六話 その娘、無知につき
次回の投稿は週末になると言いながら、週の半ばで投稿。短編小説分(約1万文字)の長い一話になっております。
お楽しみ頂ければ幸いです。
ブレイクが自身に活を入れていた頃、程遠くない場所では銀の縁取りがされた黒のローブをスッポリと頭から被り、肩と足から血を滴らせている一人の少女が杖を握りしめてウッドファングの群れと対峙していた。
ウッドファングは草原で見かけるグラスファングの近縁種とされており、より森に溶け込みやすい緑の毛並みと、枝葉から体を守るために厚くなった毛皮が特徴な狼の魔物である。
常に三から五匹程度の群れを成して行動し、独自の方法で巧みに連携を取って狩りを行う。森の中でしか姿を見る事のないウッドファングは、戦い慣れている者ですら見通しの悪い森と体大きさによって視線が常に下に誘導されることもあって非常に戦い難いことで名が通っている。
「グルルゥッ!」
「きゃあっ!」
下から喰らい付いて来たかと思えば、木々を三角飛びした別のウッドファングが死角となった上空から偏差で襲ってくる。驚くほどの連携に翻弄された少女はいつの間にか追い詰められ、木に背を預けていた。
「何が『弱い魔物しか居ない森だから大丈夫、僕達が守る』よ。囮に使った挙句、真っ先に逃げ出して……絶対に許さない」
扇状に展開したウッドファングが姿勢を落として牙を見せて唸る。
鼻筋に皺を寄せ、鋭い牙の並ぶ口から涎を垂らした姿に、少女は憎憎しげに恨み節を吐く。それはウッドファングに向けられたものではなく、この状況に陥るに至る原因を作ったパーティーの面々に対してだった。
▽
少女は出来損ないだった。
生まれ付いての高い魔力は髪の色に表れるほどであり誰もが少女に期待した。
少女もその期待に応えようと努力した。
しかし技術を磨くことで高まる魔力と適性が最初から強すぎて逆に足を引っ張っていた。魔力を流すことは出来ても強すぎる魔力の制御が出来なかったのである。
威力の弱い下級魔術も少女の手にかかれば上級魔術に匹敵する威力となる。少しずつ慣らしていくことで上達するスキルの取り回しも最初から高すぎる能力故に碌に扱えず、初級者用の訓練すら膨大な魔力が邪魔をしてまともに行えない。
ただ暴れ狂う魔術は害でしかない。そんな魔術とも言えない魔術もどきしか使えない少女を誰もが見放した。
いつしか尊敬と期待の眼差しは侮蔑へと変わる。
少女が逃げるようにして王都へとやってきたのが昨日の朝の出来事である。
ディクセン王国は周辺諸国に比べれば小規模なダンジョンなどがよく見つかっているため比較的裕福な国ではあるが、それでも生きる人々は日々を凌ぐので精一杯で余所者に構うほどの余裕はない。
少女にとって幸運だったのは、王都センドリエルは憲兵が目を光らせているため表立って犯罪が行われていないことや、出てくる以前に食うに困ったらどこに行けばいいかを王都で暮らす姉に手紙で聞いていたことだった。
加えて高い警戒心を持ち合わせていた少女は王都に着いても他事に目を奪われることなく冒険者ギルドに足を運んだ。王都のギルドで働いていると言っていた姉の姿は見えなかったが、ギルドは犯罪歴がなければ種族や出自など個人を言及しない。
おかげで難なく手続きを終えて冒険者となったは良いが、そこから先がわからない少女は手続きをしてくれた受付嬢に聞いた。
「どうやって、どんな活動をしたらいいですか?」
本来であれば前衛職や後衛職はギルドの認定を受けた現役の冒険者が心得を教えるための入門教練を行うのだが……少女の幸運もここで尽きたか、あまりに魔術師然としすぎた格好をしていたために目を付けられたのが少女の不幸の始まりだった。
