上野発の夜行列車
上野発の夜行列車降りたときから
まだ19歳だったという。石川さゆりが「津軽海峡・冬景色」を歌ったのは。
素直に驚き以外のなにものもない。
昭和52年のことである。
北帰行
という言葉がある。
石川さゆりが歌う「津軽海峡・冬景色」ほど、その具体的情景を描写した歌詞・歌唱はないのではないか。
そして、北帰行の旅立ちは、やはり上野駅において他になく、一種の侘しさを伴う夜行列車こそがその象徴であったろう。
上野発の夜行列車
と聞いて、思い浮かべるのはどんな列車か。
花形は、なんといっても北海道に向かう「北斗星」だろうが、昭和53年10月当時、そんなものはまだない。
それでも寝台特急なら多数運転されており、メインは北海道連絡の東北本線、常磐線の青森行だから、「津軽海峡・冬景色」の歌詞に重なる連絡船接続列車と言えば、「はくつる」「ゆうづる」になる。
両者を比べると、日本酒のブランド名を連想する「はくつる」よりは、哀しい民話を元にした「ゆうづる」の方が、恋破れた女を歌う詩のイメージに近いように思われる。
だから、あの歌の「上野発の夜行列車」とは、連絡船に向かう無口な人たちを大勢乗せた「ゆうづる」ではないかと勝手に想像している。
さよなら、あなたと上野駅を発った失意の女は、雪の青森駅に、13両編成の583系寝台電車の折り戸の扉から降り立ったに違いない。
では、昭和53年10月当時、上野発の夜行列車はどれほどあったのだろう。
「ゆうづる」だけで7本もある。53年10月改正で増えた本数自慢のエル特急もびっくりの数だ。同じ青森行の昼行エル特急「はつかり」は6本しかなかったのだから。
寝台特急は青森行が常磐線経由の「ゆうづる」の他に、東北本線経由の「はくつる」が1本、奥羽本線経由の「あけぼの」が1本あった。他に、東北本線経由盛岡行「北星」が1本、奥羽本線経由秋田行「あけぼの」が1本、上越線経由金沢行「北陸」が1本と、計12本の寝台特急が上野駅を発っていた。
当時の夜行列車は寝台特急ばかりではない。
それを上回る数の急行列車が運転されていた。しかも、実に多彩に。
東北本線経由、常磐線経由の青森ゆきは、寝台特急に押されて、定期列車はわずか3本のみ。東北本線経由の「八甲田」1本と常磐線経由の「十和田」が2本。「八甲田」「十和田5号」「十和田2号」には寝台車さえ連結されていない。
ただ、周遊券を握りしめて北海道へ向かった貧乏学生にとっては、この夜行急行の自由席はとてもありがたい存在であった。
この両列車には季節列車や臨時列車が多数運転され、学校が長期休暇のときなど、溢れる乗客を吸収していたと思われる。
青森ゆきは寝台特急が幅をきかせていたが、他は急行がメインであった。
東北本線は19時8分発103列車「八甲田」青森ゆきのあと、
19時31分発 401列車「津軽1号」奥羽本線経由青森ゆき
22時41分発 405列車「津軽3号」奥羽本線経由青森ゆき
23時4分発 403D「出羽」奥羽本線・陸羽西線経由酒田ゆき
23時32分発 103M「いわて3号」盛岡ゆき
23時42分発 1101列車寝台急行「新星」仙台ゆき
23時55分発 1117M「あずま3号」仙台ゆき「ばんだい11号」磐越西線経由会津若松ゆきと続いた。
常磐線では20時50分発203列車「十和田3号」青森ゆきのあと、
23時20分発 205列車「十和田5号」青森ゆきが続いた。
高崎線では20時53分発603列車「越前」信越本線・長野経由福井ゆきを皮切りに、
21時13分発 801列車「鳥海」上越線・羽越本線経由秋田ゆき
21時49分発 3605列車「能登」上越線経由金沢ゆき
22時11分発 733M上越線経由長岡ゆき普通列車
22時38分発 803列車 寝台急行「天の川」上越線・羽越本線経由秋田ゆき
23時20分発 707M「佐渡7号」新潟ゆき
23時58分発 301列車「妙高9号」信越本線・長野経由直江津ゆきとなる。
以上は定期列車で、他に季節列車、臨時列車が運転される。
