大つごもり、めおと酒
裏長屋の狭い路地を子供が七、八人、つむじのように駆けてゆく。
「うるせえなあ――」
勝五郎は身を起こそうとして、呻いてまた横になった。
ちょうど帰ってきた女房のおせんが、
「ちょっと、あんた。起きなよ。起きなってば」
と、いつにない剣幕で詰め寄った。
「お、おい、こら。揺らすな」
「いい加減にしな。いま何時だとお思いだね」
「何時だ」
「もう夕七つだよ」
「なんだ夕七つか――今度は本当か?」
おせんは怪訝な顔で、
「なんのことだい?」
「だってお前。昨日、時を間違えたじゃねえか」
「なにを寝惚けてるんだろうねえ、この人は。それよりあんた、昨日あんなに呑んで、支払いはどうするんだい」
「どうするって、拾った大判があるだろう」
「大判ん?」
おせんは眉を寄せた。
「大丈夫かい? あんた、頭でもうったんじゃないだろうね」
「お前こそどうしたんだ。ふたりして、この畳の下に隠したじゃねえか。ぴかぴかの大判をよ」
「なに言ってんだい? 大丈夫かい?」
勝五郎はもう返事をせず、畳のへりに手をかけた。すっとぼけやがって、いくらなんでも本物を拝んだら、ちっとはしゃっきりするだろう。
そうぼやきながら畳を持ち上げたのだが――。
「?」
そこにあるはずのものはない。
「そんな馬鹿な」
勝五郎はほとんど半狂乱になって箪笥の下、夜具の中、行灯の陰、果ては火鉢の灰から水がめの底までまさぐった。
「おまえさん」
険のある声に振り向くと、おせんはずれたりめくれたりした畳のなかに正座して、震える手を膝に重ねていた。
「探しものは、おありかえ」
「いや――」
「あるわけがないじゃないか」
おせんはぴしゃりと言った。
「そりゃあさ、大判が七枚もうちにありゃあ、どんなにいいかと思うよ。いくらなんでも情けないじゃないか。自分でみた夢を信じこんで、あの騒ぎかい?」
声が震えていた。
「しっかりしておくれよ。あたしはね、あんたが夢とほんとの区別もつかなくなって、舞い上がって危ないところに迷いこんで、どうにかなっちまうんじゃないかって、それが心配で――」
伏し目がちの睫毛から、光るものがふたつ、みっつ落ちて、汚れの落ちない着物の膝に、ぱたぱたと染みをつくった。
勝五郎はしばらく押し黙っていたが、
「すまなかった。この通りだ」
「あんた――」
「てめえで見た夢を、ほんとのことだと思い込むとは確かにこいつ、情けねえ。だが、今度こそ本当に目がさめたぜ。これが薬にならねえようなら俺も終いだ。これが限りと思って見ててくれ。この上まだ辛い思いをさせるようなら、そん時は生きる甲斐もねえと腹くくるからよ」
◆
財布の夢騒動から三度目の大晦日。
十日も仕事を休んだあげくに大散財をやらかして、支払いの工面に死ぬ思いをしたその時と違い、勝五郎は火鉢にあたりながら、穏やかな年越しを迎えていた。
「ありがてえなあ――」
そうひとりごちた勝五郎の境遇は、三年で変化している。
懸命に働いて、年中ぴいぴい言っていた懐に少しばかり余裕ができたばかりか、小体ながらも店まで構えたのだ。
そんな勝五郎が煙管をくゆらせながら、除夜の鐘を聞くともなしに聞いているところへ、おせんが盆を運んできた。
「ご苦労さん。今年も世話になったなあ。こっちに寄って、ゆっくりしよう」
そう声をかけたが返事がない。
振り向いてみると盆の横に両指ついて、深々と頭を下げているではないか。
「なんだ、どうした」
「あんた、本当にごめんよ。あたしは、嘘をついていた」
「はは、そいつは穏やかじゃねえな。いったい何の――」
と言いかけて、盆に乗っているものに気づいた勝五郎は、
「そ、そ、そいつは」
この三年、身に近づけもしなかった徳利が一本、頭に猪口をかぶせてあるのはともかく、その横にある黒々としたものは、まさしく三年前に芝浜で拾い上げた財布ではないか。
「お前、今になって、こんなものを持ち出してきやがって」
勝五郎の顔にはびっしりと脂汗が浮かび、見開かれた目の下で、頬がぴくぴくと痙攣していた。
「怒るのも当たり前だよ。この三年、働きづめに働いたのも、あたしに騙されてのことだったんだから」
おせんはようやく顔を上げた。
「あの日、あたしはおっかなくなってねえ。だって十両を盗んだら死罪って言うじゃないか。なのに、あんな大金を届けなかったらどうなっちまうんだろうって――だから、あんたを酔い潰して届けにいったんだよ」
聞いているのかいないのか、勝五郎の血走った目は財布を凝視して離さない。
「けど、騙されてのことだったかもしれないけど、あんた、本当によく頑張ったよ。とても偉かったよ。あたしはねえ、朝早くから仕事に出ていくあんたの背中に、なんど手を合わせたか知れないんだよ」
すっかり心を入れかえて、商売に打ち込む勝五郎を嬉しく思いながら、人に言えない小さな刺が、ちくちくと心に痛む毎日だった。
そして、あれから三年という年の暮れが近づくにつれ、おせんの心には、真っ黒な雨雲のように広がってくる不安があった。