「やぁ、初めまして。僕達もまだ冒険者になったばかりなんだけれど、良かったら一緒に依頼をしないかな?」
少女を誘ったのはまだ十五、十六の頃合いかと思われる三人の若い冒険者のパーティー。登録してから日は浅く、ランクもFと成り立てだった。そんな、よく出来すぎている状況が少女の不幸に拍車をかけていく。
冒険者のパーティーは突き詰めると究極の信頼関係がなければ成立しない。
当然だ。街の外に出る必要がある依頼は魔物の蔓延る世界に自ら足を踏み入れることであり、一歩間違えば死に直結する。
一時であれば利害関係で共闘するのもいいだろう。しかし、厳しい世界で生き残る必要があるのに、心の許せない相手に背中を預け続けられるものではない。
故に自身の力に絶対の自信を持ち、人間関係から始まるあらゆる困難を自身で跳ね除ける力を持っていなければ競争の激しい冒険者の世界では二つの意味で生き残れない。
冒険者パーティーとは、個人だけで勝ち上がれる力を有した一部の英雄を除いた者達による寄り合いなのだ。
勝ち上がり、金や名誉を得るための競争世界の中では至極当然であり、利己的な思考を多分に持った冒険者が他の冒険者の近くで信頼関係を築くのは難しい。ある程度冒険者をしていれば自然と実力が付くし、力に群がる者が現れるのでそれを当人が上手く捌くのだろうが成り立ての少女が知る由もない。
そこで受付嬢が成り立て冒険者に行うマニュアルを無視してお節介をかけたのだ。
「歳も近いみたいだし、組んで活動するのもいいんじゃない?」
実のところ、魔術師は取り合いになる。
当たり外れが大きいが、火の魔術は火力に優れるし、灯りを点したりと汎用性は高い。水の魔術も外では必需になる飲み水や魔術師の腕によっては軽い回復魔術にも転用できたりと魔術は幅が広く、居て邪魔にならないどころか有能な魔術師を手にしておく事こそ成功する秘訣だと言われる程である。何より魔術師は前衛を務められるスキル保有者より圧倒的に数が少ないのが最たる理由だった。
そんなわけでローブを纏って杖を握る少女は歳若い成り立て冒険者からしたら垂涎の的だったのである。
尤も、いくら魔術師と言っても普通はそんな名も知れぬ相手をパーティーに引き込むなんてリスクは当然ながら背負わないので、彼等以外の冒険者は実力を窺うために様子を見ようと声を掛けるのを控えていたのだが、実情を知らない少女は自身に向く興味の視線を例の物と勘違いし、見知らぬ場所から来る不安もあって判断を急いでしまった。
「宜しく……お願いします」
「こちらこそ、宜しく頼むよ! 急で悪いんだけど、実はもう依頼は受けてて、明日の朝に正門で待ち合わせでいいかな?」
「え? でもまだお互いの事も――」
「大丈夫だよ。依頼は魔物が殆ど居ない森での採取依頼。たとえ魔物が出ても弱い魔物しか出ないらしいし、魔術師である君は前衛の僕達が守るから!」
一抹の不安は拭えなかったが、下手に言い争いをしても良い事はないと少女は言葉を飲み込んだのだった。
▽
翌朝、少女が正門に向かうとまだ三人は来ていなかった。
「ちょっと早く来すぎちゃったかな」
ツンと澄んだ朝露を吸い込んだ。
昨日の冒険者達の気持ち悪い視線に中てられた少女は姉を探す事無くギルドの紹介を受けた宿に篭って一晩を過ごした。
宿の店主はハゲていたが、気の良い人間で、食事は肉が多かったものの、それが小柄な自分を気遣ってと言う事も少女は理解していた。パタパタとエプロンを靡かせて給仕をしていた店主の娘もニコニコしていて気持ち良く過ごす事が出来た。
宿の事を思い出しながら入り口の壁に凭れ掛かってこれから始まる冒険者の生活に思いを馳せていると、昨日の面々が露店の準備でテントが上がり始めた通りを忙しなく駆けてくるのが見えた。
