッドフォンのコードが覗かれてやけに気に掛かる。
陳は腹が痛くなりましたと大声で叫び、ズボンをその場で降ろすとトイレに駆け込む。
なんという教育を受けてきた男であろう。
酒席で有ろうとモラルは有っていいはずだ。
彼がトイレに立った隙に気に掛かるバックを悪いとは思ったが開けた。
中からは録音機が出てきた。
彼が音楽マニアだと言う噂は聞かないが、どの様な音楽を愛聴しているのか興味があった。
便所の方では陳が紙がないと叫び、音が店中に響き恥ずかしい思いを一人する。
壁に塗りたくるぞと暴れる。
なんという野郎だ!
あれで研究室の主任補佐なのかと疑う。
マネージャーがバイトの娘に指で指図するが、彼女は恐怖心を露わにする。
紙を渡す瞬間に汚穢に塗れた手で顔など触られたものなら一生嫁などにいけぬ。
かなりひどい待遇で酷使されているバイトの娘は意を決した様だ。
ロールの代わりに消火用バケツの水を見ている。
録音機を、手に取りタイトルを読むと「愛の絶叫」と書かれてあった。
好奇心から羽雄はヘッドフォンを装着し内容を聴いて見た。
……此れは!
明らかに蕗子のあの日の絶叫だ!
思わず巻き戻し何食わぬ顔をする。
カウンター横の通路から絶叫が轟く。
なんと…陳が暴れ回っている。
下着をモップに絡ませて振り回してはアベックに近づける。
拭くものがなかったので自分の下着で代用した様だ。
陳は草原を走り蜻蛉でも採るつもりで居るのか。
下着にはトリモチでは無いものが付着している。
あのハレンチな彼が他人の郵便受けに録音機を隠していたとは何と用意周到な事だ。
蕗子の絶叫を録音して音楽のLibraryにするとは、現在進行中の事件と過去を並べて奸計に長けた彼の行動に空恐ろしさを覚えた。
どの郵便受けに入れれば安全か考えていたのか。
空室は無い筈だから1つの答えが導かれた。此れは彼にとっても賭けだったのだ。
録音機を彼の鞄に戻し想像を続けた。
彼は自分の研究所の住所を書いた封筒の中に録音機を入れ居住者の中で1番信頼性のあると睨んだ相手の郵便受けに入れる。
居住者は自分宛では無い郵便物に戸惑うが、切手も貼ってあり速達の印も押してある。
そして重要と書かれ差出人が公の機関なら、関わり合いを避け投函し直すだろう。
特定の凶器を選び録音機を投函させた彼の犯罪は成功した。
バケツの水を勢いよく浴びせる音が響き、陳は水びしゃになり嚔をする。
汚穢も恥もいっぺんに流せて気持ち良いだろうと思えた。
この場所を早く退散した方が良さそうだ。
奴と関わると印象が悪くなる。陳は酒癖が悪い!酒さえ飲まなければ、所長にまで成れる能力がありながら、身を滅ぼす酒を止められない。此の先!乞食に身を持ち崩すのは明白であろう。
4 逆転の非現実
壊れかけたカフェの階段で眠りこける少女がいた。
通りすがりに靴があたりふと、時間を訊かれる。腫れた瞼は泣通しだったと推測される。
恋が終わって愛が覚醒める時間なら良いのに…真昼の喧騒は湿っぽい心を乾燥させるには不自然な輝きだ。
寂しい人は沢山居るのに何故めぐり逢っても長続きしないんだろう。
町外れの喫茶店の窓からは交差点が見える。
読みかけの本を綴じると風呂屋の煙突が視界に飛び込んできた。
昔は町で一番高いものは煙突だった。
今はビルの影に申し訳なさそうに建っている。
俺の様だと羽雄は思った。
地方出身者は都会は物価が高いから住みにくいという。そして地方から都会へと人間は流出する。矛盾だらけだ。
地方に出向いて彼等の故郷を汚してやりたい。
別に選ばれて都会に生まれた訳じゃない。
故郷を亡くした者の気にもなって欲しい。
黄昏が空から降りる時刻に羽雄は妹の事を気遣った。
もう半年近く面会に行っていない。
カレが黄昏を食べたと妹は部屋着のまま云った。
私の大好きな黄昏はもう現れないに違いない。
黄昏を食べたのは闇であろうか、それとも街であろうか?!
