手野公文書館
手野公文書館は、手野市立図書館の一分室という位置付けではじめは作られた。
元々手野市は、その前身となる全ての市町村、さらに江戸時代から続いている資料の保管のため、その政治や経済の状況を記録するための部署を春雷会の配下に設置していた。
もっとも私的な文書についても一部については保管されている。
これをさらに発展させたのが、江戸期に作られた手野連署だった。
連署というのは文書を保存する際に、主君方にあたる砂賀家とともに連署をしたうえで保存文書としたところから名づけられた役職、部署となっている。
もとは鎌倉幕府の役職の名前であったが、以後使われることがわずかとなり、ここにきて復活したということになる。
この連署は春雷会に事務機能が置かれ、その管理をすることになっていた。
ここで公文書館としての機能がある部署ができた。
明治となり、連署は金元藩、砂賀藩の古文書管理のための私的な機関という位置づけになった。
その一方で、廃棄されるはずの文書を収集し、現在の砂賀町、手野市の範囲にある行政機関の文書保管としても活用されるようになった。
これが公文書館としての発端だとされている。
もともとあった図書館に公文書機能をつけようとされたのは、1900年代初頭だった。
これは春雷会でテック・カバナーから提案があったという記録がある。
そのため、まず手野町に置かれることとなり、それから市町村合併によって手野市に設置されることとなった。
手野市となった時点で、手野連署は手野市公文書館へと併合され、その役目を終えた。
代わりに、手野市公文書館長は連署と名乗るようになった。
戦後には市長直轄の組織だった手野市公文書館は手野市立図書館の一組織となることになり、名前も手野公文書館となった。
ただし、公文書館長は館長と呼ばれる一方で連署と呼ばれ続けることもあり、今も公文書館に所蔵される公文書に連署を続けている。