荷車と花畑
外に出たはいいものの、当てもないので裏の湖に行った。辺りには誰もいない。足元の草が風に揺れているだけだ。
湖に手を入れると、水はいつもと変わらず冷たく心地よい。手で水をすくい口に含むと、水温が高いからか、いつもより少しまろやかに感じる。
ユリアは草の上に腰掛けて家の方を見た。戸口で、メルパと中佐が何かを話しているのが聞こえる。難しい顔をしているので、国の状況やユリアたちのこれからのことを話しているのだろうか。他にも後ろの方から山羊の鳴き声や、荷車を動かす音も聞こえてくる。
反対側を振り返ると、ミリや村長の家、花畑がある丘などが見える。たまに村人が荷車を引いたり籠を持って歩いていく。平和な田舎の一場面だった。
「マリアじゃないの。ちょうどよかったわ。今、時間あるかしら?」
ミリの母親、マチル夫人が荷車を引いて立っていた。荷車には、羊のミルクが入っているであろう大きな銀色の容器がかなりたくさん乗っている。少し傾けば転げ落ちそうだ。
「こんにちは。どうしたの?」
マチル夫人は荷車を振り返った。
「ちょっと私にはこの荷物が重くてね。村の入り口まで運ぶのを手伝ってもらえないかしら。後ろから押してくれればいいから。」
ユリアは立ち上がった。
「いいわ。でも、ミリはどうしたの?」
「あの子は今、怪我をした羊の世話をしているわ。」
ユリアは荷車の後ろに回り、力いっぱい押したが、ちっとも動かないばかりか、軋む音すらしない。
「女だけで動かすには少し重すぎたのかもしれないわね。」
マチル夫人が笑いながら荷車を引き出した。ユリアが押してもびくともしなかった荷車が、少しずつ動いていく。
「力持ちねえ!」
ユリアが感心していると、マチル夫人はユリアを振り返って言った。
「さあ、あなたも手伝って。」
ユリアが力いっぱい押すと、荷車はほんの少しだけスピードを上げた。
「動いたわ!」
ユリアが叫ぶと、マチル夫人は笑って足を速めた。またスピードが上がる。痩せた体のどこに、こんな力があるというのだろう。曲がり道の度に荷物が落ちはしないかとはらはらしたが、積み荷はきっちりと積まれ紐で止められていたので一つも落ちなかった。
二人はいくつもの角を曲がり、端を渡って荷車を村の入り口まで運んだ。マチル夫人は平気な顔をしているが、ユリアは腕が痛かった。
「ありがとう、助かったわ。今度何かお礼をさせてもらうわね。」
マチル夫人は微笑んだ。
「でも、この後は荷物をどうするの?」
「もうすぐ馬車が来るわ。これを馬車に積んで町まで売りに行くのよ。」
「これから行くの?」
「そうよ。」
今から町に出たら、着くのは夜だ。ということは、ここに帰ってくるのは明日以降ということになる。
「マチルさんは体力があるのね。私なんて、荷車を少し押しただけでもうくたびれてしまったわ。」
ユリアは心底感心した。
馬車はすぐにやって来た。危ないから離れているようにと言われ、ユリアは御者の男とマチル夫人の二人が手際よく容器を馬車に積み込むのを見ていた。見るからに重そうな容器をマチル夫人が一人で抱え上げ、御者の男に渡して馬車に積み込んでいく。手伝おうとユリアも持ち上げてみたが、少し引きずるだけで精一杯だったので二人に任せることにした。
全ての容器を積み終えると、マチル夫人も馬車に乗り込んだ。
「マリア、すまないけれど、私の家に荷車を置いておいてくれないかしら。ミリが家にいるから、ミリに聞いてくれたら置き場が分かるわ。」
「分かったわ。」
馬車が村を出ていくのを見送ると、ユリアは荷車を引きながら引き返した。荷車は空でも意外と重い。さっきはミルクのせいで重いのだと思っていたが、今でもかなり重い。全身の力を使い、ゆっくりゆっくりと台車を進めていく。
しかし、道はユリアのためにあるのではない。なかなかユリアが思うように進むことはできなかった。行きとは違い、一人の力だと小さなくぼみが邪魔をする。ちょっとしたくぼみで引っかかり、何度も荷車がひっくり返りそうになった。小川に架かる橋も、少し車輪がずれれば荷車が落ちてしまいそうではらはらした。
曲がり角の度に切り替える角度を変えなければならず、このまま放り出して帰ってしまおうかと何度も思った。しかし、ユリアが持って生まれた根性というか、プライドがそれを許さなかった。やっとのことでミリの家の前にたどりついたときはには、ユリアは肩で息をしていた。
ミリ家の前に荷車を止めると、ユリアは中に聞こえるように叫んだ。
「ミリ、いる?私よ、ユリアよ!」
すぐにミリが出てきた。手には布を持っている。
「ユリア、ごめんなさい、今は遊びに行けないわ。」
「そうじゃないのよ。」
これは仕事なのよ、という言葉を飲み込む。今、ミリも仕事をしていることを思い出したのだ。