団地裏に残る石段を降り、小さな一本道を抜ける病院にはもう行きたくは無かった。
空き地の隣にある林を抜けるとき決まって虫が顔面に群がる。
妹を見捨てて半年経ったのか?
彼女の今までの我儘も許せるに違いない。
彼女には新しい恋人が出来た。
ずっと彼女が欲しがっていた心から信頼出来る兄になれなかった事が心残りでもある。
オーダーを取りに来る遅番のウエイトレスが控室の方で騒ぐ声が耳障りだ。ストライプの制服がカルキ水を運ぶとき文句を言ってやろうと腹に決める。
眼の前にたつウエイトレス喋りかける。
…此処…空いていますか?!
えっ?!
丁寧な会話と場違い質問に顔を上げる。
鍵美がエプロンの紐を前で結び微笑していた。
敬語が話せるとは意外であった。
…カルキ水は只で御座います。
彼女の遊戯に暫く付き合う事にした。
制服の中身は幾らだい!
命と引き換えでは安すぎるかしら!
生命を分割払いにして貰えば小出ししたい気分だ。
此処が拠点とは知らなかったよ!
今までは秘密主義上のカモフラージュと告げた。
何が秘密なのか良く解らないが、女はみんな秘密が好きなものだから許そう。
……マフから聴いたんでしょう?!
他意は無いよ!ねぇ…あの娘とデートしたの?!
頷くと少しだけ心配そうな顔をしたので微笑で鍵美に答えた。
…そうだよね~私っていつも考えすぎちゃうのだよ…!
少し間をおいて鍵美はDecoratorteamが解散して良かったと告げた。
あまり、月花家の仕事等したく無かった様だ。
鍵美は愛想が良いので喫茶店の店員が性に合う。
Orderしていい!此処のケーキ美味しいんだ。
クスッと笑った鍵美の口許に意外なほど気持ちが揺れ動いた。
左手で器用に受皿のケーキを寸断する手際の良さ。
見惚れているとペーパーナプキンにショコラを分けてもらい進められる。
…憐れみも愛情の一形態だね!
あたしは誰かを愛したかっただけかも知れない。
喋りか食べりかを同時に行うマナーの悪さも似合うから許せる。
…あとで二人だけの秘密持とうね!
マフに内緒事だから絶対他言無用だよ!
上目遣いに告げられた恍惚的な囁きに躊躇する。
先制攻撃をかける女は初めてだ。
唇の周りにクリームをつけて鍵美はハンドバッグの中の小物をテーブルに広げる。
暫く見ていると葉書を羽雄に渡した。「試写会の指定席のチケットかい」
印刷された葉書には小心なサラリーマンが蹲るカットが繋がる。
……一緒に行かない!
破けたゴミ袋の周りに散らばる不燃物が指定日以外だと目を引く引く。
確かにこの映画のヒロインは不要物はみんなゴミ感覚の女性である。
「カルトムービーのファンなのかい」
連想される事象を鍵美に羅列し始めていた。
「あの映画を見ると椅子に座れなくなるね!ナイフが刺さっているんじゃ無いかって疑って」
鍵美は内容を知っている羽雄に好奇心を向ける。
……何回見たの!
葉書を手渡し考えては告げた。
「一度だけだけど、シナリオは覚えているよ」
あれは…片思いの男が女に復讐の限りを尽くすサスペンスだろう。異常心理描写の卓越さがマニアに好まれるけど成人指定映画さ!
変な映画が好きなんだね!
プロローグからして電子レンジで過熱される大便!
男が女をデートに誘っては大便を乾燥させた粉末を女の食事に混ぜる。
鍵美は驚いていた。
まさにヤケクソの人間のやる事ね!あれってウンチか!花林糖だと思っていた。
彼女の視力を疑いたくなった。
第二章ではアパートの合鍵を作っては女が仕事中に部屋に忍び込む。
鍵美は女の部屋で下着をカップラーメンに浸し汁まで飲み干す男が滑稽だと笑った。
美大出身なら鑑識眼が有る筈なのに彼女は異常者とは取らず、狂人を愉快な人間と捉えているの様だ。
あの…主人公は異常だよ!
