水の高楼
見渡す限り、山しか見えない風景だった。
太陽が正中から西へ動き出した頃、旅人は後悔しはじめていた。懐中時計を取り出し見ると午後1時15分。人里のあるところまで夜までに出られるかどうかわからない。熊や狼に出くわすかもしれない。脚絆の紐を締め直すと、いつ途切れるかも不安な山道を急いだ。
自分はなぜこんなところにいるのか、忘れかけてしまっていた。ただぼんやりと、人の生活に倦み疲れていた。
日々は変わり映えすることなくただ流れて行き、新しいものは何もなくなってしまった。食べるものは数えきれないほどに種類があるはずなのだが、何を食べても『また、これか』としか思えなくなっていた。新しい何かを求めていた。今までに見たことのないような景色、聴いたことのないような音楽、出会ったことのないような美しい女。なんでもよかった、新しいものならば。しかし死んでしまっては何にもならない。今はただ人里へ出ることばかりを考えるようになっていた。
初夏の陽が肌を刺す。頭の天辺から滴り落ちる汗を手拭いで押さえながら歩いた。鳥や獣の鳴き声に囲まれて、他の誰かのもののように、荒い呼吸がずっと聞こえている。
よくこんな場所にも道があるものだと思った。出会う人間は当たり前のようになく、切り倒された木さえ見当たらない。人間のしるしがどこにもない。初めのうちはそれが新鮮で心地よかったのだが、だんだんと心が搾まり締めつけられるような恐怖に囚われていた。道が途切れて獣の中へ放り出されないことをただ祈り、ただ歩き続けた。
視界を遮っていた木々が途切れた。開けた景色を旅人は見渡した。どこかに村でもないものか。生活を示す煙でも立ち昇ってはいないか。周囲は広大な地表がただ起伏を作り、それをびっしりと緑の植物が覆っている。
見つけた。
それは少し向こうの小高い山の頂の上に見えていた。明らかに自然のものではない建物が、朱い色を僅かに見せている。旅人は荒い呼吸に笑いを混ぜると、そこを目指して歩いて行った。
近づくにつれて建物は見えなくなった。急角度の崖が視界を遮り、その向こうに隠された。力を振り絞って崖を登り切ると、涼しい水の音が広がった。
それは水の高楼だ。
旅人は見上げた。その高さ──20メートル近くはあろうか、草の禿げた土の上に、透き通った水が循環するように流れながら、見たこともない建築物を形作っていた。中国建築のようでもあるが、細長いピラミッドのようにも見えた。流れる水面に青空を映しながら聳え立つ。屋根のように形作られた部分が五つ、等間隔に並び、それぞれには朱色が不思議な光を浮かべてとどまっている。建物全体が小川のせせらぎに似た音を発していた。
旅人は透明な壁の中を覗き込んでみた。何もなく、疲れた自分の姿が水面に映るだけだ。一体誰が、何のためにこんなものをここに建てたのか。それともこれは自然のものなのか。あるいは自分は幻を見ているのか。
「私は新しいものを見つけた」
夢見心地で旅人は呟いた。
「遂に新しいものを見つけたぞ!」
しかしそれが何なのかはわからなかった。またどうすることも出来なかった。せめて目にしっかりと焼きつけて、いつまでも覚えておこうとするしかなかった。どうすることも出来ないものは置いておくしかない。場所を覚えておいて、愛しい女でも出来たらまた連れて来ようかとも考えたが、こんな険しい場所ではそれも無理かと思えた。水の中で一泊するわけにも行かず、日が暮れるまでに山を抜けねばならず、後ろ髪を引かれる思いで旅人は踵を返そうとした。
ふと、自分の喉が相当に乾いていることに気づいた。手を伸ばし、水の高楼の壁に触れてみる。手は壁を突き抜けて、清涼を味わった。次には口でそこに触れてみた。生き返るような心地をくれる水が身体に流れ込んで来て、旅人は抱き締めるようにそれを飲んだ。
不思議なことに水筒には入らなかった。詰めようとしても高楼は頑なに形を変えず、水筒内の空気に弾かれるように抵抗する。諦めて旅人は踵を返した。身体のどこも濡れてはいなかった。
乾いた風に吹かれ、宛てもなく、人里のありそうな方角をめざし、旅人は歩き続けた。何度か振り向いて見ると、水の高楼は確実に遠ざかって行った。
五回目に振り向いて見た時だった。高楼の、最上階の屋根が、形を歪つに変えているのを旅人は見た。
注視する間もなく、力を失ったように、荘厳なる建築物は遠くで崩れ、ただの水となり、滝のように轟音を上げて山の斜面を流れ落ちてしまった。
後には初めから何も無かったように、険しくも平々凡々たる青々とした山の景色が広がっていた。