1 不思議な光
瀬川真紀の初恋は女の子だった。
小学校五年生の頃に遠くから転校して来たその子は、背が高くてかっこよくて、優しい子だった。真紀が男の子に意地悪をされた時もよく彼女が助けてくれた。
『あたしが真紀を守るからね!』
彼女はいつもそんな風に言ってくれた。
黒江明美というのがその子の名前で、出会ってすぐに二人は親しくなった。明美は正義感の強い性格だったから、クラスでからかいの的になっていた真紀を放っておけなかったのだろう。
『明美って、王子様みたいだね』
真紀が冗談めかしてそんな風に言った時、明美は満更でもなさそうに照れていた。その顔も魅力的で、真紀には眩しく見えたものだ。
彼女への恋心を自覚するまでに、さしたる時間はかからなかった。だがその好意を彼女に告げたことはない。
女の子同士だから、少し難しい恋愛だと理解していた。それにもし振られたら、彼女と今まで通りに接する自信がなかったのだ。
臆病な自分は情けないけれど、それでもこの気持ちを伝えずにいるのが最善だと信じていた。
大丈夫。きっとこのまま友達として仲良くやれる。
いつかこの思いも風化するはずだから、それまでは自分の胸の内だけで温めていよう。
そうして一緒に大人になって、互いに笑い合えるような関係でいられればいいのだから。
あの頃の真紀は、本気でそう思っていたのに――。
「真紀、どうしたの?」
顔を上げると、同じクラスの藤木恵子が心配そうにこちらを見ていた。
「ごめん。ちょっとぼんやりしちゃった」
真紀は笑顔を作って答える。
もうすぐ夏休みを控えた七月半ば。教室内は浮ついた空気に包まれていた。クラスメイト達はどこへ行くのかとか、何をするだとかの話で盛り上がっている。
真紀もクラスで一番仲のいい藤木恵子と夏休みの計画を立てていたのだが、その途中で不意に昔のことを思い出してしまったのだ。
「夏休み、楽しみだね。せっかくだから少し遠出してみようよ」
恵子の提案に、真紀も笑顔になる。
恵子はおっとりとした可愛らしい女の子だ。長い三つ編みをサイドテールにした髪型が特徴的で、どこか物静かで優雅な雰囲気を醸し出していた。
一方の真紀は肩よりやや短めの髪をしていて、少しばかりつり目気味だ。身長は平均的な女子高生のそれと変わりないが、体つきは痩せっぽっちで魅力がないと思っている。
「いいよ。一緒に海とか行きたいね」
真紀は恵子が好きだった。
もちろん変な意味ではなく、友人として。
恵子とは去年、高校一年生の時に友達になった。恵子は少し内気な性格ではあるが、彼女の仕草や言動の端々には育ちの良さが見て取れる。
穏やかで優しい恵子を真紀はとても信頼しており、こんなにも素敵な女の子と親しくなれて本当に良かったと思っている。
「ねー見て、あの二人。また一緒にいるよ」
突然聞こえてきた声に顔を上げると、数人の生徒が集まって何事かを囁き合っているのが見えた。その目線は明らかにこちらの方を向いていて、にやにやとした嫌味な視線が突き刺さってくる。
「あの子達、いっつも二人でいるよね。なんか怪しいんだけどぉ」
「ただの友達にしては距離が近すぎるって感じ」
耳に入って来た言葉に、真紀は嫌な気持ちになる。
以前までは恵子と一緒にいても変なことを言われたりはしなかったのに、ここ最近はどうしてだか、真紀達のことが噂になっているのだ。
(別に悪いことでもないはずなのに、どうしてあんな風に言われなければならないの?)