「あなたのお母さんに、荷車をここに運ぶように言われたの。それで、荷車の置き場所はあなたが知ってるから、あなたに聞きなさいって。」
「まあ、ごくろうさま。じゃあ荷車は私が片付けておくわ。あなたは家に入ってて。」
ユリアはミリの家に入った。ミリの家は、引っ越しの挨拶のときに少し入っただけだったので、ゆっくり中を見るのは初めてだ。ユリアの家と比べると、ずっと狭かった。弱々しい羊の鳴き声が聞こえてきたので、悪いと思いながらもユリアは鳴き声がする方に行ってみることにした。
鳴き声は、裏戸の外からのようだ。そっと戸を開くと外に繋がる部屋があり、羊が数頭、顔を寄せて餌を食んでいる。残りは外にいるようだ。再び弱々しい声がしたので目をやると、足に布を巻かれた子羊が敷物の上で横になっていた。立ち上がって餌を食むことはできないらしい。
「ここにいたのね。今日はエリアーヌはどうしたの?」
戸が軋む音がして、ミリがやって来た。あの重い荷車を片付けたにしては、あまりにも早い。
「家にいるわ。あなた、あの荷車をもう片付けたの?」
ユリアは驚いて尋ねた。
「ええ、何も積んでいないからすぐに片付いたわ。」
ミリが不思議そうな顔をした。つまり、ミリ母子にとって、あの重い台車はすぐに片付くものらしい。
「だって、私が村の入り口からここまで運んでくるのは、ものすごく大変だったのよ。」
「あなたって体力ないのね。」
ミリが呆れている。
「私、確かに荷車は始めて押したけれど、剣の腕は負けないわよ!」
ユリアはムキになって言った。そして、しまった、と思った。剣を習える娘が平民に何人いるだろう。また自分の秘密を漏らそうとしてしまった。
「こんな田舎で、剣なんて役には立たないわ。」
ミリがさらりと言った。何も気づいていないようだ。あるいは、聞き流してくれたのかもしれない。
確かに、剣術は戦争や護身には役立つかもしれない。しかし、こんな田舎では何の役にも立ちはしないのだ。ここで役に立つのは、単に荷車を動かしたり、重い荷物をたくさん運んだりできる力なのだ。
「私は生まれたときからミルクの容器をおもちゃにして遊んでいたのよ。まあ、仕事に使うものをおもちゃにしたら、当然怒られるんだけど。でもそのおかげで、重いものを動かすのには慣れているわ。空の荷車なんて、重さがないのと同じよ。」
ユリアはミリに心底感心した。この親子には本当に舌を巻かされる。痩せた女性に出せる力とは思えなかった。見かけは、筋肉隆々とはかけ離れた普通の女性と娘である。
「あなたたちってすごいわねえ。」
ユリアがしみじみと言うと、ミリは呆れたように言った。
「この村では皆そうよ。皆、小さい頃から毎日荷車を引いたり、色々働いているんだから。マーサだって、ここに来てからは毎朝水汲みをしたり家事をしたりで体力をつけているわよ。」
「私だって、朝は水汲みをしているわ。」
「でも、体力がないじゃないの。マーサは、お母さんの代わりに毎日料理をしたり洗濯をしたり、大忙しよ。」
ユリアは、最近では家事の手伝いが増えたと思っていたが、毎日ではない。毎日全ての家事をやっていたら、いつかの昼食事件の後の様に、それだけで一日が終わってしまうだろう。自分は毎日家事なんてやっていられない。3日目くらいからもう怠け始めるだろう。
「誰か来たのかしら?」
唐突にミリが言った。
「こんにちは。」
マーサがにこやかに立っていた。横にはエリアーヌがいる。
「さっき、あなたとエマを誘おうと思って家に行ったら、あなたがいないじゃない。それで、絶対にここだと思って来てみたの。後でミリも誘うつもりだったから。花畑に行かない?」
「もちろん行くわよ。」
ミリが即答し、ユリアも頷いた。
「ミリ、怪我をした羊の世話は?」
「少しくらいなら、いいかなって。せっかく4人揃ったんだもの」
ミリは小さく舌を出した。
四人は花畑に続く道を歩いていった。他の二人と少し離れて歩きながら、ユリアはエリアーヌにささやいた。
「国のことについて、何も知らないように振舞いましょう。」
「マーサは元大臣の娘でしょう。本当に何も知らないのかしら。もしそうなら、教えてあげた方がいいんじゃない?」
エリアーヌが言ったが、それはかなり危険なことだ。
「マーサには知らせない方がいいと思う。私たちがどこから聞いたのか不思議がるだろうし。私たちの身分がばれる可能性があることは、控えた方が無難だわ」
エリアーヌは無言で頷いた。
「マリア、エマ!置いていくわよ!」
前の方でマーサとミリが手を振っている。思いの外、距離が開いていた。ユリアとエリアーヌは二人に向かって駆け出した。
ユリアは無意識に、常に優等生であろうと背伸びしています。固いなぁ。