神に生まれ変わり、女を従順な性奴隷に造り直すのが使命と狂信している。
第三章では、彼女の誕生日を暖かく祝ってあげると言って放火する。
女が上司と入浴している最中を見計らいドアにガソリンをぶちまけるシーンは壮絶だ!
我利我利亡者の女でもあそこ迄するのは行き過ぎだ。
焼き出された女が主人公の意に反して上司の家に居候すると報復を極める。
エピローグは試写会の招待券を女の恋人宛に送り二人の座る椅子に細工する。
羽雄はふと背中がゾクッとする奇妙な符号に気付いた。
陳或善の犯罪は明らかにあの映画がモデルだ。
ぽかんとした顔を見せて鍵美が呆れた様に告げた。
…あらすじ暗記しているなんて凄いね!
やっぱり月花家の使用人じやもったいないな!
ちょっとした事を覚えている事が凄く嬉しかった。
突然笑い出したので鍵美が2度呆れた。
…なに!突然変にならないでよ!
笑い出した理由を話し始めた。
椅子に腰を落とさずに座る癖が身についてしまったんだ。
鍵美に対処法を話すと彼女は吹き出した。
そうか…痔主さんみたいだね!
良い事を聴いたからあなたを第2発見者にしてあげる。
猥雑な夜の街に屯する人種は多かれ少なかれ犯罪と拘わっている人間なのだろう。
裏道の飲食街に戦時中のビルディングが残る。
鍵美はピンク色の店内に導かれる様に入る中年を蔑む。
あんな時代遅れのミラーボールが光を失いぶら下がっている店で何を愉しむのかね!
男って可哀想な生き物だね。
性的好奇心に純粋なだけだと返答した。
犯罪者予備軍じゃない。いやだ…!
水の涸れた噴水の周りに腰を降ろすと周囲の会話が聴こえる。
金髪の女が売春相手を探していた。
鍵美も時々耳を澄ませネタになる卑猥な言葉を選んでいた。
泥酔したサラリーマンに金髪の女が
交渉している。
「2枚あれば出来るよ」
「あなたハンサムボーイねお金下さい。」
サラリーマンのコートから財布を取ると女がねだっている。
「ヘビープレイOK」
2人の会話を盗聴して笑いを堪えながら頷きあう。
女はサラリーマンから2枚頂くと後2枚頂戴と云った。
厚化粧で年配の身体に4枚の価値は無いが、成り行きでサラリーマンは金を渡している。
……強欲な女だ!何でも金か!
女は下半身に手を伸ばし金目のモノでも探しているのか!握り続けているものは金という名は付いているがゴールドの価値は無い!
……あ〜いう輩は梅毒になって死んじまえば良いんだ。
鍵美も同意見らしい。
…誰が残したか分からない酒飲まされて金ふんだくられるなんてね。
あのおじさん自業自得だもんね!
…ハンサムボーイかよ!何十年前かね!
女が男を連れて店に続く階段を上がっていく。
エレベーターも無い悲惨な仕事場に同情している自分の優しさに気付く。
あんな汚い場所では金が脱出する唯一の手段でも仕方ない。
ふと気づくと鍵美は噴水の中で石を積んで遊んでいる。
眼の前を陰が覆うと赤い靴を履いた少女が立っていた。
何か…用がある様な眼を向ける。
…ねぇ…お金持ってる!
1枚でも良いよ!
惨めったらしい少女の戯言は決まっていたが訊いてみた。
……なぜ!そんなにお金が必要なんだ。
少女は自分の鼻を指差すと呟いた。
あたいの鼻、低いだろ…もうすこし高くしたいんだ。
きっと不幸から抜けでる様な気がするだ。
だんご鼻を見ると確かに穴が丸見えで美人の鼻ではない。
…コンプレックスか!
そうだよ…コンプレックスで不幸は決定されるんだ。
男ってみんな顔が綺麗でスタイルの良い女だけかまう。
あたし…自分の事を分かってくれる男が欲しいんだ。
こんな商売しているとみんな上っ面でしか付き合えない。
だから…お金が欲しい!お金があれば価値観が逆転するのが世の中だものね!