「ごめん、待たせちゃった?」
「いえ、特には……」
「なら良かった。昨日は少し用事があってすぐに解散しちゃったから名乗り忘れてたけど、僕の名前はエイジルだ。宜しく、えーっと」
「リルーシュです。改めて宜しくお願いします」
「固い! 固いよリルーシュ。僕達はもうパーティーなんだから、もっと楽に行こう!」
それぞれ自己紹介をする。
簡単に能力について話を終えるとリルーシュは依頼について切り出した。
「今日の依頼ですけど私は詳しい話を聞いていないので教えて頂けますか?」
「まだ固いなぁ。隠し事はなしでいこう。だからフードをとって、まずは顔を――」
「……っ。触らないでっ!」
言って、ローブに伸ばされた手をリルーシュは弾く。
突然の事にエイジルは弾かれた手を呆然としながらさすった。
「ご、ごめん。そんなに怒るとは思わなくて……」
「い、いえ……私も、ごめんなさい。でも嫌なの。だから悪いけど、もしそれが気に入らないならパーティーの件はなかった事に――」
「いやいや! 今のは僕が馴れ馴れしすぎたね。もう少しゆっくり慣れていくべきだったよ、ごめん。だからパーティーを抜けるなんて言わないで欲しいな。ね? 頼むよ。折角知り合ったんだしさ、僕達には君の力が必要なんだ!」
何度も頭を下げて必死に謝罪するエイジルの姿に、リルーシュは内心、自分を認めてくれていると勘違いして舞い上がっていた。
実際は折角手にした魔術師を手放したくないだけなのだが、浮ついた心では謝罪の意図に気が付けなかった。
様々な不安はあるがエイジルの言う事も一理あり、これからは受け入れていかなければならなくなるのだろうとリルーシュは漠然と考えた。
「もういいですから」
「ごめん。ありがとう」
「それでは詳しく教えてもらえますか?」
「勿論さ!」
紆余曲折あったがエイジルから依頼の内容を聞いたリルーシュは、これなら自分も十分力になる事が出来ると新たな生活に胸を躍らせたのだった。
▽
目的地は王都から程遠くない場所にある森だった。エイジルの言う通り魔物の気配が薄く、これなら特に心配したことにはならないだろうとリルーシュは安堵した。
「私は薬草類や森に詳しいので採取は任せて下さい」
「それは心強いね。頼りにしてるよ!」
「はい!」
焦げ茶色の髪と瞳、そして人懐っこい性格はエイジルを年齢よりも幼く見せる。小動物じみたエイジルが発する絶妙な持ち上げに、リルーシュは少しだけ心を許してきていた。
「それは毒があるので触らないでください」
「あ、うん」
「ヒールギク……太陽草は太陽みたいに黄色で大きな花弁をしているものです。あ、それはキクモドキで……」
知識。自身が有する能力で唯一まともに扱えるものであった。
リルーシュは喜びに満ちていたが、根を傷つけないために剣の鞘を使って地面を掘り返すと言う地味な作業にエイジルを始めとしたパーティーの面々は不満を募らせていた。
「あー、面倒だなぁ」
「だねぇ」
「はは、やっぱり冒険者なら魔物と戦いたいよね」
勝手な事を言い始めたエイジル達にリルーシュはフードの下から鋭い視線を送るが、気が付かれることはなかった。
やがて不満も限界に達したパーティーの一人が剣を投げ捨てると、他のメンバーも続いてその場に座り込む。
雑談を始めるメンバーの中、新参者であるリルーシュは聞き耳だけを立てながら、黙々と作業を続けていた。
「疲れた! 飽きた!」
「確かに地味すぎる」
「そもそもなんで採取依頼なんだ、エイジル?」
