2 異世界
真紀は目を覚ました。
重たい体をどうにか起こして辺りを見回すと、そこは見覚えのない場所だった。
どうやら森のようではあるが、周囲にある木々のほとんどが枯れ果て、地面に生えている草もすべて萎びてしまっている。おまけに空気が淀んでいるのか、妙に息苦しい。
真紀は必死に記憶を探る。
確か、蓮也と神社の祭りに遊びに来ていた。そこで恵子と会って、一緒にまわることにして――だけど突然不思議な光に包まれ、いつの間にか意識を失ってしまったのだ。
「ここ、どこ?」
先ほどまでいた神社の裏側とは似ても似つかない景色に、真紀は混乱してしまう。
何より真紀を不安にさせたのは、さっきまで隣にいたはずの蓮也と恵子の姿がどこにも見えなかったことだ。
「蓮也……恵子……どこにいるの?」
泣きそうになりながらも真紀は二人の名を呼び続ける。
だが、いくら呼んでも返事はない。ただ自分の声だけが虚しく響くだけだ。
「誰か! 誰かいないの?」
どうしようもなく怖くなって真紀は身震いしてしまう。
すると突然、背後から嫌な気配を感じ取った。人ではなく、もっと凶悪な『何か』の気配。
恐る恐る振り返ると、そこには見たこともない生き物がいた。
「ひっ……!」
その化け物は二本足で立ってはいたが、顔の中央にはぎょろりとした大きな目玉が一つあり、裂けたような口から覗く牙は鋭く尖っている。体つきは人間のように見えなくもないが、頭には角のようなものが生えていて、爪は長く伸びていた。
「なに、これ」
一目見てわかる。この化け物は明らかに異常だ。
「グルルルル」
威嚇するように喉を鳴らしながら、化け物が一歩ずつ近付いてくる。
その場から逃げようにも、足がすくんで動くことすらままならない。真紀は恐怖のあまり、その場に立ち尽くしてしまった。
「ガァアアッ!」
雄叫びを上げ、化け物の鋭い爪が真紀に迫る。
「姉さん!」
聞き慣れた声と共に突如として蓮也が飛び出して来た。彼は手に持った木の棒を振りかざすと、化け物の頭に思い切り叩きつけた。
奇妙な鳴き声を上げて化け物が怯む。蓮也はすかさずもう一度、今度はたった一つしかない目玉に向けて突きを放った。
「ギィアァアッ!」
痛みに耐えかねたのか、相手は大きく仰け反って絶叫した。
「逃げるよ!」
そう言って手を差し伸べられる。真紀は慌てて蓮也の手を取り、そのまま全速力で駆け出した。
後ろからは化け物の声が聞こえるが、目潰しをしたおかげか追いかけてくる様子はなかった。
二人は必死に足を動かして森を走り抜ける。しばらく走っているとやがて開けた場所に出た。しかしそこもまた、見慣れた場所ではない。
「なんだよここ?」
荒くなった呼吸を整えながら蓮也は呟く。
先ほどの光景と同じように木々は枯れ、地面はあちこちがひび割れていた。空はどんよりと曇っており、今にも雨が降り出しそうだ。遠くから不気味な鳥の鳴き声が聞こえてくるし、風が吹くたびに木の葉の擦れる音がする。
まるでこの世の終わりのような風景だ。
しばらく呆然としていると、近くの茂みからがさがさという物音が聞こえてきた。
「ッ!」
二人は息を飲んだ
もしかしたらまた、さっきのような化け物が潜んでいるのかもしれない。二人は顔を見合わせてどうしようかと考える。
「様子、見てみる?」
蓮也が震え声で尋ねてきた。
下手に行動をすべきではない。今は息をひそめてやり過ごすべきだと思った。
だけどもしもそこにいるのが人間だとしたら、助けを求められる可能性があるのではないか? そんな考えが頭を過る。
なるべく音を立てないようにゆっくりと、慎重に茂みの前まで歩み寄る。二人が意を決してそこを覗き込んだ瞬間だった。
「ひいぃッ!」
そこに隠れていた人物は頭を抱えて叫び声を上げた。
「来ないで来ないで! 私なんて食べても美味しくないから!」
真紀達は驚いてその人物を見つめた。
相手もまた、真紀と蓮也の姿を見て目を丸くしている。短い髪と、色白な肌。華やかで整った顔立ち。その少女の顔に真紀は驚きの声を上げる。
「どうして樋口さんが」
少女も呆然としている。それは真紀と同じクラスの樋口莉愛だったのだ。
「瀬川さん? なんでここに」
「それはこっちの台詞だよ。もしかして、あなたもここに迷い込んじゃったの?」
「私は……気がついたらこの森にいたの。変な生き物に追いかけられるし、隆弘の姿も見えない。ほんとなんなのよ、ここ」
彼女は心底怯えているようで、体が小刻みに震えていた。真紀は彼女の肩に手を置いて落ち着かせようとする。
