甘い水
次の朝、メルパがユリアを起こしにきた。
「マリア、起きて。朝ですよ。」
「マリア…。」
「そう、マリア。朝食の用意ができていますから、早く下へ。」
メルパはユリアが体を起こすのを確認すると、すぐに出て行った。
隣の部屋のドアが開く音と、エマと呼びかける声もはっきりと聞こえた。
違和感。
この感覚は、怒りや戸惑いではなく、違和感。
城にいたとき、国王である父と王妃である母、そしてエリアーヌ以外はユリアに対して敬語を使っていた。
メルパがユリアのことをマリアと呼んだことよりも、ユリアに対して敬語を使わなかったことに対して、ただただ、戸惑いを感じる。
時間が解決してくれるのだろうか。
しばらく服や下着と格闘してから、ユリアは着替えて──初めて一人でやったのだが──廊下に出た。
服の前後を間違え、紐を結ぶ場所を間違え、頭を通す場所に通した腕をやっとのことで袖に通す
と、ちょうどエリアーヌも部屋を出たところだった。
同じように、服と格闘していたということだろうか。
「おはよう、マリア。今日の朝食は何かしらね。」
エリアーヌは、昨日とは打って変わって落ち着いていた。ユリアは何も言わなかった。
平静を繕った、ともいう。エリアーヌは、服と格闘した後でこのように冷静になれたのだろうか。
それとも冷静に、服と格闘していたのだろうか。
この暮らしに戸惑いながら、しかしちょっとした楽しみを感じ始めていたユリアだったが、エリアーヌを刺激しないように無表情を決めた。
「私ね、諦めたのよ。こんな暮らしだけど、仕方がないことだもの。皆、私たちを守るためにしていることだもの。確かに辛いけど、辛抱するわ。一生ここで暮らすわけじゃないもの。」
エリアーヌには悪いが、一晩でこんなにさっぱりと諦めがつくはずがない。
表面上は取り繕っているだけなのかもしれないが、それでも昨日の今日で、ここまで発言できるとは大したものだ。
二人が下に降りると、他の三人は既に朝食を済ませていた。
朝食は、オリーブのパンとヤギのミルクだ。
オリーブの風味が爽やかに口の中に広がるが、小麦が良くないのか、少し硬い。
パンには甘みがなく、噛むとボロボロと崩れる感覚だ。
ヤギのミルクは癖が強く、口直しというより先に飲み干してしまうのが正解のようだ。
二人は無言で食べ切った。
食事の後、メルパ、ビルソン夫人、ミルパ中佐と共に村長の家に挨拶に行くことになった。
「新しい仲間が増えた。嬉しいことじゃな。」
四十歳くらいに見える若々しい村長は楽しそうに言った。
実は六十歳に近いと聞き、ユリアは驚いた。
「はは、この自然の中で山羊を追い回していると、年をとる暇もなくてな。」
村長は5人を招き入れると、ユリアたちに椅子を勧めながら冷たい水を出してくれた。
机の周りに椅子が5つ。村長は、さり気なく近くにあった木箱に腰かけた。
「この水はとてもいい味なんじゃよ。」
ユリアは飲むのをためらった。また苦いに違いないと思ったからだ。
しかし、人の善意を無下にすることは得策ではなく、時には争いの火種にさえなると教えられている。
ユリアは笑顔で礼を言うと、表情を崩さず、恐る恐る一口飲んだ。
「甘いわ。」
村長の言葉は本当だった。かすかに甘さがあり、飲み応えがあった。
「おいしい。」
エリアーヌも満足そうに一気に飲み干した。
村長は嬉しそうに頷いた。
「そうじゃろう。この水を飲んでいれば、肌を若く保つことができると言われている。」
「これはどこの水なのですか?」
ミルパ中佐が尋ねた。
「村の奥に小川が流れている。そこの水じゃよ。この村には水源が違う多くの川がながれている。水に恵まれているんじゃ。それぞれ違う味なんじゃよ。村の井戸水もいいし、君らの家の裏にある湖、あそこもいい水じゃ。飲んでみるといい。」
村長は自慢げに笑った。
「私たちの部屋から見えるあの湖?」
「この水は毎日飲めば肌が美しくなる。もっとも、二人とも、すでに綺麗な肌をしているようだがな。」
村長が二人を見て言った。二人の肌は、城で毎日化粧水を塗って美しく保たれている。いや、保たれていた。
ユリアには、そんな水は必要ないと思ったが、ここに化粧水などないだろう。
ならば、毎日その水を飲み続ける必要があるのかもしれない。
「マリアと、エマといったかな。」
村長が二人の顔を交互に見て言った。
「ミリにはもう会ったのかね?」
二人は首を振った。
「君たちの家の隣に住む少女じゃ。しとやかで優しい子でな。きっといい友達になるじゃう。」
それから村の決まり事について話を聞いた後、五人は礼を言って家に戻った。
ミルパ中佐はさっそく桶を持って水を汲みに行った。
少し小走りに見えたのは、二人が村の水を気に入ったことで安心したのだろう。
彼は軍人なのに、気を使わせてしまった。
ユリアとエリアーヌは椅子に腰を下ろした。
「ここでも苦い水を飲まなければならないのかと思っていたけど、もう大丈夫ね。」
エリアーヌが嬉しそうに言った。
「そうね。今度はどんな味なのかしら。」
程なくして、ミルパ中佐が水を運んできた。
メルパが五つのコップに注ぎ、ミルパ中佐がまず口を付けた。毒見なのだろう。
「感想は言わないでね!」
