46 届かない思い
明美はとても活発な性格で、いつも楽しそうに笑っていた。その笑顔を見る度に真紀も元気を貰えていたものだ。
彼女のことが好きだった。
これが恋なのだと気付くのに、それほど時間はかからなかった。女の子に恋愛感情を抱いたことに戸惑いはしたけれど、彼女と一緒にいるだけで心が満たされていくような気持ちになれた。
『まーき!』
笑顔で呼びかけてくる明美の声が好きだった。明るい声が、眼差しが、真紀にはとても愛おしかった。
彼女に見つめらるのが照れくさくて、思わず顔を背けてしまうこともあったが、明美はそんな自分を見てくすくすと笑っていた。
『あはは、真紀は可愛いなぁ』
そう言って肩を抱かれた時には、心臓が破裂してしまうのではないかと思ったほどだ。彼女に触れられるだけで心が満たされていくような気がした。
(それなのに、どうして?)
目の前に現れた魔女の影を見つめながら、真紀は絶望感に打ちひしがれていた。
彼女の長い黒髪が風になびき、まるで生き物のようにゆらゆらと揺れている。その姿は美しくもあり恐ろしくもある。
「姉さん!」
蓮也の声に真紀は我に返る。今は感傷に浸っている場合ではない。まずは目の前の状況をどうにかしなければ。
だが頭ではわかっているのに体が動かない。彼女がそこにいるだけで周りの空気が重く、息苦しくなっていくようだった。
「っ、あ……!」
どうにか魔法を打ち込もうと杖を構えるのだが、うまく狙いが定まらない。それどころか視界がぐらついて立っていられなくなる始末だ。恵子が心配そうに顔を覗き込んできた。
「大丈夫? しっかりして」
「ご……ごめん」
このままではまずいと思い、真紀はなんとか気力を振り絞る。しかし魔女の影は真紀の様子を見てくすくすと笑っていた。そして次の瞬間には彼女の手から魔法が放たれていた。
「危ない!」
恵子が叫ぶのと同時に、彼女の放った魔法はこちらに向かって真っすぐに飛んできた。咄嵯に反撃に出ようとするが、間に合わない。
だがその時、真紀と恵子の前にあの怪鳥が割り込んできた。怪鳥はその大きな翼で魔法を受け止めると、そのまま勢いに任せて跳ね返す。
「勝手なことをされては困るな」
いかにも呆れたと言わんばかりの態度でデイルが口を開いた。魔女の影は忌々しそうに舌打ちをすると、真紀達からいったん距離を取る。
「助けてくれるの?」
真紀が尋ねると、怪鳥は低く唸り声を上げながら魔女の影を睨みつけた。どうやらこちらの味方をしてくれるつもりらしい。
「大丈夫かね、お嬢さん達」
戸惑う真紀にデイルはやはり偉そうな態度で言ってくる。
「え……えぇ、ありがとう」
素直にお礼を言う恵子に、デイルは満足そうに頷いた。
「礼には及ばないよ。キミはこの世界にとって大切な存在だからね。失うわけにはいかないのだよ」
まさかそんな答えが返ってくるとは思わなかったので、真紀も恵子も動揺を隠せなかった。デイルは冷静に魔女の影と向き合う。
「エリィ、手を貸しなさい」
「何をするつもりなの?」
エリィは険しい表情を浮かべながらもデイルの隣に並ぶと、杖を構えた。
「このまま彼女と戦っても勝ち目は薄いだろう。だが逃げたとしても、すぐにでも追いかけてくるはずだ」
「なら、どうするの?」
「……あれに、力を貸してもらう」
デイルはそう言うと、杖を空高く掲げた。するとそこに魔力が集っていくのが感じられる。エリィも彼の意図を悟ったのか、同じように杖を掲げる。
「一体、何を?」
恵子が不安げに呟くと、肩で息をしながらも蓮也が口を開いた。
「二人がかりじゃないと、呼び出せない悪魔を召喚するつもりなんだ。でも……それ、結構時間がかかるんだ。その間は無防備になるから、それまであの子達になんとかしてもらうしかないんだけど」
彼の言うあの子達というのは、先程二人が呼び出した狼と怪鳥のことだ。蓮也の言葉を肯定するように、デイルとエリィは無言で杖に魔力を注ぎ込んでいる。その間にも魔女の影はこちらを狙い続けていたが、狼と怪鳥が立ちはだかってそれを阻止していた。
「う……けほ! けほ!」
ふいに蓮也が口元を押さえて咳き込むのを見て、真紀は慌てて彼の背中をさする。顔が真っ青になっており、とても苦しそうだ。
「蓮也! あんた大丈夫なの?」
「平気だよ、これくらい」
蓮也はそう言っているが、明らかに無理をしているのがわかる。今にも倒れてしまいそうなほどふらつく彼を恵子も心配そうに見つめている。
「蓮也くん、一体どうしちゃったの?」
「ごめん、本当に大丈夫だから」
「そんなわけないじゃない! あんたすごく苦しそうだよ」
「大丈夫なんだよ、本当に」
誰が見ても大丈夫ではないことは明らかなのに、蓮也はなおも強がろうとする。
焦燥感で真紀はどうにかなってしまいそうだった。元の世界にいた時から蓮也は健康で、風邪を引くことも滅多になかったくらいなのに。
弟がここまで弱っている姿を見るのは初めてで、何もできない自分が歯痒くて仕方がない。
「たぶん、すぐにおさまるよ」
「え?」
「これは……あの人の、力のせいだから。しばらくしたら落ち着くと思う」
苦し気な声で、彼は真紀の耳元で囁いた。
(あの人?)
