海上の村娘
船室に戻るとメルパが待っていた。
片手に丸めた紙を持っている。
「あなたたち、聞きましたよ。」
開口一番、メルパのお小言だ。
「船中に聞こえるような大声で喧嘩したそうですね。
それも、身分に関するようなことで。」
「だってあれは、仕方なかったのよ。
ユリアがあまりに喋りすぎだったもの。」
エリアーヌが口を尖らせた。
「それはあなたも同じでしょう?」
ユリアも言い返したが、メルパがそれを遮るように言った。
「それがだめなのです。どちらが悪いとか、そんなことではないのです。
あなたがたはなぜこの船に乗っているのですか?
それすらも忘れたのですか?」
確かにそうだった。身分を隠して疎開しているのに、
こちらから身分を教えてしまうなど、もってのほかだ。
「わかったわ、ばあや、これからは気をつけるわよ。」
ユリアは言いながらメルパが持っている紙を見た。地図のようだ。
「ばあや、その紙は何?地図のようだけれど。」
話題を反らせた方が、お小言は早く終わるだろう。
そんなユリアの目論見を知ってか知らずか、メルパは地図を広げた。
「私達は、大まかな地理条件を頭の中に入れておく必要があります。」
メルパは指でナカリアの領海の南西を示した。
「私達は今ここにいます。あと二日もせずにチスコに入れるでしょう。
スチーナは、チスコを走るエスチナー山脈の南部に位置します。」
「確かに都よりはスチドニアから遠いわね。身を潜めるにはよさそう。」
エリアーヌが頷いた。
スチーナは、山奥に位置しており、近くに村はありません。
また、馬車で半日行かなければ山を下ることはできません。
昔は他の山村もあったのですが、皆村を捨てて出て行ってしまったそうです。
比較的栄えていたスチーナだけが残ったそうです。
人口は百人足らずですが、皆村に残ることを望み、今に至っています。」
メルパがおとぎ話でもするかのように言った。
「スチーナの村人は、私たちのことを知っているの?」
ユリアは尋ねた。メルパは首を振った。
「いいえ、あなた達は根っからの村娘として暮らしてもらうことになります。
村の方には暮らしに困って移住する村人だと伝えてあります。」
暮らしに困って移住する村娘。
つまり、王女ではない。それ以上の想像は、今のユリアにはできなかった。
それから二日間、二人は村娘として振舞うよう努力した。
しかし、そもそも村娘というのがどういうものかわからない。
馬鹿な振る舞い、というのも違うし、下品に振舞えばいいというものでもない。
田舎にも当然マナーはあり、賢者もいる筈だ。
しかし、二人には城の外での質素な暮らしに耐えることが、田舎暮らしの第一歩だった。
パンだけの食事が続き、それを水で流し込むことにもいい加減飽きてきたころ、誰かが外で叫んだ。
「チスコの灯台が見えるぞ!着港だ!」
二人は顔を見合わせた。
「とうとう着いたのね。」
エリアーヌの言葉でまず頭に浮かんだのは、固いパン以外のものが食べられる、ということだった。
これから行く田舎でも贅沢なんてできないだろうけれど、
少なくとも狭い空間の中に何日も閉じ込められることはないのだ。
「そろそろ降りる準備をしなければなりませんよ。」
メルパが言った。二人は荷物をまとめようとしたが、なんせ自分で服もたたんだことがない。
ぼろ切れのような薄い服だが、どうやっても、丸く膨らんで袋に収まらないのだ。
脱いだ服は、いつも誰かが手早く片付けてくれるので何をどうすべきか分からない。
荷物といっても数枚の衣服と心ばかりの身の回りの物くらいしかないのだが、なかなか片付かない。
「いいですか、これからは自分でするんですから、ちゃんと覚えるんですよ。」
メルパがてきぱきと片付けていく。二人は感心しながら観察した。
あっという間に片付けが終わると、メルパは二人をベッドに座らせた。
もうこの小さくて硬いベッドともお別れだ。ユリアは顔がほころびそうになるのを必死で抑えた。
メルパが口を開いた。相変わらず表情を緩めない。
「ひとつ、言っておかなければならないことがあります。」
「ばあや、どうしたの?まだ何かあるの?」
またお小言か。船の中での態度を注意されるのだろう。
ユリアは心を無にして次の言葉を待った。
メルパの厳しい表情と声を抑えたお小言は、毎日のように繰り返されて正直見飽きていた。
「私達は身分を知られてはいけない。それは覚えていますね?」
「当たり前でしょう?この数日間、私達はとても神経を使っていたのよ。」
エリアーヌがふくれた。メルパは表情を崩さずに言った。
「この船の中は、あなたたちの練習の場だったんですよ。
あなたたちが田舎暮らしの中で少しでも普通に振舞えるように、
そして、練習中に口が滑ってしまっても大丈夫なようになっていたのです。」
「どういうこと?」
エリアーヌが訝しげに尋ねた。
「あなた達のどんな会話を聞かれてもいいようにと、信用できる人物だけを集めたんです。」
「まさか、この船にはナカリアの関係者だけが乗っていたというの?」
練習の甲斐あって、船内では声を抑えて会話することを覚えたユリアの言葉に、メルパは頷いた。
「そう、あなた達が甲板で会った棒を担いだ男も、
無造作に荷物を積み上げていた男たちも、甲板で出航を叫んだ男たちも皆、ナカリアの水兵です。」
「そんな!じゃあ、私たちを騙していたの?」
エリアーヌの声が上ずった。これでは外に聞こえてしまう。
エリアーヌがもう一度口を開こうとしたとき、足元に軽い衝撃が伝わってきた。
外が騒がしくなる。男たちが到着したと叫んでいるのが聞こえる。
「本物の水夫みたいね。」
エリアーヌが思い出したように声を抑えて呟いた。
「さあ、チスコに着きました。降りますよ。」
メルパは鞄を二人に押し付けると船室を出て行った。
二人は鞄を抱えて遅れまいと小走りに追いかけた。