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 かの宮脇俊三氏が、国鉄の片道最長切符を手に北海道の広尾駅を後にしたのは、昭和53年10月のことであった。

 当時の国鉄には、本州と四国を結ぶ鉄道連絡船が二航路あり、片道最長切符の経路に四国を含めることができた。著書のあとがきによれば、この4年後には本州と四国を結ぶ連絡船航路のひとつが廃止され、国鉄の一筆書きに四国を含めることができなくなったという。その意味で、極めて絶妙な時期に、氏は片道最長旅行をしていたことになる。

 その記録を改めて読み返してみると、当時の国鉄が全国の鉄道ネットワークを活かして、実に多彩な列車を運行していたことに驚かされる。分割民営化前で、路線網は今よりずっと充実していた。


 宮脇氏が片道最長切符の旅に出た昭和53年10月号の時刻表を、改めてじっくり見てみたいと思った。

 ちょうどJTBが復刻版を市販していて、真新しい図書を手軽に入手できたのは僥倖であった。

 時刻表復刻版によれば、「ごお さん とお」と呼ばれる昭和53年10月ダイヤ改正の目玉は、特急列車など200本近くの列車増発、1,245両もの新型車両の投入にあるとのこと。今やノスタルジックな国鉄型気動車キハ40が登場したのもこのときだったようだ。

 もっとも、世間の話題は、特急電車のヘッドマークが絵入りになったことのほうが大きかったろう。国鉄型特急車両のほとんどが廃車された現在、絵入りどころか愛称名のヘッドマークを掲げる特急列車も希少だが、おかたい国鉄にしては遊び心のある、いい施策だったように思う。

 また、愛称つき列車の号数が下りは奇数に、上りが偶数に統一された。「はつかり1号」は上野発の下り列車、「はつかり2号」は青森発の上り列車という具合に。偶数が上り列車になったことで、「あずさ2号」は8時ちょうどに新宿駅を出発しなくなった。それが当時話題になったのは、狩人のヒット曲「あずさ2号」の歌詞が現実に合わなくなったからだ。


 それにしても、昭和53年10月号時刻表には、令和の感覚では、ありえない列車や車両が満載だ。

 例えば、長距離列車。

 寝台特急「富士」は24時間以上!かけて、東京と西鹿児島を日豊本線経由で結んでいた。特急「白鳥」は北陸本線、信越本線、羽越本線、奥羽本線経由で大阪と青森を結んでいた(こちらは平成まで運転されていたので、まだ記憶に新しいが)。特急「まつかぜ1号・4号」は山陰本線経由で大阪と博多を結んでいた。北海道では特急「おおぞら」が函館と釧路を、特急「おおとり」が函館と網走を、急行「宗谷」が函館と稚内を結んでいた。

 特急や急行ばかりではない。普通列車にも長距離を走り続ける列車が幾本もあった。

 北海道には121列車など函館から旭川まで函館本線を通しで走る列車や、小樽と釧路を結ぶ寝台車つき「からまつ」があった。東北には41列車など仙台と青森を直通する列車が何本かあり、常磐線には221列車など上野と仙台を直通する列車があった。日本海側には新潟から青森を結ぶ833列車、米原と長岡を結ぶ523列車などがあった。

 特に山陰は、大阪発出雲市行721列車、京都発浜田行835列車、豊岡発門司行831列車、門司発福知山行824列車、浜田発大阪行726列車など、長距離鈍行の宝庫と言うべき状況であった。

 名古屋から紀伊半島をぐるっと回って大阪の天王寺まで駆ける夜行鈍行もあった。


 寝台特急をはじめ、夜行列車も実に多い。

 東京と九州、大阪と九州、東京と東北などを結ぶ寝台特急の他に、夜行急行列車があちこちの線区で運転されていた。北海道では札幌から稚内、釧路、網走、函館を結んでいた。東北では上野と青森を結ぶだけでなく、盛岡、仙台、秋田、山形、福島などを結ぶ夜行列車があった。東京・大阪と日本海側各都市、東京・大阪・名古屋と長野県、山陰には東京・大阪の他に九州や広島と結ぶ夜行列車があった。四国や九州にも島内で完結する夜行列車が走っていた。