それが誰を示しているのかはわからなかったが、一つだけ思い当たることがあった。
深淵の民の教祖によって蓮也の胸に埋め込まれた、不気味な黒い石。もしかしたらあれが原因なのではないか。
そうこうしている間にも、狼と怪鳥を相手に魔女の影は魔法を連発していた。その威力は凄まじく、直撃を受けた狼は吹き飛ばされて、怪鳥も翼にダメージを負っていた。
「このままだと長くは保たないよ」
蓮也が苦しそうに呟く。
彼の言う通り、デイルとエリィが召喚を終えるまでまだ時間がかかりそうだ。それまでにあの悪魔二体が倒れた場合、真紀達が戦わねばならなくなってしまう。もしそうなった場合、自分達は勝てるだろうか。
「勝つ必要はないよ」
こちらの考えを読み取ったのか、蓮也が静かに言った。
「二人があれを召喚するまで、持ちこたえられればいいんだ。それができれば……後はなんとかなると思う」
真紀は蓮也の横顔を見つめる。顔色は悪く、呼吸も荒いままだが、それでも彼は真っ直ぐ前を見据えていた。確かに蓮也の言う通り、二人が次の悪魔を召喚するまで持ちこたえられればなんとかなるかもしれない。
影の攻撃は激しさを増し、とうとう狼が倒されてしまった。
「あぁ……!」
エリィは悲痛な声を上げる。狼は靄のような物に包まれ、その姿を消失させた。残った怪鳥も満身創痍で、飛ぶのもやっとという状態だ。
「エリィ、集中しなさい」
「わ、わかってる」
デイルに叱責され、彼女は再び魔力を集中しだす。しかしほどなくして怪鳥も倒れてしまい、空に残っていたのは魔女の影ただ一人となった。
彼女は不敵な笑みを浮かべながら右手を上に掲げる。
「姉さん、来るよ!」
蓮也が叫ぶ。次の瞬間、魔女の影から黒い球のようなものが放たれた。それは凄まじい勢いで真紀達の元へと迫ってくる。
真紀は咄嗟に魔法を放ってその攻撃を相殺しようと試みるが、しかし弾かれたのは真紀の攻撃の方だった。
「そんな……!」
真紀が絶望の声を漏らした瞬間、黒い球は彼女のすぐ手前まで迫っていた。恵子が慌てて結界を張ってどうにか防いだものの、魔女の影は楽しそうに笑いながら次の魔法を放とうとしていた。
「もうやめてよ、明美」
真紀は必死に呼びかける。しかし魔女の影は攻撃をやめようとはしなかった。彼女は邪悪な笑みを浮かべながら次々と魔法を放ってくる。
「私の声……あなたには、届かないのかな」
今そこにいる存在が魔女本体ではなく、使い魔であるということは理解している。それでも彼女の姿を見ていると辛くて仕方がなかった。
どうしてこうなってしまったのだろう。あの時、彼女を引き留めることができていたら、こんなことにはならなかったのだろうか。
後悔ばかりが頭をよぎっていく中、魔女の影の攻撃はますます激しさを増していった。こちらは防戦一方で、反撃に転じる余裕はない。
「姉さん、危ないっ!」
蓮也が叫んで真紀を押し倒す。その直後、二人のすぐ上を魔法が通り過ぎていった。あと少しで直撃していたかもしれないと思うと背筋が寒くなった。
「はぁ……はぁ……姉さんに、手を出すな!」
蓮也が叫ぶと同時に、彼の杖から放たれた魔力が鋭い刃となって伸びていく。それは魔女の影の腹部を貫き、彼女から苦悶の声が上がる。
けれど魔女の影はすぐに体勢を立て直して反撃してきた。蓮也も魔法で応戦したが、威力は彼女の方が上だった。
「うあぁ!」
地面に叩きつけられ、蓮也は悲鳴を上げた。そんな彼の姿を見てエリィは動揺する。
「レンヤ……!」
「気を取られるな、エリィ」
