『第八話 湯煙の中の逃走劇』
宿屋にある大衆浴場に入ると、俺たちは魔道具を使って汗を流していく。
確かに湯気が立ち上っている室内の浴場は隠れるには最適の場所だと言えるだろう。
しかし、露天風呂がある外は隠れようがないか。
「デールさんは何者なんですか? あの距離を一瞬で詰めてくるなんて」
「そうですよ。宿屋の外にいたと思ったら、いつの間にか部屋の中にいるんですから」
俺とダイマスの問いにデールさんは目を鋭くした。
泡立ちの悪い石鹸で身体を擦りながら、秘密の話のように声のトーンを下げる。
「僕はヘルシミ王国の上層部の人間だ。それなりの魔道具を使えば意外と簡単だぞ?」
「全然、簡単そうに見えないんだけど」
「一つだけ答えを言うとすれば、“あの時の僕の速さは異常なものだったよ”かな?」
速度上昇の魔道具か。
この人、ブレスレットとか指輪とかの貴金属類をたくさんつけていたからな。
あり得ない話ではない。
「僕の話はこのくらいにして、さっさとお風呂に入ろうよ。とっても気持ちよさそうだ」
「そうですね。聞きたいことは溢れるほどありますが、今でなくてもいいのは事実ですから」
俺が同意すると、デールさんは満足げに頷いた。
三つある風呂の中で一番大きなお風呂に入ると、これまでの疲れがパッと消えていく。
このお湯、特別な薬草でも入っているのだろうか。
気持ちがいいお風呂をしばらく堪能していると、なぜか洗い場から大きな音が響いてきた。
おおかた、誰かが魔道具に魔力を込め過ぎたのだろう。
そう思って再びお風呂に意識を戻すと、あまりにも聞き慣れた声が響いて困惑する。
「ちょっと聞きたいことがある。ここで赤髪の男を見なかったか?」
「見ていないですね。誰なんですか、その男」
一度しか聞いていないが間違いない。声の主はリーデン帝国ギルドマスター、ハンルだ。
まさか彼自身が動いているとは。
「ギルドマスターの声だな。僕の予想が外れてしまった。本当に君は何者なんだい?」
「ただの魔剣士さ。それよりどうするんだ? アイツはきっと浴場中を探し回るぞ」
湯気で隠すにも限度というものがある。
幸いにも露天風呂側の壁にくっついているので、見つかる可能性は限りなく低いだろう。
しかし、彼は几帳面かつ用心深い性格だ。
隅まで探そうとして、浴槽にまで入ってくる可能性は残念ながら否定できない。
「この逃走の指揮、僕に任せてくれないか。君たちを安全に部屋まで返してあげよう」
「頼む。僕がするより確実だろうしね。それにしても君の赤髪を忘れていたよ」
ダイマスが舌打ちせんばかりの顔でシャワーの方を睨んだ。
その目はまるで暗殺者のようで、かなり苛立っていることが伺える。
「いくら分かれてたってこの髪は目立つよな。本当にすまない。指揮はデールさんに任せた」
「任せて。指揮は僕の得意分野だ」
俺の目立つ髪のせいでみんなに迷惑をかけている。
魔法か何かで髪の色を変えられればいいのだが、当然そんな魔法は存在しない。
まったく……ダイマスたちには申し訳なさでいっぱいだよ。
「まずは露天風呂に避難する。そして敵が室内を探すだろう? でも僕たちはいない」
「次に露天風呂を探しに来た隙を見計らって脱衣所へ逃げるってこと?」
ダイマスが後半の言葉を引き継ぐと、デールさんは大きく頷いた。
そうと決まれば行動あるのみだ。
俺たちは物音を立てないように、こっそりと露天風呂に移動する。
「この作戦で重要なのはタイミングだから、それはティッセに任せたよ。【気配察知】持ちにね」
「なっ……どうしてそれを?」
「護衛を行うにあたって、対象の能力を知っておくのは必要だろ? 今回は僕だけなんだから」
魔道具を使って俺たちが持っている能力を調べたのか。
本当に抜かりのない人だな。
【気配察知】というのは、暗闇でもある程度の人の位置を把握できる能力である。
特に親しくなった人は個人単位で察知できるから色々と便利なのだ。
昔の上司だったハンルの気配は既に把握済み。
気配から推測するに、さっきまで俺たちがいた辺りを丁寧に探しているところだろう。
もうすぐ来るな。
ハンルの気配がゆっくりと動き出し、露天風呂につながるドアに手をかけた……。
「今だ! ドアを開けて!」
「みんな、急いで出るんだ! 後ろ姿さえも敵に見られてはいけないぞ!」
いつになく緊張した声色のデールさんに追い立てられるようにして俺たちは脱衣所に走る。
留まったら捕まってしまうという恐怖だけが俺たちの体を動かしていた。
普段ならあり得ないほどのスピードで着替えを済ませると、手早く荷物を纏めて撤収。
二階の部屋に着いた時には、心臓がバックバクだった。
「何とか逃げ切ったのか。僕、捕まって拷問を受けるんじゃないかって怖かったよ!」
「ダイマス。そんなの俺もだよ。しかも相手は俺を追っているんだぞ」
逃げ切った嬉しさなのか、ダイマスは俺の手を強く握りしめて頬を紅潮させていた。
しかし、怖さもあることを象徴するように手は小刻みに震えていた。
外を警戒していたデールさんが一礼するとともに、顔を青くさせたべネック団長が来た。
隣ではイリナも同じような顔をしている。
「下にギルドマスターがいて、帰って来るのに戸惑った。デール、どうした方がいい?」
「むやみに動くのは危険ですが……今は逃げましょう」
上層部の人だから、ギルドマスターの危険性については熟知しているのだろう。
即座に窓を開けて撤退の姿勢を整える。
「分かった。皆のもの、無銭宿泊になるから気は重いが……撤退するぞ」
「大丈夫です。ここに銀貨を置いておきますから」
俺はそう言うと、自身のポケットから出した銀貨をそっとテーブルの上に置く。
これで無銭宿泊ではない。
「ありがとう。それでは再び隣国に向かって出発するぞ。御者はこれからデールだ」
「了解しました。皆さんは馬車でお休みください」
デールさんの言葉に頷いた俺たちは馬車の中で一晩を明かすことになった。
隣国到着まで……あと五日。
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