自分が招いた不幸を金で買い取れると信じる少女に告げた。
一般的な男は貪欲で虚勢を張るのが強いと思っているよ!
自分以外の人間に自分を分かってもらうなど一生出来ないかも知れない。
身体では一瞬分かりあった錯覚を感じるけど心って云うのは感触が無いから…!
怪訝な表情と無理解な表情を混ぜ合わせ少女は首を傾げた。
難しい表現を使い過ぎたと後悔した。
いつも自分流の表現を使うが、矢張り知的レベルの低い人間には無理なのだ。もっと単純な表現しか受け入れないのだと言葉を変えた。
…鼻が低くても可愛いよ…!
少女は嬉しかったのか!店のチラシを羽雄に渡すとにっこりした。
……お金持って逢いに来てね!
噴水では鍵美が石を八段積んで歓声を上げる。
やったー!ねぇ…!十段積んだら褒めてくれる。
形の違う小石を積み上げる鍵美は幼女の様に無心なゲームに熱中している。
2人の会話に少女が寂しそうな横顔を見せた。
宵の口の酔客がなだれ込む店の方では雇い主が少女を呼ぶ下品な声がする。
……なんだ、彼女居るのに、こんな処で!
少女が噴水の中に飛び込むと、何を思い立ったのか鍵美の積んだ十段の石を壊す。
何!すんのよ!小娘!
莫迦野郎と叫ぶ少女が泣きながら逃げていく。
鍵美は崩れた石を一つ一つ握り締めては少女の方角に投げつけていく。
1つも命中しないのが有り難かった。
店に消えた少女をきつく睨む鍵美が振り返った。
……ああ〜エネルギーあの…脳梅娘にぶつけたもんだから喉乾いちゃった。
蝮酒でも飲もうかな!
うら若き乙女が口にする言葉で無いので、鍵美の顔を覗き込んでしまった。
…やはりね……!
鍵美は困惑の表情をよせた。
再会でこんな話するべきじゃ無かったかな!
私の家庭ってやっぱり変だったんだわ!
口籠る様に話す鍵美に最初は動揺したが、別に犯罪になる理由でもない。
……父も母もマムシを捕まえて生計を立てていたの。
政財界のお偉方や性豪などは健康法として告白した事だ。
私…子供の頃からマムシ水を飲む様に躾けられて来たの!
ずっとそれが普通なんだと思い込んで来た。
修学旅行の時よ!瓶詰めの蝮をバックから落としたのを友達に目撃され密告された。
病弱な体質なのかと問い質すと、違うと彼女は答えた。
……そうよね…病弱な体質なら療法として飲む事もあるわね…!
違うって私の家庭がおかしいって修学旅行の時、初めて気づいた。
他所の家庭では朝はちゃんとミルクや珈琲や御味御付なのに、私の家庭では紅茶もジュースも飲んだ事が無かったわ。
喉が乾いたら水道水に蝮のエキスを絞って飲む様に習慣づけられていたから。
この娘も変わった家庭環境で育って来たなと思えた。
彼女に気付かれない様に先程の少女が渡した電話番号をポケットの中で握り潰した。
……なに隠してんだよ!私の秘密話したのに、あなたが隠し事しちゃ駄目!
皺くしゃなチラシを見せるとローマ字でsukebeと手の甲に書かれた。
売春に感動する心の貧しさは持ち合わせていないよ。
鍵美が悲しそうな顔を一瞬過ぎらせた。
……チープな慈善事業に寄付すればいいよ!
やけっぱちに告げられた。
……ツケは生活費に響くぜ!
彼女は何処か蕗子と似ている部分があると会話の展開から気付いた。
顔の表情が豊かなのか?或いは一度印象に残った女を模倣する才能が在るのか!
どちらにしろ根は陽転思考の様だ!
むくれたフリをする鍵美と繁華街を行くと、先程の金髪の女が街灯の下で金を数えていた。
泥酔したサラリーマンが植え込みに倒れゲロだらけのコートを纏っている。
鍵美が耳打ちした。
やはり…此処が終点なんだ。金髪のラマさんは此の辺りじゃ有名なのよ。
…あの…分厚い化粧女はラマさんと云う愛称なのか!40は過ぎている街娼だ!