「大丈夫?」
「あ……ありがとう」
彼女は少し意外そうに真紀の顔を眺めるが、すぐに視線を逸らしてしまう。いつも意地悪なことを言っている立場の自分が助けられて戸惑っているのだろうか。
「私達も同じだよ。突然こんなところに放り出されちゃって……恵子の姿も見当たらないし、どうすればいいんだろう」
「……とにかく、さっさとここを離れよう。どこか安全な場所があるといいんだけど」
蓮也はそう言って周囲を見渡した。
そう都合よく安全な場所なんてあるとは思えないが、ここでぼやぼやしているわけにもいかない。
「立てる?」
手を差し伸べると、莉愛はおずおずと真紀の手を取って立ち上がった。だが、足元がおぼつかないのかふらついている。
普段強気な彼女のこんな姿を見るのは、これが初めてのことだった。
「!」
突然、すぐそばにある茂みから何かが飛び出してきた。
低くうなり声を上げながら現れたのは、先ほど襲ってきた一つ目の化け物だった。化け物は喉の奥から絞り出すような鳴き声を上げて、こちらを威嚇してくる。
「きゃあああッ!」
莉愛が悲鳴を上げる。
目は負傷したままだったが、もしかしたら匂いを追って来たのかもしれない。
咄嗟に身構える三人に、化け物の鋭い爪が容赦なく襲いかかってくる。
「危ない!」
蓮也は力任せに木の棒を振りかざすと、化け物の顔面に叩きつけた。苦しげな声とともに化け物が後退する。
「ここは僕に任せて、姉さんは逃げて!」
そう言い残して蓮也は化け物に向き直う。
化け物は蓮也を睨みつけると、その大きな口を開けて飛びかかってきた。
「くッ!」
蓮也は咄嵯に身をかわすが、化け物はすかさず追撃を仕掛けようとする。
「蓮也!」
「いいから早く!」
蓮也は叫びながら再び攻撃を避ける。だがすぐに彼は追い詰められてしまい、背後の木に背中をぶつけてしまう。
その光景に真紀は悲鳴を上げた。
――化け物の体を光の矢のような物が貫いたのは、その時だった。
「え……?」
突然のことに何が起きたのか理解できずにいると、同じような光が次々と飛んできて化け物を更に追い詰める。
「これは」
蓮也も驚いて声を上げる。
三人が呆然とそれを見つめている内に化け物は墨のような体液をまき散らし、やがて断末魔の叫びを上げて煙のように消え去った。
「あんた達、大丈夫?」
のんきな声に真紀達は振り返り、三人は揃ってぎょっとした。
それは、まるで蝶のような羽を持つ女の子だった。見た目は十二、三歳くらいだが、体の大きさは人間よりもずっと小さい。人形サイズのその少女は綺麗な青い髪と瞳をしていて、きらきらしたワンピースを身に付けている。
だが何よりも真紀を驚かせたのは、その少女の顔がかつての親友ととてもそっくりだったことだ。
「あ……明美?」
その呟きは小さすぎて誰の耳にも届かなかったけれど、真紀は確かにそう思ったのだ。
芯の強そうな凛とした顔立ちに、ぱっちりと開かれた目元。髪の長さもあの時の明美と同じ、すっきりとしたショートボブだ。
髪と瞳の色は違うが、それ以外は中一の時にいなくなった親友と瓜二つだった。
「あんた、一体何者なの?」
莉愛が頓狂な声を上げると、小さな女の子はにっこりと笑いながら胸に手を当てる。
「あたしは妖精のクレアだよ。この世界に迷い込んで来た人間の手助けをする役目を与えられたんだ」
「この世界、って? どういうこと」
真紀が尋ねると、クレアと名乗った妖精の少女は腕を組んで答えた。
「ここはあんた達のいた世界とは違う、もう一つの世界……いわゆる、異世界ってやつだよ」
真紀は目を丸くしてしまう。
いきなりそんなことを言われても信じられない。でもあの化け物に襲われた時のことを考えると、あながち嘘とも思えない。
「なんなのよそれ。異世界だなんて、そんなことあるわけが……」
莉愛は納得がいかないようで、眉間にシワを寄せていた。
「あー、あのさぁ」
と、蓮也が口を開く。
「この子が何を喋っているのか、姉さん達にはわかるの?」
蓮也の言葉に、真紀達は怪訝顔をする。
「え?」
「だからさ、その子が何を言ってるか、言語を理解できるの?」
「え……えぇ。そうだけど」
だがその答えに蓮也は困惑する。
「てことは、僕だけがその子と会話できないってわけか」
蓮也はそう言うと妖精の少女に向き直った。
クレアも驚きを隠せない様子で蓮也を見上げる。
「あれ、どういうこと? ちゃんと言葉が通じるように女神様があんた達に魔法をかけているはずなのに、こいつの言っていることがさっぱりわかんない!」
