56 幻からの目覚め
真紀は幸せな世界にいた。
隣には明美がいて、毎日笑い合いながら楽しい日々を過ごしている。
真紀たちは小学校を卒業して、中学に上がって、高校に入った。
受験は大変だったけれど、二人で励ましあってなんとか乗り越えることができた。二人一緒の高校生活は本当に楽しくて充実している。
一年後には蓮也も同じ高校に入学して、たまに明美との仲をからかわれることもあった。だけど基本的に彼は真紀の恋に理解を示してくれており、よく応援もしてくれていた。
「はぁー今日の授業も疲れたぁー!」
明美はぐっと伸びをしながら叫ぶ。
「そーだ真紀、一緒にケーキ食べに行こうよ! 駅前に新しいお店ができたんだって!」
「へぇ、いいね。行こっか」
真紀と明美は二人で肩を並べて歩き出す。
こんな風に彼女と過ごす時間が何よりも幸せだ。どうしてだかわからないが、明美と二人で過ごす未来は、手の届かない夢のようなものである気がしていたのだ。
けれど、今こうして彼女は真紀の隣にいる。それが本当に不思議でならなかった。
「お、どうしたどうした? 考え事?」
明美はこちらを覗き込むようにして尋ねてくる。
彼女の瞳が真紀を捉えて離さない。その視線に耐えきれなくなって、真紀は顔を逸らしてしまう。
顔が熱いのはきっと夕日のせいだけではないはずだ。
「なんでもないよ」
「ふふーん、そうは見えないけどなぁ?」
明美はニヤリと笑みを浮かべると、真紀の腕をぎゅっと引き寄せた。
「ちょ……ちょっと」
「照れるなって! あたしと真紀の仲じゃん!」
明美は楽しげに笑いながら、さらに強く腕を握りしめる。その力強さに、真紀は胸がきゅんとするのを自覚した。
彼女は背が高くて、かっこよくて、すごく頼りになる。
まるで王子様のようだと、ずっと前から思っていた。
「もう……明美ったら」
真紀は観念したように呟いて、おとなしく明美に身を任せる。
(ああ、幸せだなぁ)
うっとりと目を細めながら、二人寄り添って歩いていく。
ずっとこうしていたいと思うほどに心地よい時間だった。
――瀬川さん!
どこからか、自分を呼ぶ声が聞こえた気がした。
「誰?」
「あ? どうしたの真紀?」
明美が首を傾げる。
「今、誰かに呼ばれたような気がしたんだけど」
「んー? あたしは聞こえなかったけど」
明美は不思議そうに言った。
きっと空耳だったのだろうと思い直し、真紀は再び前を向いた。
「――はぁ、はぁ。んだよあいつの魔法、しつこすぎだろ!」
隆弘は息を荒げながらぼやいていた。
巨大なスライムは、まるでこちらを嘲笑うかのようにいくつもの魔法攻撃を仕掛けてくる。
「あれを避けるのはそんなに難しくないけどさあ」
蓮也がげんなりしながら呟く。
「こちらの攻撃が効きづらいのは面倒ね」
エリィは汗をぬぐいながら呟いた。
宙に浮かぶスライムは、いくら攻撃しても一向にダメージを受けている様子はなかった。果たして本当に倒せるのか、むしろこちらが消耗しているだけなのではないかという気すらしてくる。
スライムは依然として攻撃を繰り返しており、四人はそれをかわしながら隙を窺うことしかできないでいた。
何よりも厄介なのは、相手はこちらに幻を見せることができるのだ。
幸い、蓮也とアルベルトはそれに対する抵抗力がある。だが隆弘とエリィはそうもいかないのだ。
彼らが幻を食らう度に蓮也が引っ叩いて現実へと連れ戻してはいるのだが、このままではらちが明かなくて参ってしまう。
「みんな、大丈夫!?」
アルベルトが心配して呼びかける。
「大丈夫なわけねーだろ!」
隆弘が怒鳴り返すと、蓮也が苦笑した。
「先輩、泣き言は後で聞いてあげるから今は黙っててね」
「本当にお前は嫌な奴だな!」
隆弘はむかむかしながらも武器を構え直してスライムと対峙する。
「おそらくだが、こいつの核がどこかにあるはずなんだ。そこを破壊すれば倒せるはずだよ」
「核? 核ってなに?」
アルベルトの言葉に、蓮也が首を傾げる。
「簡単に言うと、このモンスターの心臓みたいな物だ」
彼はそう言うが、しかしどれだけ目を凝らしてみようとも、スライムの体にそれらしい者は見つからなかった。
単純に視認できないだけなのか、それとも別の場所にあるのか、それすらもわからない状況だ。
しかしわからないながらも、このスライムをこのまま放置するわけにはいかないのだ。
「僕的には、とりあえずこいつをボコボコにしまくって弱らせてから何とかうまいことやって核を見つけられないかって思ってるんだけど」
「あなたの言う『何とかうまいこと』は具体的に何を指しているの?」
