9 旅立ちの前夜
その夜のこと、町では聖女の旅の無事を祈る宴が催された。
広場に設置されたいくつものテーブルに料理の数々が並び、人々は思い思いに楽しんでいる。
真紀は輪の中心から少し離れたところでぼんやりとその様子を眺めていた。恵子が魔女を倒すために旅立とうとしているというのに、呑気に騒いでなどいられない。
ぶらぶらと町の中を歩き回りながら、なんとなく夜空の星を見上げて溜息を漏らす。
「真紀」
名前を呼ばれて振り向くと、そこには恵子の姿があった。彼女は真紀の隣へとやって来る。
「どうしたの、そんなに暗い顔をして」
「それは……だって、恵子があんなこと言うから」
真紀が言うと、恵子は困ったように笑みを浮かべた。
本当なら今すぐにでも彼女を止めたかったけれど、恵子はもう覚悟を決めてしまっているようだ。
「魔女に苦しめられてる人を放っておけないもの」
「それは聖女としての使命だから?」
「それだけじゃなくて、私の個人的な感情かな」
そう言った恵子の横顔がとても寂しそうで、真紀は胸を痛めた。
だけどやっぱり意外ではあった。
いくら恵子がお人よしだと言っても、そして使命を果たさなければ元の世界へ戻れないと言っても、こんなにもすぐに決意を固めてしまえるとは思わなかった。
(恵子……本当に大丈夫なの?)
そんなことを考えながら、夜空に浮かぶ月を見上げる。
その時、視界の端に黒い影のようなものが入り込んできた。
「きゃっ」
真紀は思わずのけぞってしまう。隣にいた恵子も驚いた様子で口元に手を当てた。
「ちょっとー、なんだよその反応! あたしだって傷つくんだからね!」
現れたのは背中に羽の生えた小さな少女だった。
彼女は不機嫌そうに頬を膨らませてぷりぷりと怒っている。その姿を見た瞬間、真紀は目を丸くする。
「クレア!」
「え、何この子? 可愛い」
突然現れて真紀に詰め寄ってきた少女を、恵子は興味深そうに見つめる。クレアは恵子の顔を見てにっこりと笑った。
「初めまして聖女様。あたしは女神様の遣いのクレアだよ。よろしく」
「あ、はい。こちらこそ」
クレアに挨拶をされて、恵子はぺこりと頭を下げる。
「クレア、今までどこへ行っていたの?」
真紀は眉根を寄せて問いかける。
あのローブの連中に襲われた時、いつの間にか彼女はいなくなっていたのだ。
「ごめんごめん。あの時ビビっちゃってさ。怖くて逃げちゃったんだよね」
えへへと笑う彼女に、呆れつつも安心した。
「心配していたんだよ。無事でよかった」
すると、クレアは少しだけ申し訳なさそうに笑った。
「あんた達を捜すのに苦労しちゃったよー。まさか魔女の影が出てくるなんて思わなかったしさ」
「あいつが魔女の使い魔のようなものだと聞いたけど、どうして私達に襲いかかって来たのかな?」
「たぶん奴の狙いはあのローブの連中だよ。あいつらは魔女の敵だからねぇ、邪魔な存在を消したかったんでしょ」
真紀の問いにクレアはさらっと答える。
「そんなことより、明日から旅に出るんだってね。あたしがちゃんとガイドしてあげるから、大船に乗ったつもりでいてよ!」
クレアが胸を張って自信満々に宣言すると、恵子は優しく微笑んだ。
「ありがとう。頼りにしてます」
「任せてよ」
クレアは誇らしげに笑った。
真紀はそんな二人の様子を眺めつつも、胸の奥ではずっとモヤモヤとした気持ちを抱えていた。
「ねぇ、クレア……蓮也がどうなったのかわからない?」
恐る恐る尋ねてみると、彼女は静かに首を横に振った。
「ごめん。あいつらはあの後、レンヤを連れて魔法でどこかへ消えちゃったんだ。行き先はわからなかったよ」
「そっか……」
「大丈夫だって。きっと無事でいるから」
落胆してしまう真紀を励ますようにクレアは言葉を続けた。
「そうだといいんだけど」
真紀はやはり不安だった。もしも蓮也の身に何かあったら、自分はきっと耐えられないだろう。
「そもそも、あのローブの人達は何者なの?」
「あいつらは『深淵の民』って呼ばれている連中だよ。いわゆる悪魔崇拝者だと思ってくれればいいかな」
「悪魔?」
真紀は戸惑いつつ、エリィという少女のことを思い出す。
あの子と一緒に恐ろしい化け物と戦った。戦いの後、そいつは彼女の持っていた杖に吸い込まれてしまったのだ。
エリィはあれを守護者だと呼んでいたが、他の者からは悪魔と言われているらしい。
「この世界では女神を信仰していない者は異端者として扱われる。なのに彼らは女神の加護を受けることを拒否して、悪魔の力を得ようとしている連中なんだ」
「どうしてそんなことを?」
「理由なんて知らないよ。女神様を信じていれば救われるってのに、バカみたいだね」
クレアは軽蔑したような表情を浮かべ、やれやれと肩をすくめてみせる。
「あいつらは魔女とは敵対関係だけど、女神様のことは一方的に嫌ってるからこっちの味方ってわけでもないんだよねぇ」
クレアは困ったように呟く。
正直言ってよくわからない存在であるが、彼らのことは警戒しなければならない。蓮也は今あいつらに捕まっているのだ。なんとか助けたいところだが、どうすればいいだろうか。
(そもそもあの人達は、なぜ蓮也のことを……?)