「今、ギルドの覚えを得るならこれがいいんだよ。確か……数年前までは採取依頼ばっかりしてた人が居たから足りてたらしいんだけど、その人がパーティーを組んで討伐依頼をするようになってから供給が追いつかなくなり始めているとか。たまに依頼でもないのに採取してきたり、他のメンバーが居ないときは採取依頼をしているおかげでギリギリ持っているらしいけど、僕等もこのあたりでコネを作っておくのも悪くないと思ってね」
(へぇ、そんな人もいるのね。エイジル達もその人を見習ってしっかりやってくれないかな……言っても無駄よね。それにしても、採取依頼ばかりしている人ってどんな人なのかしら。面白い薬草の話とか知らないかな? あったら聞いてみたい気もするわね)
リルーシュはエイジルの話に興味が沸いたのだが、他のメンバーはつまらなさそうに適当に相槌を打つだけだった。
「ほぉん」
「卸先に僕達の事を覚えてもらえば融通してくれる可能性だって出てくるし、損はないだろう?」
「そう言われるとなー。でも、この作業は地味すぎる。どうせならゴブリンとか、俺達でも討伐できそうで、尚且つ村を襲っているなんて物語があるとやる気あがるよなぁ」
メンバーから零された言葉に、リルーシュは耳を疑った。
(採取の重要性もわからない、更には魔物が村を襲っていたらいい? この人達、実は思っていたより酷い人達なのかも……)
森への道中、エイジル他三人は同郷の者だと聞いていたので仲が良い事は知っていたし、誘われたからとは言え、そんな中に一人居る異物としての心地悪さを感じていた最中の出来事に、リルーシュは戻り次第パーティーを解消しようと考えていた。
そのためにも今は早く依頼の品を早く集めようとしていた矢先。
「ちょっと奥を見に行って来る」
メンバーの一人が勝手な行動を始めた。
三人は若さもあってどこか森を軽視している節がある。
今居る森ではないが、森と言う場所をよく知るリルーシュは当然の如く反対した。
「本当に森は危険なんです。今のところ魔物は見ていませんが油断が一番危険なんです。不慣れな場所で、それも戦力について知らないのに戦闘のリスクは避けるべきです!」
「戦力を知らないのはリルーシュだけじゃん?」
「だからこそ――」
「大丈夫、僕達は村でゴブリンを倒したこともあるしね。それに、ちょっと見てくるだけだよ。息抜きは必要だろ? もし魔物が居ても僕等が連携して時間を稼いでいる間にリルーシュが魔法でバーンと倒してくれればいいし!」
「そんな……」
三人に言い募られて「じゃあ三人だけでどうぞ」と言えるわけもなく、これ以上止める術がないと観念したリルーシュは渋々頷くしかなかった。
「やった! ドキドキするなぁ」
「魔物は俺の剣の錆にしてやる!」
「いいや、僕のだね」
どこで魔物が目を光らせているかわからない森の中で各々好き勝手言って声を上げる三人に対し、リルーシュは不安しかなかった。
▽
不安はやはり的中した。
「囲まれてる!」
叫んだのはリルーシュだった。
リルーシュの進言に従い三人は三角の陣を敷きながらそれっぽく見えるように姿勢を低くして進んでいたが、無造作に剣を振っては行く手を遮る枝を無闇に払ったりするものだからチクチクと辣言を受けていた。結果、三人とリルーシュの仲は何時しかぎこちなくなり、無言で進むようになっていた。
パーティーを組んだことのないリルーシュはそれを警戒に注力し始めたのだと勘違いしていたが、成り立ての冒険者である彼等が警戒の何たるかを知っているわけがなかった。
実質一人で魔物の気配を探りつつ、三人のお守りをすると言うのはリルーシュには荷が勝ち過ぎる事であり、気が付けばリルーシュ達はウッドファングに囲まれていた。