クレアはそう叫ぶと、今度は蓮也をしげしげと眺める。
しかし、やはり蓮也は彼女の言葉を聞き取れないのか不思議そうな顔を浮かべている。
真紀からしたらどちらの言葉も理解できるので、何が何だかわからない状況だった。どうやら真紀と莉愛のみがクレアと意思疎通できていて、蓮也にはそれができないようだ。
「なんか変な感じだなぁ。この子の口から出てくる言葉が、僕には外国語みたいな感じに聞こえるんだ。だけど聞き覚えのない言語だし、拾える単語が一つもないよ」
蓮也は困り果てている。
真紀は、日本語でクレアとやり取りをしているつもりだった。それは莉愛も同じだろう。だが確かに考えてみれば、異世界とやらの者と互いに言葉が通じ合う方がおかしいのだ。
「うーん。まぁ、しょうがないね。あんた達が通訳してあげて!」
クレアはそれ以上の考えを放棄したのか、真紀達に丸投げしてきた。
「えぇ……そんな」
肩を落とす真紀に、蓮也は申し訳なさそうな顔をして尋ねる。
「この子は今なんて言ったの?」
「あんたに通訳をするよう頼まれた。あのね、この子の話によると――」
真紀は先程クレアから聞いたことを簡単に説明した。
「ここが、異世界?」
そして次の瞬間、蓮也は何を思ったのか目を輝かせて大声で叫んだ。
「ステータスオープン!」
「蓮也?」
「ステータスオープン! ステータスオープン!」
「蓮也、何やってるの! やめなさい!」
真紀は慌てて弟を止めようとした。
莉愛もしけた表情をして彼を見つめ、クレアも同じような目で彼を眺めていた。それこそ蓮也の言葉を理解できないクレアからしたら、彼がいきなり発狂したようにしか見えないだろう。
「あれ、出ない」
蓮也は不思議そうな顔をしている。
「こうやって叫んだら目の前に数字がぶわーって出てくるのかと思ったのになぁ」
「何一人で勝手にがっかりしてんのよ」
人前でいきなり意味不明な行動をする弟に真紀は困惑する。
「あんたの弟って頭おかしいんじゃないの?」
「それは否定しきれないよ」
莉愛の言葉に真紀は肩を落としつつ、もう一度クレアの方を見やった。
「それで、異世界ってどういうこと?」
「異世界は異世界だよ。あんた達が今まで生きてきた場所とは別の次元にあるんだ。ここにはああいう化け物が普通に存在しているし、魔法なんてものもあるよ」
にわかには信じられない話に真紀はさらに混乱する。
「あんた達、光を追って来たんでしょ」
その言葉に、真紀はあの神社の裏で起こった出来事を思い出す。
あの時、恵子が何かを見つけたのだ。彼女はその何かを追い掛けてふらふらと歩いて行ってしまい、その後をついて行った真紀と蓮也は謎の光に包まれてしまった。そして気がついた時には、こんな森の中にいたのである。
「それがこっちの世界に来るための扉みたいなものなんだよね。でも、全ての人が通れるわけじゃない。その光を見つけることができる人の中でも、選ばれた存在しかこっちの世界にやって来ることはできないんだよ」
「じゃあ、私達が選ばれたってこと?」
だがそこで真紀は口をつぐんだ。自分も蓮也も、そしておそらくは莉愛も変な光なんて見ていない。たぶんあの時唯一それが見えていたのは、恵子だけ。
もしも今の話を信じるのなら、クレアの言う選ばれた存在というのは恵子ということになる。だが不可解なのは、なぜ彼女だけでなく自分達までもが異世界とやらへ来てしまったのかということだ。
「まさか、今の話を信じているわけ?」
莉愛があきれ顔で言う。
「こんなの、現実にあり得るはずない。きっと、夢か何かに決まってる」
そもそも光なんて知らないし、と莉愛は続けた。
確かに恵子が光を見たと言っていたあの時、莉愛は真紀達とは別の場所にいたのだ。だからこそ余計にクレアの話を受け入れられないのだろう。
真紀自身も、こんなことが本当にあるのかと疑ってしまう。
もしこれが現実だとしても、誰かが大掛かりな仕掛けをして、自分達をからかっているという可能性だってあるのではないか。
「とにかく私は信じないし、さっさと家に帰りたいんだけど」
「まー確かにここ物騒だもんね」
蓮也もそう言う。
「そう簡単に帰れるわけないじゃん。ま、とにかくぼやぼやしているのも危ないし……もっと安全な場所に案内するから、ついて来てよ」
ちょっと苛立ったようにそう言って、クレアはふわふわと飛んでいく。
真紀と蓮也は顔を見合わせて、それからゆっくりとクレアの後を追いかけた。莉愛も諦めたように溜息を吐きながら彼女の後をついていくのであった。