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ノスタルジック山陰本線

 山陰本線は、令和6年の今も、昭和を色濃く残している路線のひとつと言えるだろうが、昭和53年10月ダイヤ改正当時の山陰本線やその支線の数々は、戦後しばらく経ってからの国鉄をそのまま残していたと言えるかもしれない。

 電化区間はどこにもなく、普通列車の主力は客車列車であり、冷房もなく、座席は四人掛けのボックスシート。運転区間の長い列車が多かった。


 大阪駅に直結する福知山線は非電化単線で、普通列車は1日に下り19本、上り20本しかなく、うち11本はディーゼル機関車が牽引する客車列車、それも手動扉の旧型客車であった。並行する阪急宝塚線が1時間に急行、普通を4本ずつ運転していたことを考えると、大阪の通勤圏内にありながら、近代化や輸送力の増強を放置してきた路線であった。

 筆者は過去、福知山線の武田尾駅で「阪急梅田ゆき」の切符を購入した経験がある。硬券の券面には「宝塚経由」とあり、宝塚で阪急宝塚線に乗り換える切符が国鉄から販売されていた。阪急梅田駅と国鉄大阪駅は実質的に同じ目的地である。武田尾駅からの上り列車の終点はすべて大阪駅で、武田尾駅からの乗客は、列車にそのまま乗っていれば、いずれ大阪駅に着く。にもかかわらず、かような切符が売られていた事実がなにを意味するかといえば、それだけ需要があったということであり、つまりは、宝塚で阪急に乗り換えた方が、梅田に早く着いたからであろう。


 大阪駅や京都駅を出る客車列車の扉は手動で、乗客がわざわざ自ら閉じることをしないので、走り出しても、デッキの扉は全開である。列車によっては、最後尾車両に車掌室がなく、最後尾連結扉も開いたままだったりする。言わば、柵のない展望車に立つことができた。これはなかなかスリルがあって、面白い経験であったが、時速50−60キロで走る列車のデッキががらんどうというのは、安全面では相当に危険な状態である。その気になれば「えいやっ」とばかりに飛び降りることもできなくはない。実際に転落事故がどれほどあったのか定かではないが、当時は日本全国でそんな列車が普通に走っていたから、仮にあっても大きく報じられることはなかったのかもしれない。

 ただ、時刻表の昭和53年10月改正号に掲載された「新しい車両いろいろ」には、50系客車が紹介されており、「ドアも自動でラッシュ時の乗り降りのスムーズさと安全性を重視した設計」とある。ラッシュ時には、人波に押されて、走る列車から落ちる人がいたのだろうか。駅に着くとき、停車し終わらない前に我先に降りようとする人が現れたりすると、突き落とされてしまう人が出そうではある。


 令和の今でも、大井川鉄道など一部では戦後まもなくの鉄道車両を体験できる。しかし、何百キロもの区間を何時間もかけてとなると、仮想現実の世界でもなければもうムリだ。

 当時の山陰本線では、普通列車はディーゼル機関車がガタゴトと客車を引っ張って何百キロも走る。豊岡駅5時4分発831列車は18時間かけて九州の門司まで行く。京都駅5時25分発835列車は16時間かけて島根県の浜田まで行く。その12分後に大阪駅を発った721列車は14時間かけて島根県の出雲市まで行く。京都駅9時7分発837列車は13時間かけて同じく出雲市まで。大阪駅10時8分発723列車は12時間半かけて鳥取県の米子まで。

 今なら間違いなく数多の動画がアップされ、これら列車の道中記が流されることだろう。


 835列車を机上再現すると、5時25分に京都駅をあとにした列車は馬堀と並河、千代川、吉富、高津の他は丹念に停車し、7時44分福知山に到着する。多くの高校生が下車するものと思われる。

 福知山で19分停車した後、9時25分豊岡着、9分停車。城崎9時50分、香住10時36分、浜坂11時4分ときて、12時3分鳥取着。23分間の長休止中に、大阪からの特急「まつかぜ1号」に抜かれる。

 倉吉13時44分着、ここで26分停車し、後続の13時56分着特急「あさしお3号」を待って、14時10分発。

 米子には16時7分に着く。後続の大阪からの急行「だいせん1号」を先行させ、おそらく下校の高校生を満載して16時29分発。

 松江には17時31分着。わずか29キロの距離を1時間もかけるのは、米子の隣駅の安来で18分ほど停車するなど各駅での停車時間が長いため。駅ごとに長時間停車が続くと、急ぎの客はうんざりしたことだろう。普通列車でも速い列車なら、米子ー松江間は30分ほどで着くからだ。

 松江で9分間停車し、出雲市18時28分着、ここでも10分間停まる。大田市19時32分着、18分間の停車中に後続の岡山発エル特急「やくも7号」を先行させる。江津20時52分着、敬川、久代を通過して最終、浜田に21時21分着。連絡列車は浜田21時34分発の275D益田行。これなら、835列車が益田まで行けばいいのにと思わなくもないが、車両運用上の事情があるのであろう。