三人はリルーシュの叫びを聞くと剣を抜き、引け腰でジリジリと後退すると背中を合わせあった。
漂う緊張の中、四方を見合う。
メンバーの一人が緊張に打ち負け口を開いた。
「ど、どうする! どうしたらいい?!」
「陣形を崩さないで」
「そんな事言われたって!」
だから嫌だったのだ、と心の中で毒づいても後の祭りである。
警戒やその他の事は知っていても戦闘は知らない。唯一わかるのは、現状が崩れれば一瞬でパーティーはウッドファングの腹の中に納まり、世の摂理の流れに組み込まれると言う事だけだった。
一人、森を知る者として何とかしなければいけないと焦りが満ちる。
「って、なんでそんなに逃げ腰なの?! あの威勢はどこに行ったの!? 魔物に限らず動物は私達の感情を敏感に感じ取るの。だから、弱弱しい気配を出すのはやめて!」
自分の忠告を無視したときの威勢の良さはどこに行ったのかとメンバーの一人を叱責するが、チラリと見えたメンバーが握っている剣の切っ先の震えは治まるどころか悪化しているように思えた。
「いい? 目を離さないで、絶対に。その瞬間、間違いなく襲って――」
「うわああぁあぁあ!」
なんとか状況を好転させようと頭を巡らせていたが、恐怖が限界を迎えた一人が剣を振り回し始める。
剣術とも言えない、ただ剣を振り回す行為。剣を振っていると言うより振り回されていると言った方がしっくりくる、無様な軌跡。それが木々が生え並び、軌道が制限される場所で行われる事の意味。
「えっ……」
リルーシュの足に剣が当たり、ザクリと切れて血が舞う。
土と緑の濃厚な臭いに混じった鉄の香りと崩れた陣形に、ウッドファングが一斉に動き出す。
そして、動き出したのはウッドファングだけではなかった。
「に、逃げるぞ!」
「あ、あぁ!」
「わ、私は――」
「……すまないが、怪我人を連れて行ける余裕はない!」
誰のせいでこうなっているのかと言うまでもない。
エイジル達は陣形を崩し、背を離すとリルーシュを置き去りにする決断をした。
罪滅ぼしのつもりか、去り際にエイジルはリルーシュに声をかける。
「すまない……本当にすまないと思っている。僕達は必ず生き延びるから、リルーシュも頑張ってくれ!」
ふざけるな、と叫びたくなる衝動を抑える。
傷を負わされたとは言え、視線を逸らさなかったリルーシュはウッドファングの攻撃優先度が低く、無防備に背を向けて逃走を図るエイジル達に群がったからだ。
そのまま喰われてしまえと思いつつ、極力自分の気配を殺し、少しでもその場から離れるために痛む足を引き摺り別の方向へ逃げたのだった。
▽
知識も、経験も、技術も、冒険者以前に生物としての危機感を含む全てが半人前どころか生まれたての赤子と同様に足らなさ過ぎた三人だったが、逃げ足だけは一人前だったのかウッドファングはエイジル達を追うのをやめると血の臭いを頼りにリルーシュを追って来ていた。
逃げ切れないと悟ったリルーシュは杖を握り締める。
「迎え撃つしか……」
ドクン、ドクンと心臓が脈打ち、唾を飲み込んだ喉が蠕動する。
目の前の茂みがガサリと揺れた。
「ウゥゥウゥ……」
唸り声を上げて一匹のウッドファングが姿を見せる。
眼光鋭く様子を窺うようにウロウロとリルーシュの前を往復する。
一体何をしているのかと様子を窺っていると、リルーシュの耳が微かな音を拾った。
行動は咄嗟だった。
握った杖を体の横に構えると別のウッドファングが杖に齧りついたのである。
驚き、ハッと息を飲んだのも束の間、更にもう一匹のウッドファングが横を向いた事でがら空きとなった背後から飛び出した。
「聞こえてる……わよっ!」
杖に齧りつくウッドファングを力任せに押しのけたリルーシュは、そのまま地面を転がり背中を抉られる寸でのところで回避した。
