35 市場にて
その次の日、恵子が神殿で祈りを捧げる時間となった。
「それじゃあ、また後でね」
祈りの間に入る時、恵子は真紀にそう言った。
「うん、頑張ってね」
真紀は笑顔で彼女を見送る。
恵子の表情には緊張の色が浮かんでいたが、それ以上にそわそわしているのは隆弘だった。恵子のことが心配で心配でたまらないのか、今朝から彼は落ち着きがない。
「隆弘、落ち着きなさい」
「わ、わかってるって」
莉愛が注意するが、隆弘は心ここにあらずといった様子だ。
それから、恵子が祈りの間に入った後、一行はひとまず神殿を後にして旅に必要な物資を買い揃えるために市場へと出かけた。
莉愛は隆弘を引っ張ってさっさと行ってしまい、人混みに飲まれていく。仕方がないなと思いつつ、真紀は蓮也と二人で市場を散策することにした。
「お金の心配はしなくても大丈夫なの?」
お店を見て回っている最中、蓮也が真紀に尋ねてきた。
「うん。恵子が聖女だから、神殿からいくらか援助してもらっているの。でも無駄遣いはしないでよね。贅沢をするためのお金じゃないんだから」
「わかっているよ。欲しい物があったらちゃんと自分で稼ぐから」
蓮也はそう答えると、店内を物色し始めた。
「エリィと一緒に旅している間にさ、魔物を倒したり人助けをしてちょっとした小銭稼ぎをしてたんだ。だから、ある程度のお金は持ってるよ」
「そうなの?」
真紀は意外に思った。
確かに蓮也は昔から要領が良かったし、活発で明るく、そして人懐っこい性格のおかげですぐに誰とでも仲良くなれる。けれどアルバイトをした経験はなかったから、そんな彼が右も左もわからない異世界でお金を稼いでいたなんて、少し驚きだ。
「何か欲しいものがあったら僕が買ってあげるよ。帽子とかアクセサリーとか、気に入ったのがあったら言って」
「別にいいよ。旅の邪魔になるだけだろうし」
「たまには姉さんだっておしゃれしてもいいと思うんだけどな」
「その気持ちだけで充分だよ。とりあえず、先に必要な物を買っちゃおうよ」
真紀は話を切り上げると、さっさと買い物を済ませることにした。蓮也と一緒にいくつかの店を見て回り、旅に必要な物を買い揃えていく。
「なんか、こういうの久しぶりだよね」
不意に蓮也が呟いた。
「こうやって二人で買い物するのなんて、いつ以来だろう」
「お祭りの時に一緒に屋台巡りしたでしょ」
「そうだけどさ、こんな風にショッピングとかするのって滅多になかったじゃん」
言われてみればそうだったかもしれない。
子供の頃ならともかく、ある程度成長してからは姉弟揃って買い物に出かけることなんてほとんどなかった。
あのお祭り以外で一緒に買い物に出かけたのは、確か中三の頃だった。両親の結婚記念日を祝うために、二人でプレゼントを買いに出かけたのだ。
そう考えると蓮也の言う通り、こうして買い物をするのもなかなか新鮮なものがある。
「こうして姉さんと過ごせるなんて、僕ってほんとラッキーだよね」
「なに大げさなこと言ってるのよ」
「だってさ……僕はこの世界へ来てすぐに、あいつらに捕まって嫌な目に遭って来たんだよ」
ほんの少しだけ表情を暗くする蓮也に、真紀は内心ドキリとした。
蓮也はこの世界に来てすぐに深淵の民に捕まって、ようやくのことで解放されたばかりなのだ。彼と離ればなれになっている間、真紀も不安と焦燥感で胸がいっぱいになっていた。けれど蓮也のそれは、自分の比ではないだろう。
「だから、またこうして姉さんと過ごせるようになってすごく安心しているわけ。下手したらもう二度と会えないかもって、思っていたから」
真紀はかける言葉が見つからず、そのまま黙り込んでしまう。蓮也はそんな真紀を元気づけるように、明るい口調で話題を変えた。
「あの頃はエリィに随分助けられたものだよ。あいつらの仲間とは思えないくらい良い子だったからね。彼女のおかげでどれだけ救われたか、わかんないくらいだ」
「そういえば、リスタって町で落ち合う予定なんだよね。でもその後はどうするの? エリィはあんたのガイドをしてくれていたんでしょ?」
「そうだよ。でもこうして姉さんと再会できたわけだし、もう彼女と一緒に旅をする必要はないんだ。だからエリィには、ちゃんとお礼を言ってお別れするつもり」
明るい声で蓮也は言っているが、その表情はどこか寂しそうだった。
「私もあの子には、ちゃんとお礼をしなきゃね。エリィがこの指輪をくれたおかげで、私は魔物と戦うことができているんだから。それに、あんたの支えになってくれたみたいだし」
真紀はそう言いながら、右手にはめた指輪をそっと撫でた。
「だね。彼女がいなかったら、僕は今頃どうなっていたかわからないもん」
蓮也もまた、しみじみとした口調で呟いた。
――それから二人は買い物を終えて、宿泊先へと戻ることにした。
けれどその道中で樋口莉愛がたった一人、つまらなそうな顔をして歩いているのを見つけてしまい、二人は揃って足を止めた。
「樋口さん、どうしたの?」
真紀が声をかけると、莉愛は露骨に不機嫌そうな様子でこちらを睨んできた。
「別に? 何でもないけど。そっちこそ買い出しは終わったの?」
「うん。今から宿に戻るところなんだけど」
真紀が答えると、莉愛はつまらなそうに「あっそ」と返事をした。
どうやら機嫌が悪いらしい。普段は気の強い彼女だが、今はそれがさらに顕著に表れているように見えた。
(香坂くんと何かあったのかな?)