 余談ながら、当時流行った漫画「銀河鉄道999」は蒸気機関車が旧型客車を牽く列車で、主人公はこんな古い車両が宇宙に行くのかと驚くシーンがあったように思う。すでに郷愁を覚える感覚が、当時の機関車と旧型客車にはあったゆえの設定だったのであろう。また、主人公たちの他に乗客がほとんど見られないガランとした雰囲気は、当時の凋落する鉄道の雰囲気に近い。そう思うと、大阪や京都から山陰の聞いたこともないような目的地に向かって、長い編成の旧型客車が延々走る様は、アニメの世界を身近に追体験できる場であったのかもしれない。実際、ラッシュ時を除けば、長い編成の中は閑散としており、4人がけのボックスシートをほぼほぼ独占できた記憶がある。


 急行列車も古き時代の幹線急行を彷彿とさせる。

 701D「だいせん1号」は大阪を9時50分に出ると、浜田まで9時間35分かけて500.8kmをロングランする。

 この列車は大阪を11両で出発し、途中、豊岡で後ろ2両を切り離す。9両で城崎、竹野、香住、浜坂、岩見、鳥取、浜村、松崎、倉吉と停車し、16時20分、米子に至る。ここで長門市行急行「ながと」を前方に併結するが、時刻表には「ながと」の編成表の記載がないため、何両増えるのかよくわからない。おそらく2両ではないかと思うが、だとすれば、11両の長大編成で米子を後にする。安来、松江、玉造温泉、宍道と停車し、出雲市に至る。ここで後ろ4両を切り離し、その4両は大社線に入って普通列車として大社に向かう。7両編成と短くなった「だいせん1号」は大田市、仁万、温泉津、江津と停車し、終着の浜田に19時25分着。なのだが、米子で併結した「ながと」が分離後さらに西走して長門市まで行く。


 京都と出雲市を結ぶ「白兎」には、ちょっとした別格感がある。

 この「白兎」、急行運転は上下とも京都ー倉吉間に限られるが、長距離急行らしく停車駅が他の急行より少ない。京都ー福知山間の停車駅は二条と綾部のみで、これは特急「あさしお」と変わらない。しかも、同区間の所要時間は上下とも1時間34分。特急「あさしお」が同区間を1時間28分〜38分で結んでいたことを思えば、急行「白兎」の実質は、福知山までであったにせよ、特急であった。


 以上の2列車が昼間急行列車の古典的正統派とすれば、異色は「大社」であろう。

 名古屋・福井と山陰を結ぶ。

 名古屋駅に掲示された「大社ゆき」の行先表示を見た人の中には、「大社って、どこ?」と思った人が少なからずいたに違いない。

 名古屋を9時30分に出た列車は、東海道本線を西走し、米原で進行方向を変え、北陸本線に入る。宮脇俊三氏は昭和53年12月3日に米原から「大社」に乗車されている。敦賀着は11時22分。ここで福井10時26分発の3両と連結し、8両編成になって、またも進行方向を変える。宮脇氏の著書によれば、氏が乗車した日の乗車率は10%程度だったそうで、需要に比べて編成が長すぎるようだ。

 敦賀11時30分発、美浜、三方、小浜、若狭高浜と丹念に停車し、13時ちょうどに東舞鶴着。続いて13時10分、西舞鶴着。宮津線に入り、宮津に停車後、天橋立13時46分着。ここで早くも福井からの編成を切り離す。福井ー天橋立間しか走らないのなら、「大社」なんて列車名をつけずに「はしだて」とでもすればよいと思うが、福井からの乗客が天橋立より先に行く場合を想定していたのであろう。国鉄の規定によれば、同じ列車名なら同一列車扱いとなって、急行券が1枚で済む。

 福井発の編成を切り離した下り「大社」は、峰山、網野と停車し、15時13分、豊岡に着く。最長片道切符の旅をしていた宮脇俊三氏はここで下車しておられる。

 進行方向を三度変えた列車は、山陰本線をひたすら夕陽に向かって走る。城崎、香住、浜坂、岩美と停まり、17時ちょうどに鳥取着。後方に2両増結する。おそらく県庁や企業に仕事で来ていたビジネス客を大勢乗せて、県内各地への帰宅の足に使われたのだろう。7両編成となった列車は、浜村、松崎、倉吉、浦安、赤碕と停まり、18時53分に米子着。鳥取からの増結車両はここで切り離される。

 米子からは安来、松江、玉造温泉、宍道と停車して、20時7分、出雲市着。急行運転はここまでだが、5両編成のまま、グリーン車つきの普通列車として大社線に分け入り、列車名と同じ駅名の終着駅に着くのが20時23分となる。そして、この列車が大社線の最終でもあるのだが、きっと連日ガラガラだったに違いない。

 ちなみに、大社に着いた列車は20時43分発154Dで折り返して、出雲市に20時56分着。この列車はもっとガラガラだったのではと推察する。そして、夜に出雲市まで車両を動かしてしまうので、上り「大社」は出雲市発の名古屋ゆきとなる。名と体が一致しないのは少し残念な気がしないでもない。

 ちなみに、名古屋を「大社」が出た57分後の「ひかり125号」に乗れば、岡山に12時53分に着く。13時10分発のエル特急「やくも5号」に乗り換えれば、米子には15時55分、出雲市には17時ちょうどに着く。「ひかり」にも「やくも」にも食堂車が連結され、営業していたので、食堂車でランチを楽しむこともできた。


 山陰本線の話題は尽きない。

 夜行列車の話、特別急行列車の話、西側の話、陰陽連絡の話、いずれも骨董価値に溢れているが、それらはまたの機会に譲る。



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