ビリッと聞こえた音にリルーシュは肝を冷やす。
「痛っ!」
完全に回避したと思っていたが、リルーシュの肩からは血が零れていた。
斬られた足からは血が滴り、爪が掠ったであろう肩が熱を帯びる。
致命傷は避けたものの、たった一息の攻防で既にリルーシュの体力は限界を迎えかけていた。
逃げ切れる可能性は絶無。見事な連携をするウッドファング数匹を相手に、本来安全圏から高威力の魔術を繰り出す後衛が勝負して勝てる可能性は希望を交えて三割あれば良いところ。
それでもリルーシュは諦めてはいなかった。
気炎を上げてリルーシュは吼える。
「負けない、私は負けない……。こんなところでやられるわけにはいかない。だって私は……私は! 逃げ出したんじゃないのだから! 大魔術師になって皆を見返すために里を出たのだから! あいつらに報復もしていないのだからッ! 見せてやるわ。高潔なるエルフの民として、その矜持を。喰らいなさい! 『水槌アクアスマイト』!」
裂帛の気迫がビリビリと空気を震わせる。
構えた杖の先からゴポリと音を立てて空中に巨大な水の塊が湧き上がる。魔力で高圧縮された水塊は表面を波立たせることもなく、固められた泥の如く表面を艶めかせていた。
アクアスマイトは水系魔術ではオーソドックスな魔術である。
術自体が強力なわけでなく、水と言う物質を纏わせた魔力による一撃。込められた魔力量によって強度が大きく上下し、魔力量が増える程に暴れ狂う。それだけに魔術と魔力を扱う術者の経験が物を言う。
単純。
故に強力。
膨大な魔力を持つリルーシュは止め処なく魔力を注ぎ込み続ける。
「まだ、まだまだ……ッ!」
水塊が木々を圧し折り膨張を続ける。
尋常ならざる濃密な魔力の奔流。可視化される程の魔力はスキルの干渉なしに事象と結びつき、バチリと音を鳴らして白の閃光を伴わせる。
清流の如く青く澄んだ魔力が森を駆け抜け木々を揺らした。
「キュゥウン……」
「クゥン……」
「キャンッ」
鼻の利くウッドファングは溢れ出る濃密な魔力に本能的な恐怖を感じ、気圧されていた。
これ見よがしと剥き出しになっていた牙を隠し、頭を伏せ、尻尾を股の間に丸めている。
今が好機であると見たリルーシュは勝負を掛ける。
(出来てる。私、出来てる! いける! このまま……)
一瞬の気の緩みだった。
――パァンッ!
「ああっ!」
膨張しすぎた水塊が大きな音を鳴らして破裂すると、ただの雨となって降り注ぐ。
威力などなく、魔術ですらない。ただ水を降らせただけの水芸。
絶望に顔を染めて呟く。
「なん……で? なんで、上手くいかないの……? 私のスキルなのに、なんで言う事を聞いてくれないのっ」
アクアスマイトの成れの果て。雨となって降り注ぐ水が傷口に染みるのも気にならないほど思い通りにならない自身の魔術。水を含んで柔らかくなった地面に杖を振り下ろすとバシャリと泥が跳ねた。
敵前でありながら深く根付いた心の傷が開き、リルーシュは雨か涙かわからない雫を零して俯いた。
「もう……どうでもいい……かな」
逃げれない。戦えない。魔術も扱えない。
努力した末の無力さに、ついにリルーシュの心が折れかけたときだった。
「キャゥウン!」
「ギャッ!」
突如聞こえてきたウッドファングの痛々しげな叫びに顔を上げる。すると、いつの間にか目の前には見知らぬ男が立っていた。纏った黒の外装はボロボロで、ごわついた後ろ髪は長い。パーティーメンバーと言うのもおこがましい、あの三人ではない……他の誰か。
ふいに言葉が口を衝いて出た。
「え……? 誰……?」
――男は、視線を移すことなく不敵に笑うのだった。