57 彼女のぬくもり
真紀は咄嗟に空中に魔法を放った。この合図を仲間達が見てくれることを期待して。
「それにしても、なんなのよこいつ?」
真紀は眉をひそめて、自分の中から出てきた魔物を睨む。
「もしかしたらこの森に出るとか言う魔物なんじゃないの?」
莉愛がそう答えながら、杖を構えて相手との間合いを取る。
「なんでそれが私の中から?」
「知らないわよそんなの! とにかく、さっさとこいつを倒すわよ」
言い合っている間にも、魔物はじりじりと距離を詰めてきていた。莉愛はふうっと深く息を吐き出すと、杖を前に突き出す。
「えい!」
杖の先から魔力の弾丸が飛び出した。
けれど小さな体の魔物はそれをやすやすとかわしてしまい、逆に莉愛に向けて魔法を放った。
「樋口さん!」
真紀は慌てて莉愛の前に飛び出し、魔法をぶつけてそれを粉砕した。
「ありがとう」
莉愛は真紀に礼を言って再び杖を構え直す。
真紀も杖を振って攻撃をするが、やはり魔物は素早い動きでそれらを避けてしまう。
動きが速いから攻撃を当てづらい。それに真紀はまだ、先程まで見ていた幻のことで動揺していた。
「瀬川さん! 危ない!」
莉愛の声にハッとする。魔物がすぐ近くまで迫ってきていた。真紀が慌ててそれをかわすと、どうにか体勢を整える。
(こいつが、あの幻を見せていた。こいつが、明美を……!)
こんな得体の知れない存在に弄ばれたという事実が、真紀の心をさらにかき乱す。
「明美……ッ!」
無意識の内にその名前を呼びながら、真紀は杖を振るっていた。今までより強い魔力の弾が魔物に向かって放たれる。
その魔法は見事に命中し、魔物の体をぶるんと震わせた。
「やった、効いているわ! こいつ思ったより脆そうよ!」
莉愛が喜びの声を発した。真紀はぐっと杖を握り直し、再び魔法の構えを取る。
「樋口さん、このまま押し切ろう!」
「おっけー!」
二人はそれぞれ杖を魔物に向け、魔力を放出した。
だが魔物はカッと体を発光させる。その光に目が眩んで、真紀は咄嗟に目を閉じてしまう。
「わっ」
突然、誰かに後ろから抱きつかれる。思わず振り向くと、そこには明美の姿があった。
「あんたはあたしのことだけ考えてればいいんだから」
甘えるような仕草で、明美は真紀に頬をすり寄せる。真紀の心臓が大きく跳ねた。
(やめてよ……明美はこんなこと、しないんだから)
そうは思うのだが、彼女のぬくもりを感じるとどうしても動揺してしまう。
明美はゆっくりと顔を近づけてきた。そしてそのまま唇を合わせようとしてくる。
「瀬川さん!」
莉愛の鋭い声が真紀の名を呼んだ。
「瀬川さん、しっかりしてよ!」
莉愛の手が真紀の手をぎゅっと掴んだ。幻ではない、本物のぬくもりに真紀はハッとする。
「今あなたの目の前にいるのは誰!? 明美って子? 違うでしょ!」
莉愛が叫ぶ。真紀は呆然としながらも、彼女の顔を見つめた。
「樋口、さん」
「うだうだやってないで一気に決めるわよ!」
「う……うん!」
真紀はぐっと歯を食いしばり、杖を握った手に力を込める。
その時、二人とも無意識の内に互いの手を繋いでいた。
「いっけー!」
二人は同時に魔力を放った。杖の先端から激しい光が放射する。光は勢いよく魔物に直撃し、その体を大きく揺らした。
「や、やったわ!」
莉愛が興奮した声で叫ぶ。
魔物は苦しそうに震えながら、地面に崩れ落ちていった。二人は手を取り合い、喜びの笑みをこぼした。
「樋口さん、ありがとう」
心からの感謝を込めて真紀は言った。
彼女の手から伝わる体温が心地いい。それは莉愛の方も同じなのか、普段より柔らかい表情を浮かべていた。
「別に……私はただ、あんたの弟に頼まれてここに残っていただけ」
莉愛は澄ました様子で言ったが、どこか照れくさそうな様子にも見えた。
「でも助けてくれた。樋口さんがいなかったら、今頃どうなっていたことか」
「ああもう、わかったわよ。そこまで言うならそのお礼も素直に受け止めておいてあげるわ」
莉愛はぷいっと顔を背けた。普段ツンツンした言動が目立つ彼女だが、素直じゃないだけで本当は優しい子なのだろう。
少なくとも、真紀に対しては心を開いてくれているように感じる。
それが何だか嬉しかった。
「さて、とりあえずみんなと合流しましょう」
莉愛の言葉に、真紀は大きく頷いた。
倒したはずの魔物が再び動き出したのは、その時だった。
「ッ!」
二人は咄嗟に防御の構えを取った。
自分達の攻撃では完全に倒しきれてはいなかったのだ。魔物はその小さな体をぐにゃりと歪ませながら、再び攻撃態勢へと入った。
(やばい……!)
