53 森の魔物
次の日になって、真紀はようやく気持ちを落ち着けることができた。
身支度を整え、朝食を食べ、さて次の目的地について相談をしようとした時だった。
「ちょっといいかな」
と言ってアルベルトがやって来た。
「少しまずいことが起きたんだ。キミ達にも手伝ってもらいたい」
藪から棒にそんなことを言われて、一行は戸惑った。
話を聞くところによると、最近この町の近くの森に正体不明の魔物が現れるようになったらしい。その魔物は森に入り込んだ人間を襲っており、すでに数人の被害者が出ているようだ。
「僕一人でも対応できるとは思うけれど、もし良かったら手を貸してくれないかな」
申し訳なさそうな表情を浮かべてアルベルトはお願いをしてくる。
もちろん、彼だって無理にとは言わないだろう。ただこのまま放置して魔物が町に来る可能性もあるし、そうなってしまってはさすがにこちらも寝覚めが悪い。
「そういうことなら力を貸すよー」
真っ先に蓮也が返事をしたが、隆弘は顔をしかめる。
「何勝手に決めてんだよおめーはよー」
「だってさ、どうせ姉さんや恵子ちゃんは断らないでしょ」
当然のように言い放つ蓮也に、真紀と恵子は顔を見合わせる。確かに、自分達にはアルベルトの頼みを断るつもりなどなかった。
「その……みんなが、よければだけど」
恵子がおずおずと申し出ると、莉愛があきれ顔で口を開く。
「手伝いたいなら勝手にすれば。私はそういうの嫌いだから、正直言って迷惑だけど」
実直な莉愛の物言いに、恵子はバツが悪そうな顔をした。
「そう、だよね。ごめんね、勝手に」
しゅんとしながら恵子は謝るが、莉愛はつんとそっぽを向いてしまう。なら彼女はついて来ないだろうかと思っていると、意外なことに莉愛が言葉を続けた。
「ほら、行くのならさっさと済ませるわよ」
そう言って、莉愛は外に出て行ってしまう。
「あ、待てよ莉愛!」
隆弘が慌てて後を追う。残された真紀達はポカンとしていたが、蓮也は楽しそうに笑いながら言う。
「樋口先輩は素直じゃないね。でもまあ協力的なことはありがたいし、行くのならさっさと行こうよ」
こうして一行はアルベルトに案内されて、町の近くの森へと足を運んだ。
その森の木々も不思議な輝きを放っており、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。
「で、その魔物ってのは森のどこにいるんだよ? まさか闇雲に探すわけじゃねーだろ?」
隆弘がアルベルトに問いかける。
「ある程度の目星は付けてあるよ。ただ、この人数でぞろぞろと行くと魔物を警戒させるだろうし、二手に分かれようと思う」
アルベルトの提案に、真紀達は顔を見合わせた。
手分けして捜査するのは構わないが、組み分けはどうするのだろうか。
「……藤木、お前顔色が悪いんじゃないか?」
不意に隆弘が恵子に声をかけた。
「そ、そう? ごめんね、心配かけて」
そう言って微笑む恵子だが、その表情にはどこか疲労の色が見える。もしかしたら無理をしているのかもしれない。
「この町に来てから、何かおかしいだろ」
隆弘は真剣な表情で恵子に言い、それからすぐにアルベルトを睨み付ける。
「お前、こいつに何かしただろ!」
「僕は何もしていないよ。でも確かに彼女の具合は心配だね」
アルベルトは隆弘の剣幕をさらりと受け流す。恵子は申し訳なさそうに俯いた。
「ごめんなさい……私、ちょっと疲れてて」
彼女はそう言って謝罪する。隆弘は動揺して恵子の顔を覗き込んだ。
「大丈夫かよ」
「うん。でも今日のところは、休みたいかも」
「ついて来られても足手まといになるだけよ。早く帰ったら?」
と、莉愛が冷たく言う。
「おい莉愛、そんな言い方は」
「ううん、いいの。その通りだから」
恵子は苦笑を浮かべて隆弘に言う。
「恵子、大丈夫? 一人で戻れる?」
「あはは……子供じゃないんだから、平気だよ。ありがとう、真紀」
真紀の問いかけに、恵子は力なく笑う。
彼女が屋敷へ戻ってしまったので、残った六人で森の捜索を始めることにした。この人数なら、ちょうど三人ずつで分かれることができそうだ。
話し合いの結果、真紀は蓮也と莉愛と組むことになった。隆弘がどうしても、アルベルトと組むことを譲らなかったのだ。
彼曰く、アルベルトは信用ならないから見張りたいとのことだった。そして彼は蓮也やエリィのことも気になっていたらしく、彼らのどちらと組むのか悩んでいる様子だった。
