一日一往復
令和の今、ローカル線の凋落は著しい。
線区によっては、日に何本も走らぬところが多くなった。
しかしながら、日に一往復しか走らない線区などない。かねて廃止が論じられている、芸備線の備後落合ー東城間でも三往復ある。
昭和53年10月当時、一日一往復の線区があった。
北海道でも、四国でも、九州でもない。
静岡県清水市(当時)の市街地を走っていた清水港線である。
時刻表によれば、清水8時11分発、三保8時36分着の下りと、三保16時14分発、清水16時38分着の上りのみ。ネット情報によれば、バスが充実しており、国鉄は太刀打ちできなかったようだ。
貨物輸送を主目的としていたそうなので、旅客列車はオマケみたいなものであったのであろう。
それにしても、一日にたった一本しか来ない列車に誰が乗るのかと思うが、通学利用で盛況であったらしい。貨物輸送が続いていたならば、あるいは今も通学列車として残っていたやもしれぬ。
興味深いのは、列車番号で、下りが661列車なのはいいとして、上りは668列車なのだ。片道一本しかないのであれば、662が適当かと思われるが、かつてはもっと本数があった名残りなのであろうか。
一日一往復はさすがにこの線だけであるが、一日二往復の線区もあった。
福知山線と播但線である。
両線とも今は廃止されている。
と言うと、ちょっと待って、福知山線も播但線も、今も現存するじゃないか。それに当時だって、福知山線には特急「まつかぜ」や急行「だいせん」が走っていたし、播但線には特急「はまかぜ」や急行「但馬」が走っていたから、列車本数はもっと多かったはずだ。と思われる方もおられよう。
福知山線には尼崎から南下して尼崎港に至る路線があった。
播但線には姫路からこれまた南下して飾磨港に至る路線があった。
ここに朝夕一往復ずつ運転している列車があったのである。
正式な路線名こそ福知山線と播但線であるが、それぞれ尼崎港線、飾磨港線というべき路線であった。
おそらく成り立ちは清水港線と似たようなもので、貨物輸送を主とした路線であったようだ。
清水、尼崎、姫路のいずれも、都市としてはそれなりの規模をもつ。
そしていずれも街の中心駅を起点にしているのだから、市街地を通る線区でもある。
やりようによっては、もっと違った形になっていたのではと思わなくもないが、東京にも大阪にも閑散とした路線はある。土地利用の在り方も含めて、鉄道が存続する条件とはなにかを考えさせられる。
一日三往復となると、都市から離れる。
福島県の喜多方から分岐する日中線。朝一往復と夕方二往復、運転されるだけで、日中に運転しないのに日中線とはこれ如何に、と揶揄する向きもあった路線だった。今はない。
秋田県の角館から分岐する角館線。朝一往復と夕方二往復は日中線と同じだが、こちらはその後、国鉄から移管され、さらに阿仁合線と、両線をつなぐ建設途上の線区まで開業させ、秋田内陸縦貫鉄道としてリスタートした。令和の今も運転している。国鉄時代から本数も増えており、角館では秋田新幹線「こまち」に接続するので、利便性は遥かに増している。
北海道の白糠から分岐する白糠線。こちらは朝、昼、夕にそれぞれ一往復ずつの三往復。この線の終着駅は「北進」で、白糠からまさに北に進んだところにある。その先、池北線の足寄を目指していたそうだが、角館線と違って先が建設されることなく廃止された。観光客を相手にするなら、阿寒湖のほとりを目指したほうが将来性はあったかもしれない。
余談ながら、北海道の鉄道は、もともとが石炭輸送や木材輸送など開拓目的で作られたこともあってか、いわゆる観光地を避けて敷設されているかの趣きがある。今、北海道には、ニセコなど国際的リゾートに変貌する地域が生まれており、札幌や千歳空港とこれら新観光地を結ぶ鉄道の果たす役割は増えそうだ。地元住民が激減し、かつ通学以外に地元住民の需要がないに等しいのであれば、リゾート客相手に特化したサービスに転換したほうがいいのかもしれない。
清水港線、尼崎港線、飾磨港線、日中線、角館線、白糠線のいずれにも、筆者は乗車したこともなければ、列車を見たこともない。
これだけ本数が少ないと、乗りにゆくのもなかなか至難である。