いくら考えても答えは出なかった。
それに、今は他にも気にしなければならないことがある。
恵子が魔女を倒すための旅に出ようとしている。
それが聖女の使命だから仕方がないかもしれない。でも、真紀としては恵子を危険な目に遭わせたくない。できることなら、彼女を行かせたくはないのだ。
「クレア……本当に、恵子が魔女を倒さなければならないの?」
「聖女は使命を全うする義務があるからね」
「それはそうだと思うけど……私は恵子に傷付いてほしくないよ」
「そのために、女神様はお供としてあんたらを呼び出したんだろ。ケイコに怪我をさせたくないなら頑張って守るしかないんじゃん?」
真紀の訴えにクレアはあっさりと答えてしまう。
確かにその通りなのだが、やはり真紀は不安でしょうがなかった。どうにかならないかと考えていると、そこへ莉愛が現れた。
「あんた達こんなとこにいたの?」
彼女は呆れたような顔をしてこちらへ歩いてくる。
「これ、藤木さんのためのパーティでしょ? 主役がいなくなったら意味がないじゃない」
「ご……ごめんなさい。つい話し込んでしまって」
「あっそ。別にどうだっていいんだけど」
ぷいっと莉愛は顔をそむけてしまう。
「相変わらずツンツンした態度を取るなぁ」
ふわふわと自分の周囲を飛び回るクレアに、莉愛は驚きに目を丸くした。
「あんた、あの時の妖精じゃない! なんでここにいんのよ?」
「やっほーリア! 急にいなくなっちゃったから心配しただろ?」
「なに厚かましいこと言ってんのよ」
そう言いつつ、彼女はどこか安堵しているような表情だ。
「あたしは女神様から頼まれたからね。聖女様のガイドをするために来たんだ」
「そういや、あんた女神様の使いなんだってね。じゃあ私の代わりに文句言っておいてよ、よくこんな危なっかしい世界に呼び出してくれたなってさ」
「えぇー、そんなこと言えないよ」
クレアは面倒くさそうに頬を膨らませると、ふわふわと辺りを飛びまわった。
「莉愛ーなにやってんだよ」
と言いながら、今度は隆弘がこちらに歩いてくる。
クレアは興味深そうな顔をすると彼の方へ飛んで行った。
「なにこいつ? あんたらの友達?」
突然現れた小さな女の子に、彼は隆弘は驚く。
「なんだこの羽虫!」
「おいコラ誰が羽虫だ」
クレアは小さな足で彼の頭を蹴りつけ、痛い痛いと隆弘は頭を抱える。
「ほらクレア、やめてあげなよ」
真紀が慌てて止めると、クレアはつまらなそうな顔をしながら引き下がった。
「誰だよお前」
「クレアっていうんだ。よろしくね」
隆弘は得体のしれない存在を警戒しているらしく、クレアを睨みつけていた。
「ほら、あんたも自己紹介して」
クレアは彼に促すが、隆弘は怪しげなものを見る目つきでクレアを見つめるだけだ。
「彼はクラスメイトの香坂隆弘くん。仲良くしてね」
恵子が代わりに紹介すると、クレアは「ふぅん」と呟いて彼を見上げる。
「っていうかーあんたこっちの言葉がわかるんだね?」
「あ? どういうことだよ」
隆弘が怪訝顔をする。
「いや、気にしないでいいよ」
「意味わかんねー」
そう言いつつ、彼はそれ以上面倒なことを考える気はないらしい。
「よろしくねータカヒロ。あたしは女神様の使いとして、明日からあんた達の旅に同行するからね」
「旅って、それマジで行かなきゃならねーの? 俺行きたくねぇんだけど」
「ダメに決まってんだろ。聖女を守るのがあんたの仕事だからちゃんと言う通りにしろってば」
「うぜぇ」
隆弘がぼそりと呟く。
すると恵子が申し訳なさそうに口を開いた。
「そうだよね……香坂くんも、怖いよね。でも、私は聖女として魔女を倒す使命があるんだ。だから、一緒に来てくれたら嬉しいな」