あたしが第1発見者で第2はあなた!光栄でしょう。
なんの事か分からず、暫くラマさんを観察していた。
泥酔者が立ち上がるとラマさんに組みかかり財布を奪おうとする。
その瞬間…金髪のロングヘアが剥がれ、驚くべき顔が街灯の下に晒される。
……一日一度は顔を合わす相手でしょう。ねぇ…やっと理解出来た。
ショーウインドの安っぽい飾り付けを貶す様に鍵美が耳許で囁いた。
「二人だけの秘密持てたね」
人生って辛いもんだと思っていた時期もあったけど違うな!
深刻な顔で人生に対峙するのは止すよ!
鍵美は下唇を噛み小刻みに顎を動かした。
羽雄は痙攣する様な鍵美の眼に見えなかったものが視えた!
…人生って滑稽なんだよ……!
吹っ切れて付き合える女ならこいつかも知れない。
蕗子が気に懸かったが月花家は没落するだろう。
羽雄は不思議な月花家の生活を思い出した。
第一印象って云うのは当たるって云うけどやはり…当たるね!
なに!鍵美は先程の少女の件を根に持つ様に突っけんどに喋った。
羽雄は蕗子の事だと云った。
過去の心情を告げて鍵美の反応を見たかったのかも知れない。
ボソっと羽雄は言葉を夜に落とし始めた。
蕗子の貧しさに好意を寄せていたよ!でも…ただの男友達の一人だった。
クスッと笑うと鍵美が諭しかけた。
……思い上がりが執着した辛い時間って超えられるよ…!
きっと少しずつ女の子の事が分かりかけるね!
無い物ねだりしている娘達に啓蒙させるのは至難よ!
宣教師さん!
あたしは莫迦だから、莫迦って云われても怒らない。
だってどんな莫迦男でも利口な女と対等何だから。
本能なのね!女には業が有るから…!業からは抜け出せない。
女の特性を愚かさと認める発言をする鍵美を見た。
AとBを比較したり上っ面だけの物を内面で求めている人、そういう人だって理想は崇高だから、言葉で騙されちゃ駄目よ!
真実の言葉の重さを求めると、他人もそうだと思い込むんでしょう。
詩的感受性の稀薄な女性にはやはり眼の前の問題しか視えないわ!
あの娘は止めた方がいいよ!我儘だから!我儘でも扱いきれると自負してもあんた…プレイボーイじゃ無いもの!
蕗子はトータルフールな存在で全ての女の見本。
見返しに何かをするという姿勢は、心に鬱積した物を内服していたのであろう。
優しさが仇になったね!ざまあみろと鍵美は舌を出したが彼女の言葉には悪意が感じられない。
甘い人間を付け上がらせてしまうだけ!
相手の気持ちになって物事を考えられるそういう女性を糧としなさいよ!
鍵美の放つ言葉には真理が含有されていた。
あのラマさんの様に脳天気に生きるのって面白いじゃん!
鬘に付いた泥を落とし新しい客を探しに行くラマさんが路地を走る。
息苦しい生活から逸脱する手段として変身願望は存在するようだ。
鍵美と顔を見合わせなぜか心の奥から絶望が消滅する心地よい感情が溢れた。
……此れって物語より奇妙だね。
だから発見者の歓びが湧くのよ…!
来週、マフを第3発見者にしてあげるんだ。
だから今週だけ二人だけの秘密だよ。
腕を絡ませてくる鍵美に悪い奴と言ってしまった。
人間って先を考えて良い場合と悪い場合が在る。
なんで気づかないんだろう!巡り合った時に相性が合っていると!
ふと感傷的な気持ちが溢れ鍵美の顔を見つめた。
何処と言って際立った美貌は具えていないが素直だ!
数週間の裡に身の回りで起こった奇妙な経験。そして腕に伝わる温もりに人間の生きる方向って可笑しいと思えた。………少しではあるが希望が現実の生活に佇む。
試写会の指定席 F in
世の中は奇妙で溢れている。真実は何なのか!分からないままに時は流れていく!?
指定席の指定席には絶対に座るな!
教訓が一つ出来た。