昭和53年10月改正時刻表に掲載された列車は以下のとおり。
19時16分発 8103列車「八甲田55号」東北本線経由青森ゆき
19時52分発 8601列車「越前51号」信越本線・長野経由福井ゆき
20時14分発 6201列車「十和田1号」常磐線経由青森ゆき
21時8分発 6105列車「八甲田59号」東北本線経由青森ゆき
21時20分発 寝台車つき6403列車「おが3号」奥羽本線経由男鹿ゆき
22時28分発 9601列車「越前53号」信越本線・長野経由福井ゆき
22時44分発 6103D「ざおう57号」「ばんだい55号」山形ゆき・会津若松ゆき
22時48分発 8107列車「八甲田61号」東北本線経由青森ゆき
23時9分発 8405列車「ざおう59号」「ばんだい57号」山形ゆき・会津若松ゆき
23時16分発 6111M「まつしま11号」東北本線経由仙台ゆき
23時30分発 8203列車「十和田53号」常磐線経由青森ゆき
23時35分発 8301M「信州51号」信越本線経由長野ゆき
23時35分発 8705列車「佐渡57号」新潟ゆき
23時46分発 6301M「妙高7号」信越本線・長野経由直江津ゆき
23時49分発 6401M「ざおう5号」「ばんだい9号」山形ゆき・会津若松ゆき
0時14分発 9111列車「ばんだい59号」会津若松ゆき
0時22分発 6301M「信州9号」長野ゆき
0時50分発 9305M「信州55号」長野ゆき
こう、つらつらと列挙すると、その本数の多さと行き先の多様さに驚かされる。
その中には、仙台、新潟、山形、会津若松、直江津、長野など、200km台、300km台といった比較的短い距離の列車が少なくない。
昼の特急列車で3時間、4時間程度で行けるところでも、夜行需要があったということであろう。
現在、各地を結ぶ夜行バスが多数運行されている。
当時の上野発の夜行列車は、今のバス便需要をも満たしていたと言えよう。
それら短距離夜行にも、寝台車が連結されていた列車がある。
長野経由で上野ー直江津間を結ぶ「妙高9号」の上野発は23時58分。長野には4時51分に着く。そこから先は普通列車となって最終の直江津着は7時15分。
最も需要が大きかったであろう長野までの乗車時間は、5時間に満たない。
この列車にはA寝台車も連結されていたが、寝台車利用客の下車駅はどこが一番多かったのだろう。
東北本線の仙台ゆき「新星」は寝台急行であった。座席車はない。
上野発23時42分、仙台着5時57分。乗車時間は6時間少々で、寝たと思ったら、起こされる感じだろうか。
行き先で興味深いのは、会津若松。
臨時列車や季節列車を含めると、5本の夜行列車が直通している。
磐越西線の標準軌化が実現されていないため、令和の今、東京と会津若松を結ぶJRの直通列車はない。
在来線しかなかった当時は、支線にも自在に足を伸ばすことができたため、会津若松のような一定規模の都市への直通運転は、ごくごく当たり前のことだったのであろう。
支線を巡るという点では、急行「出羽」は面白い。
福島から奥羽本線に入り新庄までゆくと、陸羽西線に入り、酒田に至る。陸羽西線内の停車駅は狩川しかなく、敢えて陸羽西線を経由する意味があるように見えない。
ただ、上越線・羽越本線経由の寝台急行「天の川」に比べて、上野ー酒田間の所要時間は「出羽」のほうが短く、上下とも後発で先着する。
「天の川」のルートは498.5km、「出羽」のルートは479.5kmなので、短い距離の優位性はある。これなら、陸羽西線経由の秋田ゆき急行はもっとあってもよかったのではと思わなくもない。
これだけ列車本数が多いと、中には特急と急行の違いはなんだろうと感じる例もある。
電車寝台の「はくつる」「ゆうづる」は別格なので、ここでは客車寝台特急と急行を比較する。
金沢ゆき寝台特急「北陸」は上野を21時17分に出る。
その4分前を秋田ゆき急行「鳥海」が先発している。