「なら私は、あなたに同行するよ」
かなり素っ気ない調子ながらもエリィがそう言ったので、隆弘は彼女をチームに加えて行動することになった。
エリィはいかにも「そんなに心配なら近くで見張っていろ」とでも言わんばかりの態度だった。内心、彼女は仲のいい真紀や蓮也と組みたかったのだと思う。けれど彼女は敢えて隆弘に同行することにしたのだ。
おそらくは、彼に対する反発心からだろう。よほど隆弘に疑われて気に食わなかったらしい。一方的に怪しまれてしまうせいで、エリィも彼に心を開けないのだろう。
「それじゃあ、僕達は森の西側を捜索しようと思う。キミ達は東側をお願いするよ。それと魔物を見つけてもすぐには倒さずに、まず僕を呼んでほしい」
「了解。何かあったら魔法で合図を出すから、その時はよろしくね」
アルベルトの言葉に頷いて、蓮也が返事をする。
こうして三人ずつに別れた真紀達は、二手に別れて森の中を散策する。真紀は蓮也と莉愛と一緒に、森の中を進んでいく。
「香坂くんと一緒じゃなくてよかったの?」
真紀が莉愛に問いかけると、彼女は鋭い眼差しをこちらに向けて答えた。
「別に。あんな奴の相手なんて面倒臭いわ」
そう言って莉愛はぷいと顔を背けてしまう。真紀は以前、彼女が隆弘と口論していたのを思い出した。
『隆弘は私の彼氏でしょ! どうして他の女に目移りするのよ!』
感情的になった莉愛の叫び声が、頭の中でこだまする。
あの後二人がどんなやり取りをしたのかはわからない。別れてしまったのか、それともまだ付き合っているのか。
真紀は二人に確認するつもりもないし、聞いてはいけない気がしていた。
ただ二人の関係性はあまり変わってはいなさそうだし、心配するほどのことではないのかもしれないが。
「……あ、れ?」
蓮也が間の抜けた声を出して足を止めた。真紀と莉愛は彼を振り返る。
「どうかした?」
「いや……この声……」
彼は困惑の表情を浮かべて、周囲を見回している。
「蓮也どうしたの? 声って……何も、聞こえないよ?」
真紀は困惑した。蓮也の言う声は、真紀には聞こえていない。彼は不安そうに辺りを見回している。
「いや……確かに聞こえたんだ。あの人の、声が」
そう言って、蓮也は頭を抱え込む。
心配になって真紀は弟の顔を覗き込むが、彼は首を横に振るだけだ。すると不意に莉愛も頭を押さえて顔をしかめた。
「なんなの、これ……気持ち悪い」
「樋口さん? どうしたの?」
真紀が声をかけると、彼女は頭を唸るような声を上げてその場に膝をついてしまった。
「ねぇ! どうしたの!?」
突然苦しみだす二人に、真紀は動揺して呼びかける。蓮也は顔色を青くし、莉愛も苦痛に表情を歪ませている。
一体何があったのだろう。どうして二人が苦しんでいるのか、真紀にはわからない。
「違う、違う……ないないない、あり得ない!」
蓮也はぶつぶつと何事かを呟き、怯えたような表情で首を横に振る。
「あぁ……もう、ダメ」
莉愛もがっくりとうなだれて、その場にへたり込んでしまう。
「樋口さん! 樋口さん!」
真紀は必死になって呼びかけるが、蓮也も莉愛も返事をしてくれない。二人はぴくりとも動かないのだ。不安と恐怖で胸が押し潰されそうになる。
どれだけ彼らの体を揺すろうとも、二人からの反応はない。
「とりあえず、アルベルト達に助けを求めなきゃ」
真紀は杖を握ると、空に向けて魔法を打ち上げようとする。
『……真紀』
不意に、誰かが自分の名前を呼んだような気がした。
周りを見るが誰もいない。気のせいだろうか? いや、確かに誰かが自分の名前を呼んだのだ。その声はどこかで聞いたことのあるような……とても懐かしい声のように感じた。
「瀬川、さん」
莉愛が顔を上げて、不安そうにこちらを見る。彼女は縋るような視線で真紀を見つめていた。真紀は莉愛を安心させようと彼女の背中をさすろうとする。
『そんな奴らより、あたしの方が大事でしょ』
今度ははっきりと聞こえた。
まさか、この声は――そう思った次の瞬間には、蓮也の姿も莉愛の姿も目の前から消えていた。
「え……蓮也? 樋口さん?」
周囲を見回すが、そこには誰もいない。
「二人とも、どこ? 蓮也! 樋口さん! どこ!?」
叫んでも返事はない。真紀はパニックに陥りそうになりながらも、必死に頭を働かせて状況を把握しようと努める。
(まさか……魔物の仕業?)