恵子の言葉に、隆弘は動揺したようだ。
「つーか藤木は嫌じゃないのかよ。なんで、わざわざ危ない目に遭おうとしてんの?」
「魔女を倒して、元の世界に帰るためだもの。仕方がないよ」
もっともな返答に隆弘は何も言えずに黙り込む。
そして、しばらく沈黙が続いた後にようやく言葉を発した。
「藤木がそこまで言うなら、ついてくしかねぇだろ」
「ありがとう、香坂くん」
嬉しそうに微笑む恵子を見て、隆弘は照れ臭くなったのか顔を背けた。
「莉愛もそれでいいよな?」
「なーに? 私に許可を取ってくれる気があるわけ? いがーい」
莉愛は冷めた口調で言う。
「おい莉愛……なんだよその言い方」
「べつにぃ。なんでもないけどぉ」
莉愛はそっぽを向くとそのままどこかへ行ってしまった。隆弘は慌てて彼女の後を追いかけようとするが、その途中でこちらを振り向く。
「つーか……みんな藤木のこと待ってるし、早く来いよ」
「うん」
恵子は頷くと、真紀の方へ視線を向けた。
「私は向こうへ戻るけど、真紀はどうする?」
「もう少しここにいるよ」
真紀が答えると、恵子は隆弘の後に続いて歩き出す。
彼女が去っていくのを見届けてから真紀は溜息を吐いた。
「なんなのさ一体」
クレアは首を傾げる。
「なんで恵子が聖女として選ばれちゃったんだろう。あの子の肩に重荷を背負わせるなんてやっぱり納得できない」
「あんたは優しいねぇ。でもあたしに言われてもどうにもできないし。あの子の旅に付き合うつもりなら今はうじうじ考えていないで、しっかり覚悟を決めておかないと」
言葉は厳しいけれど、クレアは優しく笑った。
真紀は小さく頷いて夜風に吹かれながら、空に浮かぶ月を見上げた。
「それよりさマキ、ちょっといいかな?」
「どうしたの?」
「女神様がこの世界へ呼び出したのは、聖女様と、そのお供三人だって話はしたよね」
「確かに、そう言っていたよね」
「聖女ってのはケイコのことだよ。お供ってのはマキと、リア。最後の一人はレンヤじゃなく……タカヒロなんだと思う」
真紀は血の気が引いていくのを感じた。
「レンヤがこっちの世界の言葉をわからないって言っていた時点で、まさかって思ったんだけど……あいつは、女神様に選ばれた者じゃなかったんだよ」
「それ、どういうこと? それじゃあ蓮也はなぜこの世界に来てしまったの?」
真紀が震え声で聞く。
そしてクレアの答えを聞くよりも先に、真紀はその答えに辿り着いていた。
「……あの時、私達と一緒にいたせいで?」
真紀はショックを受ける。
この世界へ召喚された時、蓮也も巻き込まれてしまったのだ。
今頃彼はどうしているのだろう。彼らに捕まって、ひどい目に遭わされているのかもしれない。言葉も通じない状況に置かれ、今頃どんな手ひどい目に遭わされていることか。
(でも……でも、蓮也は普通の人間なんだよ。なのにどうして、あの人達は蓮也を捕まえたの?)
疑問は尽きないが、とにかく蓮也の安否を確認しなければならない。
怒りや悲しみや恐怖や不安や後悔や絶望。様々な感情がごちゃ混ぜになって押し寄せてくる。悔しさと焦燥感で真紀の拳が震えてしまう。
「ど……どうすればいいの? なんとか蓮也を助けられない?」
「あいつらは魔女と敵対している存在なんだ。女神様のことも、邪魔に思っている。だからケイコが旅を続けている内に奴らと接触する機会はあるはずだ」
「……」
「その時にあいつらをとっちめてさ、レンヤのこと聞き出そうよ。それで、取り返そう」
クレアは元気づけるように言ってくる。
それはひどく希望の薄い話のように思えた。
それでも真紀には、その今にも切れてしまいそうな糸のような希望に縋る他なかったのだ。