真紀は密かに苛立っていた。
彼らはいわゆるリア充グループというもので、いつも教室の中心にいる。その中のリーダー格である樋口莉愛の声が特に耳につく。
「ま、陰キャ同士お似合いだけどぉ」
莉愛は整った顔に意地の悪い笑みを浮かべると、わざとこちらに聞こえるような声音で言ってみせた。彼女の言葉に同意するように、他の女の子達も笑い出す。
「お前らあんまからかうなよ。かわいそーだろー?」
馬鹿にするようにそう言っているのは同じグループの男、香坂隆弘だ。
彼は莉愛の隣でヘラヘラしながら、「まぁ、俺ならあんな地味な女とは付き合わないけど」などと余計なことを付け加える。
途端にきゃははと笑い声が上がり、真紀は本当に腹立たしい気持ちになった。
「……ごめんね、恵子。私のせいで嫌な思いさせちゃって」
「ううん、気にしてないよ」
そう言いながら恵子はいつものように微笑んでくれる。彼女の態度に嬉しくなる半面、真紀の心は暗く落ち込んでいく。
正直言って、後ろめたさがある。
自分と恵子は決して彼女達の思っているような関係ではない。
だけど真紀が異性ではなく、同性の方を好ましく感じているのは事実だったからだ。
家に帰って来てからも、休み時間の出来事が頭から離れなかった。
からかわれるのはいつものことだ。けれど、あの女の露骨に見下すような視線が、こちらを嘲笑う声が、真紀の心をちくちくと刺してくる。
「……最悪」
ベッドの上に寝転がりながら真紀は呟く。
控えめに言っても莉愛は美人だと思う。体付きもほっそりとしているし、明るい色のショートヘアがよく似合う華やかな容姿をしている。
でも、好きじゃない。
外見は整っているけれど、意地悪顔だなと思う。
実際、意地悪な性格だ。
だが男子からは人気があるし、本人もそれを誇らしく感じている節があるようだ。
そんな彼女がどういうわけか、最近やたらと真紀に絡んでくる。
最初はこちらに興味を持っていなかったはずなのに、いつからか悪意のある言葉を吐いてくるようになった。そして決まって周りの人間と一緒に騒ぎ立て、馬鹿にするように笑うのだ。
悔しさなのかなんなのか、涙がこぼれ落ちてしまう。
(こういう時、あの子がそばにいたらいいのに)
小学生の頃に出会ったあの子。でもそれから数年後……真紀が中学一年生の時に突然姿を消してしまった女の子。
今でも忘れない、真紀の初恋の相手――。
「姉さん、ちょっといい?」
部屋のドアが叩かれて、真紀は急いで目元を拭う。
扉を開けると、そこには妙に興奮した様子で目を輝かせる一つ年下の弟がいた。
「今からお祭りに行こうよ」
「お祭り?」
そういえば今日、近くの神社で夏祭りが行われるはずだ。毎年近所の人で賑わっているので、真紀も何度か行ったことがある。
だけど高校生にもなって、わざわざ姉弟で行くようなものでもないだろう。
「そんなに行きたいのなら女の子でも誘えば? あんた友達とかいっぱいいるでしょ」
「いるけどみんな部活や塾で忙しくて、誰も付き合ってくれないんだよねぇ」
その言葉が嘘だと直感的に気が付いた。
真紀の弟、蓮也は人懐っこくて誰とでもすぐに仲良くなる。背が高くて顔立ちも整っているので、異性に人気があるのは知っている。
だから、彼が誘えば乗らない相手などいないのだ。
こんな風に言ってくるのは、家に帰って来てからずっと暗い顔をしていた姉を見かねて気晴らしをさせようと思ったからだろう。
お節介だなとは思いつつ、真紀は少しだけ元気を取り戻す。
「しょうがないな」
「やった」
蓮也は嬉しそうに言うと、自分の部屋に戻って出掛ける準備をしにいく。真紀はしばらく考えてから、財布だけ持って家を出た。
祭りの会場となる神社の境内に入ると、辺りは人で溢れていた。屋台が立ち並び、浴衣姿の人々が楽しそうに歩いている。
「そう言えば、最近この辺りに変な光が現れるんだって」
「何それ?」
真紀は首を傾げて聞き返す。
「暗い時間になると、小さな光が現れて町を徘徊するみたいなんだ。光を見た人間はまるで魅了されたようにフラフラとそれに近付いてしまうんだって」
「ふーん……で?」
たいして興味もないけれど、一応続きを促した。
「その光はどうやら人間をどこかへ誘い込む為に存在しているみたいで、ついていくと異次元空間へと連れて行かれてしまうらしい」
「へー、それはすごいすごい」
真紀はうんざりと言ってみせる。
本当に異次元とやらへ連れて行かれるのだとしたら、噂そのものが立つはずがないのだ。彼もそのことは理解しているのか、小さく笑みを漏らしていた。
「作り話だって思うよね。でも、不思議な光が現れる話は本当なんだよ。実際に何人か目撃した人もいるんだから」
屋台が並ぶ通りへと向かう間も蓮也の話は続いていた。
人を魅了し、どこかへと誘おうとする小さな光。ついて行った人間は実際に異次元へ連れて行かれることはないものの、無意識の内に別の場所へと移動しているらしい。
その光を見た人が自分の体験談を話している内に、どんどん尾ひれがついて今のような内容になったのだろう。
「そいつがよく目撃されてるのがこの付近なんだって。せっかくだから探してみない?」
「やるなら一人でやりなさい」
好奇心旺盛な弟に適当に返事をしながら、真紀は屋台を回っていく。
「あれ、真紀?」