真紀は冷や汗を流す。敵は素早い動きで一気に距離を詰めてきた。
「瀬川さん!」
莉愛が焦った様子で叫ぶ。
だがその時、魔物の体が突如として勢いよく吹き飛ばされた。どこからか放たれた風の魔法によって、あっさりと地面に叩き落とされてしまったのだ。
「大丈夫!?」
現れたのはアルベルトだった。彼は鋭い眼差しで魔物を見据えながらも、真紀と莉愛を気遣う様子を見せている。
「あ、ありがとう。助かったよ」
ホッとしながらも真紀が答えると、アルベルトは少しだけ表情を緩ませた。しかしすぐにまた険しい顔つきになると、彼は剣を構えて魔物に向き直る。
「これで……終わりだ!」
アルベルトの剣が魔物に向かって振り下ろされる。次の瞬間には、魔物の体は真っ二つに切り裂かれていた。
ジュッという、蒸発するような音と共に魔物の姿は完全にかき消えた。
「倒せた、の?」
真紀は呆然としながら呟く。
「うん。キミ達が合図をくれたおかげで、魔物を退治することができたよ」
アルベルトが剣を鞘に収めながら真紀達に向き直る。
「その合図に気付いたのは俺らなんだけどよー」
不満気な様子でやって来たのは隆弘だ。その後ろから蓮也とエリィも歩いて来る。
「姉さん無事ー?」
蓮也が真紀に向かって手を振っている。
「もう倒してしまったの? さすが英雄だね」
エリィが感心したように言うと、隆弘が心底つまらなそうな顔をした。
「なんだよ、結局一人でカッコつけて一人で解決しやがって。あー、つまんねぇ」
「はいはい拗ねないの先輩」
蓮也は適当に隆弘をなだめた。
「ちなみに僕らの方はさっきまでもっとでかい魔物と戦っていたわけ。まあ、さっきアルベルトくんが倒した奴がそいつの核だったみたいだけど」
蓮也の言葉に、アルベルトがこくりと頷いた。
「この森に満ちていた魔物の気配は、もうほとんど消えている。キミ達のおかげだよ」
確かに、森に漂っていた重苦しい空気はすっかり消え去っており、木々の隙間から差し込む光も明るくなっているように思えた。
「それにしても、まさかこんなところに魔物の核がいたなんてねぇ」
蓮也が不思議そうに言う。
「さっきのあいつは、私の中から出てきたの」
少し不安げな表情で真紀が答えると、アルベルトと蓮也はどこか納得がいったような表情を見せた。
「じゃあ姉さんだけなかなか幻の中から抜け出せなかったのは、そのせいか」
「おそらくそうだろうね。本人も気付かない内に、魔物が入り込んでいた為だろう」
アルベルトの言葉に真紀はぞくりとするものを感じた。
もしも、仲間達がそばにいなかったら。もし真紀が一人でこの森の中に足を踏み入れて、知らず知らずのうちに魔物の核がとりついてしまっていたら。
(今頃、あいつの餌食になっていたかも)
恐ろしい想像に真紀は身震いする。
「みんな……本当に、ありがとう」
真紀が感謝の気持ちを伝えると、彼らはそれぞれ柔らかく微笑んだり、照れ隠しなのか視線をそらしたりした。
「ここですることが済んだならさっさと帰ろうぜ」
隆弘はみんなを急かすように言う。莉愛がどこか冷ややかな目を彼に向ける。
「ええ、そうね。今頃藤木さんも寂しがっているわよ」
「なっ」
莉愛の指摘に、隆弘は顔を真っ赤にする。
「お、俺はただ……その」
「はいはい。じゃあ、早く帰ろうか」
蓮也はからかうような笑いを浮かべながら隆弘の背中をぽんと叩いた。隆弘はまだぶつくさ言っていたが、結局はそのまま森の出口へ向かって歩き出す。
「それにしても、さっきの魔物は一体何だったのかな?」
真紀がアルベルトに問いかける。アルベルトは考え込むような仕草をしてから、ゆっくりと口を開いた。
「今世の中を騒がせている魔物は、どれも魔女が生み出したものだ」
魔女、という言葉が出てきて真紀は密かにどきりとする。けれどアルベルトはこちらの様子には気付かずに話を続けた。