やや呆れ顔でエリィが問い掛ける。
「こいつが細かいプランまで考えているわけないだろ」
隆弘が苛立った様子で言った。
「それもそうね」
エリィは納得すると、改めて杖を構え直す。
「でも、やるしかないわ」
彼女は杖を振りかざすと、黒い狼を召喚してみせた。
狼は唸り声を上げながらスライムと間合いを測る。とにかく今はこいつを少しでも弱らせて核を探すための隙を作ろう。
一同は覚悟を決めて、スライムへ向かって行くのであった――。
「ねー真紀、もうすぐ夏休みだよ!」
明美は真紀の机に身を乗り出すようにして話し掛けてきた。
もうすぐ夏休みを控えた七月半ば。教室内は浮ついた空気に包まれていた。クラスメイト達はどこへ行くのかとか、何をするだとかの話で盛り上がっている。
「せっかくだから少し遠出しようよ。一緒に海とか行ってさー」
目をキラキラさせて誘ってくる明美に、真紀も自然と笑顔になる。
「いいね、楽しそう」
「だろー? 新しい水着買って、二人で夏を満喫しよう!」
明美は眩しいくらいの笑顔を浮かべた。
小学生の頃に明美と出会ってから、真紀はずっと楽しい時間を過ごしていた。こうして彼女の隣で笑っていると、本当に幸せな気持ちになれる。
明美への恋心は高校二年生になった今でも変わらない。むしろどんどん想いが強くなっている気がする。
(夢みたい、明美とこんな風に過ごせるなんて)
ぼんやりとそんなことを考えていると、いきなり声を掛けられた。
「ちょっと、瀬川さん!」
真紀は驚いて顔を上げる。
クラスメイトの女子だった。明るい色のショートヘアがよく似合う、華やかな容姿をした細身の女子だ。
真紀が首を傾げると、彼女は苛立ったように顔をしかめる。
「もう、いつまでこんな所でのんびりしているつもり?」
「ご、ごめん」
真紀は咄嗟に謝ってしまう。
一体、誰だろうか。彼女はきつい眼差しをして真紀を睨みつけている。
「ほら、早く行くわよ」
そう言って彼女は真紀の腕を引っ張ると、無理やり立ち上がらせてきた。
「ちょっと、真紀に何すんだよ!」
すかさず明美が真紀と女の子の間に割って入ってくる。
明美は彼女を睨みつけたが、しかし相手は動じることなく明美を睨み返す。
「邪魔しないで」
女の子は冷たく言い放つと、真紀の手を引っ張った。明美は負けじと真紀の反対側の手を握る。
「真紀に何の用があるわけ?」
「関係ないでしょ、あなたには」
二人はバチバチと火花を散らせながら睨み合っていた。
真紀がどうしていいかわからずにおろおろとしている間にも、二人はぐいぐいと真紀の手を引っぱっている。
「ちょ、ちょっとやめて! 痛い!」
真紀が悲鳴を上げると、女の子はハッとした様子で手を離した。けれどその隙に、明美は真紀を連れて走り去ってしまう。
「あ、ちょっと!」
女の子の呼び止める声も聞かずに、明美は真紀を連れて教室を飛び出した。
そのまま廊下を走り、階段を駆け下りていく。そして誰もいない場所にたどり着いたところでようやく立ち止まった。
「ったく、なんだよあの女!」
明美は忌々しそうに吐き捨てる。
「あれ、誰なんだろう?」
真紀が首を傾げると、明美ははーっと深いため息をついた。
「あんな奴のことなんてどうだっていいだろー?」
「でも」
真紀は先程の少女を思い出す。
彼女は真紀のことを知っている様子だった。同じクラスの子、だった気がする。だけど、いくら考えても彼女に関する記憶は何も思い出せない。
「真紀はあたしのことだけ考えてればいいんだよ」
明美はそう言うと、ぎゅっと真紀を抱きしめた。いきなりのことで驚いたものの、真紀もそっと明美を抱きしめ返す。
「ありがとう、明美」
「えへへー」
嬉しそうに笑う明美を見て、真紀も自然と笑顔になる。彼女の体温が心地良くて、ずっとこうしていたいと思った。
けれど、真紀の中に強烈な違和感が生じる。
(明美が、こんな風に私を抱きしめてくれるなんて)
明美は直接的なスキンシップを求めるような子ではなかったはずだ。せいぜい、手を繋いだりお喋りをしたりと言った程度だったはず。
それなのに、どうして彼女は今こうして真紀を抱きしめているのだろうか。
確かに明美とこんな風に触れ合えたらいいなと夢見たことは、何度もあったけれど。
「ねえ、明美」
真紀はおずおずと口を開く。
明美は不思議そうに首を傾げた。そんな彼女をまっすぐ見据えて、真紀はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「あなた誰?」
明美の目が大きく見開かれる。