ふつう、先行する急行を後発の特急は追い抜いてゆくものだが、次の大宮では余裕をみせて3分停車し、「鳥海」の6分後に出発する。「鳥海」は熊谷に停車するが、特急「北陸」は停まらない。
にもかかわらず、高崎着は「鳥海」から遅れること21分後である。ここでも5分停車の余裕をみせるが、その次の停車駅、水上に着くのは「鳥海」の29分後になる。
まるでウサギとカメだ。
話はこれで終わらない。
寝台特急「北陸」に遅れること32分後に、「北陸」と同じ金沢ゆきの急行「能登」が上野を発つ。「鳥海」同様に熊谷にも停まるが、高崎には「北陸」の22分後、水上には15分後に着く。
水上を0時19分に出た「北陸」は特急らしく、深夜帯をノンストップで駆けてゆく。
次に停まるのは4時2分の糸魚川。深夜帯に主要駅に停車する急行「能登」とは対象的ながら、「能登」が糸魚川に着くのは4時33分なので、上野発の時間差とほぼ一緒である。
最終の金沢着は「北陸」が6時6分、「能登」が6時51分。始発駅の時間差をようやく13分に広げてくれる。
上野から金沢には、信越本線・長野経由の福井ゆき急行「越前」もある。
こちらは寝台特急「北陸」より24分前に上野を発ち、金沢着は7分前。「北陸」は17分詰めるわけだ。
はたして「北陸」は本当に特急なんだろうか。
上野ー金沢間は469.5kmしかなく、寝台特急の走行距離として最も短い。時間差をつけるには厳しい距離ではある。急行「能登」「越前」との特別な差があるとすれば、車両だろう。
同じ3段式B寝台ながら、「北陸」の車両は寝台幅が70cmに対して、「能登「越前」の車両は寝台幅が52cmしかない。
北陸への夜行旅客に快適な設備を提供するには、規程のうるさい国鉄では、「特急」という扱いでなければ、決裁が下りなかったから。
これが「北陸」が「寝台特急」となった理由なのかもしれない。
ちなみに寝台特急「北陸」に差をつける急行「鳥海」は羽越本線経由で秋田まで駆ける。
ほぼ同じ経路をゆく寝台急行「天の川」は、「鳥海」の1時間25分後に上野を出て、秋田着は10時24分。
先行する「鳥海」の秋田着は8時17分だから、「天の川」の2時間5分前。上野から、40分もの差を広げている。「鳥海」が速いのか、「天の川」が遅いのか、いずれも同じ急行料金である。
夜行列車の場合、利用しやすい時間帯があるであろう。
寝台特急「北陸」の場合、6時6分の金沢着はちょっと朝が早すぎる感じがある。
上野発がもう1時間あとなら、富山6時10分着、金沢7時6分着となる。福井まで足を伸ばせば、8時すぎには着きそうだし、敦賀にも9時前には辿り着きそうだ。
利用しやすい時間帯に到着するためもあってか、夜行列車は途中駅で長時間停車することも少なくない。
とは言え、秋田駅の長時間停車はちょっと不思議な感じがある。
急行「津軽1号」の秋田着は5時40分、発は49分。
寝台特急「あけぼの1号」は7時ちょうどに着いて16分に出る。16分も停車してる間に、男鹿ゆき1123列車を先発させる。
急行「津軽3号」は8時53分着の9時8分発で15分間停車。
青森ゆきの、これら特急、急行はなぜにかくも長時間停まっていたのだろう。
ひとつには、機関車の付替えがあったことが想定される。が、にしても長い。
下車客、乗車客ともに多くて、出入りに混雑するため、余裕を持たせた。
豪雪地帯を通ってくるので、冬場のダイヤ乱れを調節する目的があった。
腹ごしらえするための弁当購入もしくは駅そばをかきこむ時間を設けた。。。
先に向かう客にとっては、余計な時間だったかもしれないし、狭い車内からいったん解放される貴重な時間だったかもしれない。
上野発の夜行列車は、かくも多様な目的地があった。
それでも、こんな列車があればどうだったろう。
釜石線経由宮古ゆき。遠野、釜石、宮古を結ぶ。
寝台特急「北星」の花巻着が5時50分。急行「はやちね1号」に乗り継げば、釜石には7時37分に着く。
これを一本化すれば、新日鉄関係者には好都合だったのではなかろうか。
令和の今、上野発の夜行列車はない。
兵どもが夢の跡、である。