口を開きかけたミルパ中佐が何かを言おうとしたが、エリアーヌが遮った。
「言いませんよ、早く飲んでごらん。」
ミルパ中佐がメルパに頷き、メルパはコップをユリアとエリアーヌに手渡した。
「甘いわね。でも、さっきとは違う味。」
ユリアが言った。甘みが口に広がる感覚が心地よかった。
「本当ね。どんな効能があるのかしら。」
ビルソン夫人も、美味しそうに水を飲み干した。
「さっき隣の奥さんに聞いたんだが、病気にかかりにくくなるらしい。」
ミルパ中佐が言った。
「水が合わなかったらどうしようかと思っていたけれど、色々な水があるのなら心配ないわね。」
メルパも嬉しそうにコップに口を付けた。
水の美味しさよりも、やはり二人が水を気に入ったことが嬉しいようだ。
大人たちに気を遣わせたことにチクリと胸が痛んだが、水を気に入ったは事実なのでユリアは黙っておくことにした。
一服すると、次はミリという少女が住んでいる隣の家に挨拶だ。
マチル一家は四人家族で、ミリと二十歳くらいの兄、その両親が近くの農場で牛と羊を飼って暮らしている。
ミリは長い黒髪を三つ編みにした活発な少女で、くりくりとした大きな瞳が印象的だ。
「ミリ、二人と遊んできたら?」
マチル夫人が言うと、ミリは二人の手を取って歩き出した。
「ねえ、どこに行くの?」
ユリアは驚いて尋ねたが、ミリは内緒、と笑って歩き続けた。
牧場を抜け、川を越えて進んでいくと、目の前に花畑が広がっていた。
赤や黄色、青など、色とりどりの花々が咲いている。
「急にごめんなさい。ここは、昔から誰も手をつけていない自然の花畑なの。私はよくここに来て遊ぶのよ。」
ミリはいたずらっぽく笑った。
「遊ぶって、誰と?」
村には子供が多いのだろうか。
「前は一人でいることが多かったわ。この村では子供が少ないの。皆大人になると村を出て行ってしまうから。村は広いけれど、村にある家の半分は空き家よ。」
「じゃあ、あなたはずっと一人だったの?」
エリアーヌが尋ねた。ミリは首を振った。
「半年前に、ナカリアからマーサという女の子が移住してきたの。色々なことを知っているの。」
「じゃあ、今度紹介してくれる?」
ユリアは優しく微笑みかけた。昔、五歳ほど年下のスチドニアの王女に会った時、対応に困ったユリアにメルパは『ただ優しく微笑みかけて差し上げるのです。仲良く手をつないだりしたらどうです?仲良くなれるのではないですか?』と言った。
ユリアには友達というのがいなかった。
双子だったので、ずっと二人で遊んでいたのだ。
父が用意した「ご友人」と呼ばれる少女は何人もいたが、結局はエリアーヌと過ごす時間の方が気楽だった。
友達の作り方などわからない。だから取りあえずメルパが言うようにやってみようと思った。
「あなたって、笑うととってもいい笑顔ね。」
ミリが言った。しかし、すぐにうつむいて言った。
「あなたは、何か戸惑ってるんじゃないかしら。」
「え、何に?」
ユリアはミリの反応に驚いた。
笑って話していれば、すぐに仲良くなるものだと思い込んでいたのだ。
エリアーヌも同じ考えらしく、驚いて見ミリを見つめている。
「あなたは、怯えているみたい。あなたの目は、何かを迷っているわ。」
ユリアとエリアーヌは何も言わず、ただミリを見つめていた。
ミリも、黙ってうつむいていた。
今度はエリアーヌがミリに微笑みかけた。
「私たちが、一体何に迷っているというの?」
ミリは二人の視線に気づいたように、慌てて顔を上げた。
「ごめんなさい、何でもないわ。引っ越してきたばかりだもの、不安なのは当たり前よね。」
「気にしないで。私たちもここでの暮らしに早く慣れられるように努力するわ。」
ユリアはそう言うとまた笑いかけた。ただ微笑みかけていれば仲良くなれるのだ、というメルパの言葉を信じていた。
「ねえ、二人はどんなところに住んでいたの?」
ミリがその場の雰囲気を変えたかったのか、話題を変えた。
ユリアとエリアーヌは顔を見合わせた。
まさか、王城で王女として暮らしていた、などとは答えられない。
「どんな所だと思う?」
逆にエリアーヌが尋ねた。ユリアがエリアーヌの方を見ると、話を合わせろ、と視線で訴えている。
合わせるも何も、ミリの言葉に合わせて答えなければならない。
「そうねぇ、あなた達の家は、きっと腕のいい大工か何かをやっていたのよ。だからあなた達のお父さんはあんなに筋肉があるんだわ。」
ミリが自信満々に言った。ミリはなかなか観察力が優れているらしい。
しかし、一つ大きな間違いがあった。
「ミリ、彼はお父さんではなくて、叔父さんよ。それに、彼は…」
ユリアは言ってから困ってしまった。筋肉があるミルパ中佐がナカリアで何をしていたのかを考えていなかった。ユリアはエリアーヌに助けを求めた。
「彼は、ナカリアでは水夫をしていたのよ。水夫には力が必要だから、ものすごい力持ちなのよ。」
その後、スチドニアまでの航海で見た水夫たちのことを思い出しながら二人は嘘に嘘を重ねた。
帰ったら、ミルパ中佐が水夫という設定を本人に伝えなければならない。
既に他の設定が独り歩きしていなければいいのだが。
細かく設定を決めておけばよかった、と今になってユリアは後悔した。