真紀はなんとなくそう察する。
そしておそらく莉愛が怒っている原因となったであろう隆弘は、今はこの場にいない。
「香坂先輩はどうしたんですか?」
どうやって尋ねるべきかと真紀が悩んでいる横で、蓮也がストレートに聞いてしまった。莉愛はピクッと反応し、明らかに不機嫌そうな顔で蓮也を睨みつける。
「あんな奴のことなんか知らないわよ」
吐き捨てるように莉愛は言った。相当腹を立てているらしい。これ以上刺激すると何を言い出すかわからない。
「もしかして恵子ちゃんが心配で神殿に戻っちゃったのかな。あの人、恵子ちゃんに熱を上げているみたいだし」
蓮也が続けて言うと、莉愛は無言でそっぽを向いた。どうやら正解だったらしい。
「それで樋口先輩はそんなに怒っているの?」
「怒ってなんかないわよ」
莉愛は蓮也に反論するが、その態度は明らかに怒りの感情を含んでいた。彼女はそのままどこかへと歩いていこうとする。
「樋口さん、大丈夫かな?」
さすがに異世界の町で、彼女を一人きりにするのは心配だ。
「荷物は僕が持って帰るから、姉さんは樋口先輩を追ってあげて」
そう言って、彼は真紀の持っていた荷物を引き受けてくれた。
「ごめんね、蓮也。一人で大丈夫?」
「子供じゃないんだから平気だよ。それより姉さんは樋口先輩のことが心配なんでしょ? 早く行ってあげなよ」
「ありがとう、蓮也」
真紀は蓮也にお礼を言うと、莉愛を追って駆け出した。
「樋口さん、待って!」
真紀は莉愛の後ろ姿に呼びかける。けれど彼女はこちらを振り返らず、ずんずんと歩いて行ってしまう。
「樋口さんってば!」
もう一度呼びかけると、ようやく莉愛が立ち止まってくれた。こちらを振り向いてくれたので、真紀はそのまま彼女の元へと駆け寄る。
「……何よ。私のことはほっといてよ」
「そんな態度取られたらほっとけないよ」
「ふーん、随分優しいじゃない。私の友達にでもなったつもり?」
莉愛は鋭い視線で真紀を睨みつける。困惑してしまいながらも、真紀はなんとか彼女をなだめようと言葉を続けた。
「樋口さん……心配くらいさせてよ。今まで何度も私を助けてくれたのは、樋口さんでしょ?」
「それは別に、そんなつもりじゃなかったわよ」
「それでも、樋口さんがいなかったら私はきっとこの世界で生き抜くことなんてできなかったよ。これまでの旅の中で、一緒に戦ってくれたのは樋口さんだった。それは、本当に感謝してる」
「別に私は……」
莉愛はもごもごと口ごもった。
とりあえず彼女を落ち着かせる必要がありそうなので、真紀は近くにあったお店で飲み物を買って、二人でベンチに腰掛けた。
「……さっきは、ごめん。八つ当たりみたいなことしちゃって」
莉愛はばつが悪そうな顔で真紀に謝罪した。
「あんただってクレアのことがあったばかりなのに、私、自分のことばっかりで」
莉愛はうつむきながら、小さな声でつぶやく。
彼女の言うように、真紀は未だにクレアのことを引きずっている。初恋の少女そっくりな、可愛い妖精の姿をした彼女が、本当は自分達の敵だったのだ。それは未だに真紀の心を深く傷つけている。
「気にしないでいいよ」
そう答えて、真紀もジュースを口に含む。
クレアのことは悲しかったが、莉愛が自分を気にかけてくれたことは嬉しかった。
「隆弘はさ」
莉愛がぽつりと呟いた。
「あんたの弟が言っていたように、藤木さんが心配で神殿に戻っちゃったのよ。まだ祈りが終わるまで時間があるのに、急いで戻っちゃったの」
やれやれと、莉愛は肩をすくめる。
彼と交際している莉愛からしたら、隆弘の行動は許せるものではないだろう。真紀はどうやって莉愛を慰めるべきか、頭を悩ませた。
「……香坂くんとは、どうするの?」
「どうって、別れるか、別れないかってこと?」
莉愛は皮肉っぽく唇をゆがめる。
「あんたには関係ないでしょ」
「それは確かに、樋口さんと香坂くんの問題だし、私が口を出すことじゃないけど」
「じゃあこれ以上は聞かないでよ。私は……大丈夫だから」
いつも高飛車で、強気な態度を崩さない莉愛が、どこか弱々しい口調でそう答える。真紀はそれ以上、何も言えなくなってしまった。
莉愛は立ち上がると、またどこかへと歩き出そうとする。
「どこへ行くの?」
「神殿よ。やっぱり隆弘のこと、ムカつくし。文句言ってやらないと気が済まないわ」
莉愛は振り返ることなく、そのまま立ち去っていく。真紀は慌ててジュースを飲み干すと、彼女を追いかけた。
「何よ?」
「一人だと、危ないかと思って。私も一緒に行っていいでしょ?」
「勝手にすれば?」
素っ気なく答える莉愛だったが、心なしか真紀が一緒に来てくれることを、どこか喜んでいるようにも見える。
それから二人は言葉を交わすこともないまま、神殿への道を一緒に歩いて行くのであった。