清水港線の場合、朝の下りに乗ろうと思えば、清水や静岡で前泊することとなろう。大阪からなら、寝台急行「銀河」で静岡乗換えがひとつの手になる。夕方の上りの場合は、なんとでもなりそうだ。
尼崎港線の場合も、朝の便は地元以外の人には乗りづらいが、夕方の便なら川西池田16時16分発、尼崎16時44分発なので、なんとでもなる。終着駅の尼崎港に着いてから、折り返しまで1時間以上あるので、終着駅の雰囲気を楽しむ時間は十分ありそうだ。
飾磨港線の場合も、朝の便を地元以外の人々には乗りづらい。夕方の便は姫路17時49分発と少々遅い。折り返しは7分後なので、終着駅の雰囲気を楽しむには、事前に山陽電鉄で向かうのも、帰路に山陽電鉄を使うのもいいだろう。
日中線は磐越西線の喜多方からなので、朝の便に乗るには、喜多方もしくは会津若松の前泊とするか、上野23時55分発の急行「ばんだい11号」なら会津若松に5時12分に着くので、17分発の日中線直通621列車に乗りかえるという手がある。
夕方の便は喜多方16時4分発と18時25分発がある。
16時4分発に乗るには、会津若松15時42分発233列車に乗る必要があり、233列車に乗るには、福島13時34分発1233列車に乗る必要がある。上野からは10時3分発エル特急「はつかり5号」が13時22分に着く。上野10時発「ひばり7号」なら、13時16分福島着だ。
しかし、この乗り継ぎは、令和の今からすれば、垂涎ものである。583系13両編成もしくは485系12両編成で上野を発ち、3時間少し揺られる。途中、お昼どきは食堂車でゆっくり車窓を眺めながらランチを摂る。腹を満たしたところで福島に着き、そこから先は旧型客車列車3本に乗り継いでゆく。途中、会津若松で30分ほどの乗り継ぎ余裕もあるので、飽きることもない。終着駅の熱塩には16時32分着。季節によってはすでに夕闇に覆われていることだろう。
18時25分発に乗るには、会津若松17時47分発235列車に乗る必要がある。上野からは会津若松直通特急「あいづ」が16時55分に会津若松着なので、乗り換えが2回で済む。その前の急行「ばんだい5号」なら、喜多方まで直通するので、乗り換えは1回だ。「ばんだい5号」が喜多方に着くのは17時23分なので、1時間ほど余裕がある。軽くラーメンを啜るには好都合だ。
角館線は田沢湖線の角館から分岐する。
今でこそ田沢湖線は秋田へのメインルートとなっているが、当時は急行が二往復するだけのローカル線に過ぎない。
朝の便に乗るには、盛岡からでは無理で、大曲5時37分発の1822列車に乗らねばならない。上野19時31分発の急行「津軽1号」なら大曲に4時47分に着くので、多少の遅れでも間に合うであろう。
夕方の角館15時55分発923Dに乗るには、盛岡14時28分発835Dか、大曲15時27分発834Dに乗らねばならない。上野からでは、7時33分発のエル特急「はつかり1号」が13時57分に盛岡に着く。8時3分発のエル特急「つばさ1号」なら15時8分に大曲に着く。この接続なら、奥羽本線経由の「つばさ」がよさそうだ。
角館17時23分発925Dは他線からの接続がわるい。地元高校生の下校輸送のための列車だったのであろう。
白糠線は地元の人以外が乗るには、きわめてハードルの高い線であったことだろう。
根室本線の白糠に至るまでが、まず遠い。しかも、白糠に停車する列車が限られる。特急「おおぞら」は無論、急行にも停まらない列車があった。
朝の便に乗るには、札幌からの夜行急行「狩勝7号」で白糠5時41分着で、6時24分発に接続する。
昼の13時50分発に乗るには、札幌7時5分発、急行「狩勝1号」で13時20分着だろう。
夕方の17時40分発に乗るには、帯広14時39分発223Dしかなく、それに乗るには帯広12時56分着の特急「おおぞら1号」を乗る必要がある。
つらつら書き連ねた。
いずれも、この時代には、すでに趣味の世界だけに生きる鉄道であったように思う。
公共交通機関というより、アトラクションの一種のようなもので、令和の今も、それに近くなった路線が増えてきたようだ。存在目的の主眼をどこに置くのか、改めて考える時期にきているのかもしれない。