というのも、三年たって持ち主があらわれなかった場合、件の財布は、拾い主に払い下げられることになっていたのだ。
「長い間、しなくてもいい苦労をさせられたとお思いなら、この場で引導をしてくれても、これっぽっちも恨みやしないよ」
おせんは鼻をすすりながら、
「けど、あんた、いや勝五郎さん。働いて苦労して、こうして立派にお店を持ったのは、みんな勝五郎さんがしてのけた本当のことだよ。だから、こうして財布を返すけど、今日までの頑張りがふいになっちまうような自棄だけは、後生だから起こさないでおくれよ。あたしは、それだけが気がかりで――」
食い入るように財布ばかりを睨んでいた勝五郎は、彼はちゃぶ台の湯呑みをひっ掴み、茶をぶちまけて酒を注ぐと、そのまま一息に呑み干した。
「あ、あんた!」
そして財布をかっさらい、戸を蹴破る勢いで長屋を飛び出していった。その取り憑かれたような表情の凄まじさといったら。
「待っとくれよう、 勝五郎さん。後生だから戻っておくれ。馬鹿な考えを起こさないでおくれよ」
おせんは必死に呼びかけたが、もう届くものではない。
遠ざかる足音、晦日蕎麦の出前とはちあったか、蒸籠がひっくり返る音と罵声、遠くで犬が吠える声。
「勝五郎さん――」
おせんは足元を支えていた世界が、音もなく崩れていった。
小さな不安を抱えながらも、勝五郎とふたり、あせみずくで働いた日々。苦しくとも充実していた日常が、夢のように遠のいていく。
どのくらいそうしていただろうか。
どこか遠くで犬が鳴いた。次いで蒸籠が崩れる音とまた罵声。てめえ、うちに何の恨みがあって、二度も出前をひっくり返しやがるんだ。
おせんは濡れた顔を上げた。
次第に大きくなる足音が家の前できて、開け放しの戸から飛び込んできたのは、
「あ、あんた!」
湯気のたつ身体から滝の汗が流れ、鬢は崩れて着物の裾はからげ、畳にばったりと両手をついたまま、息が切れて喋ることも儘ならぬ。
「どうしたんだい。何があったんだね」
勝五郎が、苦しそうな身振りで喉の渇きを訴えた。
湯飲みを拾って呑ませると、呼吸も次第に落ち着いてきた。
「財布はどうしたんだね」
「さ、さ、さ」
「落ち着いて。ゆっくりでいいんだよ」
「財布はな、西応寺の賽銭箱に叩っこんできた」
「何だってえ?」
「みんな目ェ白黒させてやがったぜ。ははは、はは――」
笑う声もかすれていたが、ひとつ仕事を終えてきた充足感が顔にある。
「なんで」
「あれはな、おせん。夢だったのよ」
「だからそれは、あたしが嘘を」
「そうじゃねえ」
勝五郎は猪口を拾い上げ、袂で拭って手渡した。
「一杯やろうぜ。それで今度こそ本当に夢にしちまおう」
おせんには、まだよくわからない。
「俺はな。三年前のあの時に、こいつを夢にして、性根を入れかえようと決めたのよ」
「それじゃあ、あんた何もかも気づいていたのかい?」
勝五郎はにやりとして、
「お前、大判なんかが七枚もうちにありゃどんなにいいか、そう言ったろう」
「そうだったかねえ」
「俺は目が覚めてから、大判が何枚あった、とは言ってねえ」
「あ」
「お前も嘘がつけねえな」
「そうだったのかい」
おせんは力なく笑って、
「うまく騙したつもりでも、やっぱりぼろが出るんだねえ。けど、あんた。じゃあ何で」
「そこよ」
ようやく呼吸の整った勝五郎は姿勢をあらためて、
「こっちこそすまなかった。いや、礼を言わせてくれ。本当にありがとうよ」
「そんな──」
「俺がだらしねえばっかりに、いつも苦労をかけちまってた。そこへあの大金だ。お前だって、喉から手がでるほど欲しかったはずなんだよ。けど、お前はそれを抑えに抑えて、そんな金はどこにもねえと、そうシラを切って泣いたんだ。そんとき俺ァ、財布なんか較べものにもならねえ、とんだ拾いものをしてたってことに、遅ればせながら気づいちまったのよ。それをお前、今さら目の前に持ち出してきやがるもんだから、こっちもつい取り乱しちまったじゃねえか」
海千山千のようで泣き虫のおせんは、また違う涙をこぼしていた。
「すまなかったねえ。あたし、見る目がなかったねえ」
「ま、いいやな。固めの杯ならぬ忘れの杯だ。一杯やって寝ちまおう。それで、すっぱりあれは忘れた。おせん、あれはな」
心なしか勝五郎の目も赤い。
「あれは夢にしなきゃいけねえ」
ふたつの杯を交わすひと組の夫婦。
わだかたまりは綺麗に解けて、絆はひときわ固まった。
これこそ芝浦にこの店ありとうたわれ、明治大正まで暖簾をつないだ名店『魚勝』の礎を築いた初代勝五郎、その若かりし日の物語。
さて、ようやく筆が乗ってきたところで、いよいよ勝五郎が大店へのきっかけを掴む寛延年間、勝五郎勃興編のはじまり、はじまり。
と言いたいところだが、人情噺の名作にやりたい放題好き放題、手前いい加減にしやがれと、お叱りも聞こえてきそうです。
というわけで、そろそろ『小説柴又』おあとがよろしいようで。