「だけど、さっきの魔物は彼女が生み出したものではなさそうだね」
「え、そうなの?」
「あ、やっぱり?」
真紀が驚きで目を瞬いている横で、蓮也が納得いったという風に相槌を打った。
「僕達が今まで目にしてきた魔物って、もっとこう……生き物っぽいというか。あんな、ぶよぶよした物質っぽい奴なんていなかったから」
蓮也の言葉にアルベルトはこくりと頷いた。
「あいつは魔女によって作られたものでもなければ、動物が魔力にあてられて変化したものでもなさそうだ。自然界のエネルギーだとか淀んだ魔力だとか、そういう目に見えないものが具現化した存在。そんなところだろう」
アルベルトの説明を聞いても、真紀にはあまりピンと来なかった。
「まあ、要するに。今回の魔物は魔女が意図的に作り出したものじゃないってこと。でもあれが生まれた経緯には、魔女が関係あるかもだけど」
蓮也が付け足す。
「いちいち意味深な言い方するじゃねーよ」
隆弘が不機嫌そうに言い返す。
「ここのところ、魔女の影響で自然界に歪みが生じているのよ。そのせいで、今まで見たこともないような魔物が生み出されているのだと思う」
今度はエリィが口を開いた。
最近この世界はおかしくなっているという。別世界からやって来た真紀達にはよくわからないことだが、元々こちらの住民であるエリィには何か思うところがあるらしい。
「あいつはたぶんさ……幻を見せて人の心を刺激して、その感情をエネルギーとして吸収していたんだと思う。嫌な幻も幸せな幻も、人の心を惑わせるものだから」
蓮也はそう言って、どこか遠くを見つめるような目をした。
「お前の推理はあてになるのかよ?」
「先輩ったら疑ってるの? 俺こう見えても結構賢いんだよ?」
「どうだかな」
隆弘は蓮也を軽くあしらった。
「とりあえず、もう危険はないんだろ。ならこれ以上あれこれ考えなくてもいいじゃねーか」
「それもそうだね。早く町に帰って、恵子ちゃんを安心させてあげよう」
「だ……だから、あいつのことなんか別に」
「でもさっき先輩は恵子ちゃんの幻を」
「お、おい! やめろ!」
隆弘が焦った様子で蓮也の言葉を遮った。そんな二人の様子を、莉愛はジト目になって眺めている。
「どうにか魔物の脅威はさったみたいだけど」
真紀はそっと息を吐く。
「なぜよりによって、あの魔物は私にとりついて来たんだろう」
「姉さんは、それだけ複雑なものを感じていたのかも。姉さんの感情は、あいつにとって美味しい物だったのかもね」
「そんな」
確かに蓮也が言うように、自分の心は不安定な状態なのかもしれない。でもそれが魔物にとってのご馳走だったなんて。
明美の幻を見て、ひどく心が揺れ動いてしまった。
あんな幻を見せてきた魔物に怒りを覚える。だけど、あの幻の中で明美に会えたことが嬉しかったのも事実だ。
悔しさなのか情けなさなのか、よくわからない感情が込み上げてくる。そんな真紀の気持ちを察したのか、莉愛がそっと肩に手を置いてきた。
「もう、なに辛気臭い顔してんの。さっさと帰るわよ」
莉愛はそのまま真紀の手を掴むと、ずんずんと森の出口に向かって歩き始める。
彼女の行為に戸惑ったものの、そのぬくもりが優しくて心地よくて、少しだけ気持ちが落ち着くような気がした。
「……ありがとう」
小さく言うと、莉愛はちらりとこちらを振り返った後、すぐにまた前を向いてしまった。
彼女の頬が微かに赤くなっているような気がしたが、気のせいかもしれない。
この世界へ来る前までは、莉愛のことはあまり好きではなかった。だけど今は、この旅に彼女がいてくれることが心強いと思う。
真紀は軽く莉愛の手を握り返しながら、もう少しだけ彼女の体温を感じていたいと思うのであった。