名前を呼ばれて振り返ると、そこには恵子の姿があった。
「こんなところで会うなんて偶然だね」
こちらに駆け寄ってくる恵子に、すかさず蓮也が話しかける。
「こんばんは恵子ちゃん。よかったら一緒にまわろーよ!」
断られることなど微塵も考えていない様子で蓮也は笑いかける。恵子もくすりと笑うと、快く了承してくれた。
「いいよ。それじゃ、三人で行こうか」
「よかった。実は今から謎の光を探しに行くんだ」
「どういうこと?」
「あのね」
呆れつつも真紀が事情を説明すると、恵子はおかしそうに笑い出した。
「ちょっと面白そう。その光の正体って、なんなんだろうね」
「さっそくそれを検証しに行こうよ」
「もう、だから一人でやりなさいってば」
それから三人は、人で賑わった神社を歩いて行く。
けれど一行が楽しく談笑していたその途中で、いきなり意地の悪い声をかけられた。
「あれー、誰かと思ったら陰キャカップルじゃん」
真紀と恵子が揃ってそちらに視線をやると、すぐそこに樋口莉愛と香坂隆弘が立っていた。なるべく関わりたくない相手だったが、向こうはニヤつきながら近付いてくる。
「あんた達、デートでもしてんの? やっぱ付き合ってたんだぁ」
嫌味ったらしく言われ、真紀は言葉に詰まる。一緒にいる隆弘も、こちらを小馬鹿にしたような笑みを浮かべていた。
(こんなところで会うなんて)
真紀はもやもやとしてしまう。恵子も同じような気持ちなのか、しゅんとした表情で俯いていた。
こんな風に反応したら相手の思う壺だと理解している。真紀は負けじと反論に出ようとするが、それよりも先に蓮也が爽やかな様子で彼女達に笑いかけた。
「初めまして。瀬川真紀の弟の蓮也です。姉がお世話になっています」
いきなり割って入って来た少年に虚を突かれたのか、二人はぽかんと口を開けて固まってしまう。
「もしかして今、姉に嫌味みたいなこと言ってました?」
臆することなく話しかけてくる蓮也に、先ほどまで調子よく喋っていた莉愛は一瞬だけ驚いたようだ。が、すぐに不機嫌そうに口を開く。
「はぁ? 勝手に変な解釈しないでくれる? 別に、そいつのこと悪く言ったわけじゃないし」
「じゃあ、どういう意味で言ったんですか?」
「別に……ただの冗談だってば。本気にする方がおかしいでしょ」
明らかに莉愛は苛々しているようだ。真紀も弟の強気な姿勢に驚いてしまうが、このままだと面倒なことになりそうだ。
「もういいよ。行こう」
真紀はそう言うと蓮也の腕を引いて移動しようとする。蓮也はあまり腑に落ちていなさそうな様子ではあったものの、素直にその場を後にすることにした。
「……んだよ、あいつ」
忌々しそうに言ったのは彼女と一緒にいた隆弘の方だ。彼は明らかに蓮也へ敵意を向けていたが、本人はどこ吹く風だった。
そのまま真紀達は人混みを避けて神社の裏へと移動していく。
そこは林になっていて、祭りの喧騒からは少し離れた場所だった。
「姉さん、もしかして虐められてたりする?」
いきなりそんな風に言われ、真紀はぎょっとしてしまう。
「まさか! 確かに樋口さんは嫌な奴だけど、そこまでされてないよ」
「でも、さっきの感じは」
「――ねぇ、あれなんだろう」
何かに気が付いたのか、恵子はおもむろに遠くの方を指さした。真紀と蓮也もそちらを見るが、特に何もないようだ。
「ほら、あそこ……なんかぼんやりと光ってるよ」
そう言われて目を凝らしてみるけれど、やはり真紀にはわからない。恵子はそのままフラフラと歩いて行ってしまう。
「ちょっと待って」
真紀は背筋に寒気を感じた。彼女はまるで、得体の知れないものに取り憑かれているかのようだ。
「綺麗……まるで、呼んでいるみたい」
夢を見ているかのようなぼんやりとした眼差しで恵子は行ってしまう。こちらの言葉が耳に届いていないのか、どんどん林の奥へと進んでいく。
「駄目、恵子いかないで!」
咄嗟に真紀は叫ぶが、遅かった。
「ッ!」
恵子が虚空に向かって手を伸ばした瞬間、突然辺り一面に眩い光が広がったのだ。
真紀は目を閉じる。瞼の裏にまで焼きつくような強い光だ。
あまりの眩しさに腕で顔を覆う。とてもではないが、目を開けることなどできない。
「ふ……二人とも、大丈夫?」
眩しさで何も見えない中、真紀は必死に二人に呼び掛ける。
「蓮也……恵子、返事をして!」
声は届いているはずなのに、二人は何の反応も返さない。
「ねぇ! お願いだから……」
真紀の言葉は最後まで紡がれることはなかった。
全身を浮遊感が包み、意識を保っていられなくなる。
(何が起きているの?)
落下しているのか、あるいは上昇しているのか、それすらもわからない。
眩いほどの光に包まれているはずなのに、真紀は自分が深い深い暗闇の中へと吸い込まれていくような感覚に陥っていた。
その時真紀の頭の中に浮かんだのは、明美がいなくなった日のことだった。
さっきの恵子と同じように明美もどこか遠くを見ていて、声を掛けても反応してくれなかった。
まるで魅入られてしまったかのように、明美は真紀には見えない何かを追い掛けて行ってしまったのだ。
(あの時の明美は、何を見ていたのだろう)
考えても答えは出ないまま、やがて全ての感覚が消え失せた――。
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