第一話:「天才錬金術師と凡人従者、運命の輪が廻り出す夏」
1470年7月、フィレンツェの灼熱の陽光が石畳を照らす午後のこと。ジョバンニ・ルスティチは、メディチ家の離れ屋敷の前で立ち尽くしていた。彼の手には、粗末な布袋が握られている。その中には、彼の全てが詰まっていた。料理人としての夢、家族への想い、そして未知の世界への期待と不安。
ジョバンニは深呼吸をし、自分の心臓の鼓動を落ち着かせようとした。
「ここが本当に正しい場所なのだろうか……」
彼は不安げに周囲を見回した。華やかなパラッツォが立ち並ぶ中、この屋敷だけが妙に閑散としている。まるで、この場所だけが時間から取り残されたかのようだった。
ジョバンニの脳裏に、数日前の出来事が蘇る。彼が働いていた小さな食堂に、突如として現れた謎の男。その男は、ジョバンニの料理の才能を絶賛し、メディチ家で働かないかと持ちかけたのだ。貧しい家庭に育ったジョバンニにとって、それは夢のような話だった。しかし同時に、未知の世界への不安も大きかった。
ジョバンニは恐る恐る門を叩いた。
「Entrate!(入りなさい!)」
中から冷たい声が響く。その声に、ジョバンニは思わず身震いした。しかし、ここで引き返すわけにはいかない。家族のため、そして自分の夢のために、彼は勇気を振り絞って扉を開けた。
驚いたことに、屋内は錬金術の実験室と化していた。無数のフラスコや蒸留器が並び、奇妙な図形が壁一面に描かれている。その中央に、一人の少女が立っていた。
アレッサンドラ・デ・メディチだ。彼女は鋭い緑の瞳でジョバンニを睨みつけた。その眼差しは、まるで彼の心の奥底まで見透かしているかのようだった。
「お前が新しい従者か」
アレッサンドラの声は、氷のように冷たかった。ジョバンニは思わず背筋を伸ばした。
「は、はい。ジョバンニ・ルスティチと申します。よろしくお願いいたします」
ジョバンニは慌てて頭を下げた。アレッサンドラは彼を上から下まで観察し、軽蔑的な目で言った。
「まあ、使えるかどうかはわからないが、ロレンツォの命令だからな」
彼女は背を向け、作業に戻ろうとした。ジョバンニは、この場の空気に押しつぶされそうになりながらも、勇気を振り絞って声を上げた。
「あの、お嬢様。お手伝いできることはございますでしょうか?」
アレッサンドラは不機嫌そうに振り返った。彼女の目には、明らかな苛立ちが浮かんでいた。
「そうだな…… まずは此処の掃除をしてくれ。だが、絶対に実験器具に触れるな。お前如きが扱えるものではない」
その言葉に、ジョバンニは心の中で小さくため息をついた。彼は料理人として雇われたはずだった。しかし、今の状況では従順に従うしかない。
ジョバンニは黙って掃除を始めた。しかし、複雑に入り組んだ実験器具の間を掃除するのは至難の業だった。彼は慎重に動きながら、時折アレッサンドラの様子を窺った。
アレッサンドラは、まるでこの世界に自分しか存在しないかのように実験に没頭していた。その姿は、ジョバンニの目には神秘的に映った。彼女の動きには無駄がなく、まるで舞うように優雅だった。しかし、その美しさとは裏腹に、彼女の周りには冷たい空気が漂っていた。
「危ない!」
アレッサンドラの鋭い声が響く。ジョバンニが誤って触れそうになった薬品を、彼女が素早く取り上げた。
「これは猛毒だ。触れれば即死する」
ジョバンニは青ざめた。
「申し訳ございません……」
アレッサンドラはため息をつきながら言った。
「これだから素人は…… まあいい、次は台所の掃除をしてくれ」
台所に向かったジョバンニは、そこが完全に荒れ果てているのを見て愕然とした。腐った食材や、カビの生えた皿が山積みになっている。この光景に、ジョバンニは胸が痛んだ。食材を粗末に扱うことは、料理人としての彼の信念に反するものだった。
「これは…… 大変なことになっています」
ジョバンニは袖をまくり上げ、黙々と掃除を始めた。彼の心の中では、さまざまな感情が渦巻いていた。不安、戸惑い、そして少しばかりの期待。この奇妙な屋敷で、彼はいったい何を見出すのだろうか。
数時間後、台所は見違えるほど清潔になっていた。ジョバンニは満足げに微笑んだ。少なくとも、自分の仕事には誇りを持てる。彼は軽やかな足取りで実験室に戻った。
「お嬢様、台所の掃除が終わりました」
実験室に戻ったジョバンニの声に、アレッサンドラは顔を上げた。
「ほう、予想以上に早いな」
彼女は台所を確認し、少し驚いた表情を見せた。
「なるほど、これなら使えるかもしれんな」
その時、アレッサンドラの腹が大きく鳴った。彼女は少し赤面し、言った。
「そういえば、何も食べていなかったな……」
ジョバンニは微笑んで言った。「よろしければ、簡単な食事を作らせていただきますが」
アレッサンドラは少し警戒しながらも、頷いた。
ジョバンニは手際よく料理を始めた。新鮮なトマトとハーブを使ったパスタ、そしてフレッシュチーズのサラダ。シンプルだが香り豊かな料理が出来上がった。
アレッサンドラは恐る恐る一口食べ、目を見開いた。
「これは…… 美味い」
彼女は夢中で食べ始めた。ジョバンニはほっとした表情で見守っている。この瞬間、二人の間に何かが生まれた。それは信頼と呼ぶには脆弱すぎるものだったが、確かに何かが変わり始めていた。
食事を終えたアレッサンドラは、少し表情を和らげて言った。
「お前の名は…… ジョバンニだったな。明日からもここで働いてもらう」
ジョバンニは嬉しそうに頷いた。
「はい、精一杯頑張ります」
その夜、ジョバンニは自分の小さな部屋で、今日の出来事を振り返っていた。天才錬金術師との奇妙な同居生活。これからどんなことが起こるのだろうか。不安と期待が入り混じる中、彼は静かに目を閉じた。
一方、アレッサンドラは実験室で新たな研究に没頭しながら、時折台所を見やっていた。彼女の頭の片隅に、今日の美味しかった料理の味が残っていた。そして、ほんの少しだけ、彼女の心に温かいものが灯ったような気がした。
フィレンツェの空に、新月が静かに輝いていた。それは、新たな物語の幕開けを静かに見守っているかのようだった。