デイルが冷静に言い放つ。エリィは悔し気に顔を歪めながら、なんとか魔力を集中させる。魔女の影は二人に向けて新たな魔法を放ったが、次の瞬間には恵子が結界を張り、どうにか攻撃を防いだ。
「わ……私の力では、これが限界です! お願いだから、早く!」
恵子は泣きそうな声で叫んだ。彼女の張った結界にはひびが入り、いつ壊れてもおかしくない状態だった。そしてとうとう、その時は訪れた。
ガラスが砕けるような音と共に結界が崩れ去り、魔女の影の放った魔法が彼らに襲い掛かる。けれどデイルはそれに動じることなく、静かに口を開いた。
「ありがとう、お嬢さん。おかげで準備が整ったよ」
彼がそう言った瞬間、魔女の影の放った魔法が空中で弾かれるようにして消滅した。それと同時に空から禍々しい気を放ちながら、一体の大きな生物が降りてくる。
「あ……あれは……!」
真紀が呆然と呟く。
あの生き物には見覚えがあった。全身が黒い毛で覆われ、赤く輝く目が魔女の影を鋭く見据えている。姿は狼に似ているが、先程エリィが呼び出したものよりもずっと大きく、見ただけで畏怖の念を抱いてしまうほどの威圧感がある。
「まさか、あの時の?」
震える声で呟く真紀に、エリィが頷く。
「えぇ、そうよ」
二人が呼び出した悪魔は、真紀が初めてこの世界へ来た時に神殿の地下で戦ったあの生き物だった。あの時は莉愛も交えて三人でどうにか倒したのだが、今回はあの時とは比べ物にならないほどの迫力が感じられる。
「あれは我々深淵の民の中でも、選りすぐりの精鋭が魔力を注いだ存在だ。キミが戦った時よりも遥かに強力になっているよ」
デイルの言葉に、真紀はごくりと喉を鳴らした。確かにかつて戦った時よりも、さらに強大で禍々しい気配を放っている。
獣は凄まじい速さで魔女の影に襲い掛かった。魔女の影も応戦しようとしているが、それをものともせずに獣は食らいついていく。鋭い爪で彼女を引き裂き、牙で噛み砕きながら、次々と攻撃を仕掛けていった。
魔女の影は苦悶の声を上げると、獣に向けて魔法を放った。しかしそれは相手に傷一つ付けることができずにかき消されてしまう。攻撃が効かないという事実を見せつけられ、魔女の影は愕然とした表情を浮かべていた。
「あ……」
真紀は無意識のうちに声を漏らしていた。魔女の影は苦悶の声を上げながらも、なんとか反撃を続けていたが、それも限界を迎えたのか、ついに膝をついてしまった。
(明美……明美……ッ!)
真紀は心の中で何度も彼女の名前を叫んでいた。
「だめ!」
「姉さん?」
蓮也が驚いた様子でこちらを見る。真紀はそんな彼を気にすることなく、必死の形相で走り出していた。
「だめだよ……お願いだから、もう戦うのをやめて……!」
真紀は懸命に訴えるが、魔女の影には届いていないようだった。彼女は狂ったように魔法を放ち、獣を攻撃し続けている。
「ね、姉さん危ない!」
蓮也の制止も耳に入らず、真紀は魔女の影に駆け寄ろうとする。しかしそれと同時に獣の目が赤く光ると、鋭い咆哮が響き渡った。
同じタイミングで、魔女の影が放った魔法の一撃が獣に直撃した。強い衝撃波が真紀の体を軽々と吹き飛ばした。
「あ……っ」
全身を痛みが走る。目に映る世界がまるでスローモーションのようにゆっくりと動いて見えた。蓮也の悲痛な叫び声が、やけに遠くに聞こえた。
(あぁ……)
真紀はぼんやりとした意識の中で、初恋の少女の姿を思い浮かべていた。
(明美……どうして……?)
目の前が真っ暗になり、彼女はそのまま意識を失った。