そう思った時、不意に女の子の笑い声が聞こえてきた。
「ちょっとぉ、なにぼーっとしてるの?」
からかうような口調で声をかけてきたのは、ランドセルを背負った女の子だ。真紀は驚いて声のした方を振り返る。
「あなたは……!」
そこにいたのは、明美だった。彼女は無邪気な笑みを浮かべてこちらを見ている。
「早く帰ろうよ。あ、それともウチに寄っていく?」
真紀は困惑してしまう。目の前にいるのは間違いなく、黒江明美だったのだ。
わけがわからずにいるうちに、明美は真紀の手を取って歩き出す。
「ほらほら、早く帰ろうよ」
明美はにこにこしながら言う。
気が付けば真紀自身の姿も、小学生時代のものになっていた。ランドセルを背負っていて、記憶に残っている通学路を歩いている。
(これは、なに?)
真紀は呆然とする。明美に手を引かれて歩く感触がやけにリアルだ。手の感触も、風の匂いも、全てが本物のように思える。
「明美……本当に、あなたなの?」
「はぁ? どうしちゃったのさ、真紀」
明美はそう言って、可笑しそうに笑う。
「しっかりしなよ。ほら、早く帰ろうよ」
明美は真紀の手を引いて歩き続ける。
彼女の笑顔は無邪気で、とても可愛らしいものだった。真紀が恋をした、あの頃の明美そのものだ。真紀は懐かしさを覚えながら彼女の笑顔を見つめる。
それはとても幸せな時間だった。彼女と手を繋いで、ただ笑い合うだけで幸せだ。
そうだ。こんな日常が続けばいいのに、と真紀は心から思った。ずっとこのままでいたいと願うほど、満ち足りた気分だった。
(あれ?)
真紀はふと疑問に思う。
何か、大事なことを忘れてはいないだろうか。何か、とても重要なことを。だが、それを考えようとすると頭がぼんやりして何も考えられなくなってしまうのだ。
(ああ、ダメだ)
真紀は考えることを放棄することにした。
だって隣に明美がいて、彼女が笑っているのだからそれでいいじゃないか。他に何を考える必要がある? そう、これでいいのだ。きっとこれが正しい選択なのだ。
真紀は微笑むと、彼女の手をぎゅっと握り返した。
「――あぁ、明美」
真紀はうっとりとして呟いた。
そのすぐそばの草むらでは、蓮也がうずくまっている。彼は両手で頭を抱えたまま、苦悶の表情を浮かべて呻き声を上げていた。
「うあぁ……ああぁ……ごめんなさい、ごめんなさい。許して、許してください。僕が悪かったです。僕がバカだったんです」
蓮也は虚空に向かって謝罪の言葉を口にする。
そして莉愛もまた地面に横たわりながらぶつぶつと何事かを呟いている。彼女の顔からは生気が感じられず、目は虚ろになっている。
三人は虚ろな表情のまま、その場から動くことができなくなっていた。