 北海道、山陰、紀勢線、長崎線では夜行の寝台車付き普通列車があった。


 同じく今ではほぼ見ることのない食堂車つきの列車も少なくない。

 新幹線「ひかり」は、ほぼ全てが食堂の営業をしていた。

 東京と九州を結ぶ寝台特急、北海道、東北、北陸の特急列車も多くが食堂営業をしており、他にも長距離特急「まつかぜ1・4号」、岡山と出雲市を結ぶ特急「やくも」全列車、九州特急「有明」の一部で営業していた。


 機関車が牽引する客車列車も多かった。

 ブルートレインと呼ばれた寝台特急はじめ、夜行急行列車、そして各地の普通列車にも客車は使われていた。大阪駅からは福知山線、上野駅からは常磐線で客車列車が見られた。扉が手動で、動き始めてからでも飛び乗ることができるような列車が、東京や大阪でもまだ普通に走っていた。


 今では運賃以外に料金が必要な列車は「特急」であるが、この頃は特急より急行の本数が倍近くあった。とは言え、東北本線、上越線、信越本線、北陸本線、鹿児島本線など、後に新幹線ができた線区の主力はすでに特急で、急行の役割はローカル線区の速達需要を満たすことにあったと考えられる。令和の今からすれば、こんな線区にも急行があったのかと感慨深いものがあったりする。


 東海道、山陽の両幹線を除けば、在来線が幹線輸送の中核を担っていた時代だった。

 分割民営化前の、会社境界や各社利害を意識しないダイヤを、自由に組める組織でもあった。急行「大社」は名古屋から米原、敦賀を経て小浜線に入り、西舞鶴から宮津線に入り、豊岡から山陰本線を西走して出雲市に至り、更に大社線に入り大社までを11時間以上かけて結んでいた。

 急行「赤倉」は名古屋から中央本線を北上し長野に至り、信越本線に入って直江津経由で新潟まで結んでいた。所要時間は8時間ちょっと。

 急行「あきよし」は山陰本線の浜田と門司・小倉を経て日田彦山線に入り日田を結んでいた。島根県の浜田と大分県の日田にどんな往来があったというのだろう。実に興味深い。

 急行「しらはま」は京都から奈良線、桜井線、和歌山線を経由して和歌山に至り、紀勢本線を南下して白浜までを結ぶ。京都・奈良と南紀を直結する急行があってもおかしくはないが、所要時間は5時間弱だ。「しらはま1号」の場合、京都を6分後に出る新快速に乗れば、大阪から環状線に乗り換えて10時30分天王寺発の急行「きのくに10号」で白浜には13時14分と1時間も速く着く。11時天王寺発の特急「くろしお8号」なら、もう一、二本後の新快速に乗っても白浜には13時7分と更に速い。乗換えの不便はあるにせよ、この時間差では「しらはま」を通しで乗ろうという客はまずいまい。しかも、大阪経由なら本数が圧倒的に多い。

 急行「鷲羽」は大阪を23時21分に出て宇野に2時28分に着く。宇高連絡船に乗り継げば3時45分に高松に着く。大阪から四国への夜行需要を満たす位置づけなのだろうが、眠い目をこすりながら未明の高松に着いたお客はそれからどうしたのだろう。松山、高知、徳島に向かうにも、それぞれ接続が悪すぎる。どんな需要があって、このダイヤを組んだのだろうか。興味は尽きない。


 これから、手元の昭和53年10月号の時刻表復刻版を紐解いてゆこうと思う。令和の感覚からすれば、ワンダーランドというべき世界をつぶさに見てゆきたい。

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