四話 決闘の代償につき
五割の壁を越えても尚、高々と聳える八割の鉄壁に打ち負けた事をブレイクは悟った。
(負けた……負けたんだ俺は、この賭けに……この負け犬がっ!)
絶望の淵に立つブレイク。
そんな状態でにあっても暇は与えないと追い討ちをかけるが如くスキルの文字が再びブレイクの視界に入った。
『時間は有限也。汝、疾く答えよ』
(ちょっと静かにしてくれ頼むから。もう少し考える時間を!)
悪態を吐いても相手はスキル。
泣こうが喚こうが情はなく、無駄に引き伸ばそうものなら勝手に答えを決められてしまう事は過去の経験からブレイクも理解していた。
(どうする……アルーシュさんを食べたいと言うか? 馬鹿が! そんな直接的な事を言った暁には間違いなく俺は明日の日の目を見れない。なら取れる選択肢は元から一つしかないだろうが……!)
これ程わかりやすい事もないと覚悟を決めたブレイクは格好良いポーズをキメながら格好悪い事を言う意思を固めた。
すると今まで開きっぱなしでブレイクを見つめていた瞳がパチリと瞬きを繰り返し、アルーシュの職員服を程よく押し上げる胸が上下した。
スキルによる時間の拘束が解かれた。
だがスキル自体が解かれたわけではなく行動制限が解かれただけである。
ブレイクのスキルには明確にされていないが時間制限が存在していた。どれくらいの間に決めなければならないかは明確になっていない。
それなのに時間制限を無視すると強制的に選択肢を選ばれ、体の主導権を奪われた挙句散々な目にあう。
恐怖がブレイクの心を支配していく。
(俺が自由意思で選べる間にやらなければ……。じゃないと、どんな恐ろしい事をアルーシュさんにしてしまうのか……)
知性ある生き物は理性で自分を押し留めている。それはやりたい、やってみたいことがあっても出来ないと言う事。
このスキルの特性を利用すればブレイク自身が好きで行ったと言う行動の責任すらスキルのせいにして、全て丸投げすると恐ろしくて普段出来ない事も行動に移すことが出来るのだが、どんな行動をするにしろその先に待っているのは社会的な死である。
それがわかっていたからこそ、ギルド側の花形である受付嬢アルーシュを前にして暴走するのだけは避けなければならないと決死の覚悟であった。
(やってやる、やってやる、やってやる!)
ドッドッドッと早鐘を打つ心臓が鼓膜を揺らす。
耳障りな心音を聞きながらブレイクはベッドの上に雄雄しく立ち上がる。体のラインが美しく見えるように横を向き、ヘッドボードに片足を置くと両手を斜め後ろにバッと両手を突き出した。
その神々しいまでの立ち姿はさながら、伝説に歌われるグリフォンの如く。
「何の真似ですか……?」
(俺もわからない。だから聞かないでください)
そう思うだけで口に出して言うわけにもいかない理由があった。
(このクソスキルめぇ……)
ブレイクは心の中で恨みがましくスキルを批難し、涙を飲む。
行動に移さないこと、選択とは別の行動をすること、そして何かを言わないといけない時は余計な事を言わないこと。これを破ると問答無用で体の主導権をスキルに奪われる。
アルーシュにどんな冷ややかな視線を送られようと、どれ程罵られようと、今のブレイクに他事は出来なかった。
ブレイクは心の中で叫んだ。
(見てくれアルーシュさん! いい歳した男が、突如、奇行に走る姿をッ!)