「あなたは本当に明美なの?」
「真紀ぃ、一体どうしたんだよ? なんで急にあたしを疑ってんのさ」
明美は拗ねたよう口を尖らせる。
「ごめん、でもさっきから変な感じがするっていうか」
真紀は自分の気持ちを率直に伝える。
それにさっきの少女のことも気になった。なぜ彼女は自分に声を掛けてきたのだろう。なぜあんなに真剣な目で自分を見つめていたのだろう。
「こーら! あたしが目の前にいるのにぼんやりしない!」
真紀が考え込んでいると、明美は真紀の手を取った。
「真紀はあたしのことだけ見てればいいの。あたし以外のことなんか考えないで」
明美が真紀の頬に手を当てる。
至近距離で見つめられ、真紀は思わずドキッとした。彼女の瞳に吸い込まれそうになり、頭がくらくらする。
「あたしはずっと真紀のことだけを想ってるんだから」
違う。
真紀は本能的にそう思った。
「……あなたの一番は『ヒカリ』だったくせに」
「ヒカリぃ? なにそれ。そんなのどうだっていいでしょ」
明美は呆れたような口調で言う。
「ねえ、そんなことよりもさぁ」
明美の顔が真紀に近づいてくる。彼女の唇が真紀の唇に触れそうになる。
「やめて!」
思わず叫ぶと、明美はぴたりと動きを止めた。
「あなたは明美じゃない!」
その時真紀の頭に、いくつもの記憶の断片が浮かび上がってくる。
そうだ、明美の中にはいつもヒカリという双子の片割れのことでいっぱいだったのだ。彼女の世界はヒカリを中心に回っていると言っても、過言ではなかった。
そして五年前――明美は真紀の目の前から突然いなくなってしまったのだ。
彼女は異世界で魔女となり、人々を苦しめる存在へと変わってしまった。
「なんで、忘れてたんだろう」
真紀の中に芽生えた違和感の正体が、ようやくわかった。目の前の明美は、明美ではない。
初恋の少女の姿を模した何者かは、冷たい瞳をこちらに向けている。
「せっかく楽しい時間を与えてやったのに」
明美の姿をした何者かが吐き捨てるように言う。彼女は苛立ったように舌打ちをすると、真紀の手を振りほどくようにして距離を取った。
「まあ、いいや。どうせここからは出られないんだ」
そう言って彼女は不敵に笑う。
真紀の中に恐怖心が芽生えてきた。まずいと思いつつ、足がすくんで動けない。明美の姿をした何者かはげらげらと笑い声を上げた。
「瀬川さん!」
その時、誰かが真紀の腕を引いた。
さっきの女の子だ。彼女は真剣な目で真紀を見つめている。
「あなたは」
真紀の記憶の断片がまた一つ蘇った。
そうだ、自分は彼女をよく知っている。気が強くて、高飛車で、少し苦手だったけれど、本当は優しい心も持っている。
「――樋口さん?」
その瞬間、世界が大きく揺れた。
まるでガラスが割れるように風景が砕け散り、破片がばらばらと崩れ落ちる。
「ッ!」
気が付くと、そこは森の中だった。
真紀は目を瞬かせて周囲を見回す。さっきまで学校の中にいたはずなのに、一体どういうことだろう。
「瀬川さん!」
真紀の肩に手を置いて、樋口莉愛が必死に呼び掛けてきていた。
「大丈夫? どこか苦しいところはない?」
「う、うん。大丈夫」
真紀は戸惑いつつも頷いた。莉愛は安堵するように息をつくと、手を離して立ち上がる。
「まったく! あなた一人だけずーっとぼんやりしているから、どうしたものかと思ってたのよ」
「ごめん」
真紀が素直に謝ると、莉愛はフンと鼻を鳴らした。
「まあいいわ。みんなが向こうで敵と戦っているから、私達もさっさと行くわよ」
「敵?」
「そうよ。私達、魔物の力で幻を見せられてたみたい」
幻と聞いて、真紀はようやく状況を理解する。
明美と楽しい時間を過ごして、まるで真紀の願望を映し出したかのように感じていたあの世界の出来事。
あれも全て魔物の力によるものだったというわけだ。
「私が正気に戻るまで、そばにいてくれたの?」
「仕方ないでしょ。放っておくわけにはいかないし、仕方なくよ」
莉愛は不満そうに口を尖らせる。
「ありがとう、樋口さん」
「別にあなたのためじゃないから」
真紀のお礼に、莉愛はそっぽを向いてしまう。意外と可愛らしい一面もあるものだ。
「……う!」
真紀は呻き声を上げてその場に崩れ落ちた。
「瀬川さん?」
莉愛が心配そうに真紀の顔を覗き込む。次の瞬間、彼女の体から何かが飛び出して来た。
「え、これって?」
目を丸くしながら莉愛は言い、真紀も自分の中から出てきた存在を見て息を呑む。
そいつは拳くらいの大きさをした、赤い炎の玉のような見た目をしていた。
「まさかこれ……魔物?」