ブレイクは右手で顔を覆うと顎を上げる。そして空いている左手の人差し指をアルーシュの顎下へと滑り込ませ、同じように顎をクイッと上げさせた。
アルーシュの滑らかな肌が指先に吸い付く。
アルーシュは抵抗を示さなかった。
未だ体の主導権が奪われていない事を確認したブレイクは次の段階へ移行すべく口を開いた。
「ふっ……今は金がないからな。食事に行きたかったら仕事を紹介しな!」
言い終わるや否や、顎を持ち上げていた左手がバシッと弾かれた。それに反して死を悟り、無我の境地へと至ったブレイクの心は穏やかであった。
(死んだかな……ついに)
以前ブレイクは貴族が乗った馬車に引かれかけた子供を助けた際に怒り狂った貴族相手にブリッジをしながら謝罪したと思ったらそのまま大通りを動き回った事があった。他にも飲食店で突如食材の真似をして騒ぎ、出入り禁止になったりとその奇人っぷりは王都では有名である。
こうした奇行もあってブレイクは上に行きそうな奴を蹴落とす事ばかりを考える冒険者達の標的からは外されている。
上行くに見込みがなく、才能が無さ過ぎる自分に絶望して壊れた可哀想な男として生暖かく迎え入れられている事を知らぬは本人のみである。
実のところブリッジ事件は飛び出した子供を助けたまではよかったが、進行を妨げた罰として鞭打ちを受けそうになった際、目の前で鞭を打ち鳴らして息巻く貴族を前に足を竦ませたブレイクが打開策を求めてスキルを発動した結果、ブリッジをしながら謝罪し街中を駆け回るかその貴族の胸を揉むかの選択を迫られたためにブリッジをして街中を駆け回ったのだった。
過去の出来事を思い返してか、ブレイクの頬をツゥ――と一筋の雫が伝っていた。
もういっその事アルーシュの手で殺してくれとブレイクが嘆いていると静かな医務室に何かを押し殺したような声が漏れてきた。
「く、ふ……くふふ……あはっ」
(なんだ、何が起こっている?)
ブレイクは楽しげな笑い声に好奇心を抑える事が出来なかった。
そろりと横を覗くと椅子に腰掛けたアルーシュが腰を曲げて前のめりで肩を震わせていた。
(笑ってる……?)
「はぁ、はぁ……あははっ、もう、おっかしぃ」
息も絶え絶えに一頻り笑ったアルーシュは目の端に溜まった涙を指で掬った。
「ブレイクさんの奇行は有名でしたが、まさか私が標的にされるとは……あはっ。しかも、お金がないなら断ればいいのに、ふふっ……相手である私に仕事を紹介させてまでなんて、もう……あははは!」
いつの間にか視界に映っていた文字が無い事を確認するとブレイクは口を開いた。
「そんなに笑わなくても……」
「ふふ……いえ、すみません。顎に触れられたときは殺そうと思いましたが、我慢してよかったです」
「……」
「冗談です。本当は驚いただけです」
「俺も驚きました。アルーシュさんが冗談を言うなんて」
「私だって冗談を言いますが?」
「アッ、ハイ」
一瞬で能面に戻ったアルーシュにブレイクは内心、肝を冷やした。
「はぁ……もう、仕方ありません。ブレイクさんの懐事情は知っていますので良さそう依頼を明日の朝には見繕っておきます」
「助かります……ハイ」
「ふふっ……いえ、それにしても……あはっ」
いつまで笑っているんだとブレイクは眉を寄せるが形の良い眉尻を下げて楽しそうに笑うアルーシュの珍しい顔に、いつしかそんな気持ちも薄れていった。
しばらく思い出し笑いを繰り返したアルーシュは呼吸を整えるといつもの無表情を作って席を立った。
コツ、コツ、と床を鳴らし医務室の扉の前まで来たアルーシュはノブに手をかけながら振り返る。
「それでは私は戻りますので。代金はギルドの貯金から引いておきますが、宜しいですか?」
「はい……」
「頑張って働いて、それで、ご飯連れて行って下さいね?」
薄い桜色に染まった唇に指を当てたアルーシュの仕草にブレイクはドキリと胸を高鳴らせた。
(ズルイなぁ……これじゃあ、頑張らないわけにはいかないだろ)
困り顔を作ったブレイクを「ふふっ」と笑い、アルーシュは踵を返すと医務室から出て行く。
パタンと扉が閉まり、アルーシュを見送って一人になったブレイクは再びベッドに体を預けた。
ギシリとベッドを軋ませ、腕を枕にしたブレイクは溜息を吐く。
「今日は色々な事が一度に起き過ぎだ……」
そう独り言ちたブレイクはそのまま深い眠りに落ちていった。