表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
小説芝浜  作者: あしき わろし
3/3

大つごもり、めおと酒

 裏長屋の狭い路地を子供が七、八人、つむじのように駆けてゆく。


「うるせえなあ――」


 勝五郎は身を起こそうとして、呻いてまた横になった。


 ちょうど帰ってきた女房のおせんが、


「ちょっと、あんた。起きなよ。起きなってば」


 と、いつにない剣幕で詰め寄った。


「お、おい、こら。揺らすな」

「いい加減にしな。いま何時だとお思いだね」

「何時だ」

「もう夕七つだよ」

「なんだ夕七つか――今度は本当か?」


 おせんは怪訝な顔で、


「なんのことだい?」

「だってお前。昨日、時を間違えたじゃねえか」

「なにを寝惚けてるんだろうねえ、この人は。それよりあんた、昨日あんなに呑んで、支払いはどうするんだい」

「どうするって、拾った大判があるだろう」

「大判ん?」


 おせんは眉を寄せた。


「大丈夫かい? あんた、頭でもうったんじゃないだろうね」

「お前こそどうしたんだ。ふたりして、この畳の下に隠したじゃねえか。ぴかぴかの大判をよ」

「なに言ってんだい? 大丈夫かい?」


 勝五郎はもう返事をせず、畳のへりに手をかけた。すっとぼけやがって、いくらなんでも本物を拝んだら、ちっとはしゃっきりするだろう。

 そうぼやきながら畳を持ち上げたのだが――。


「?」


 そこにあるはずのものはない。


「そんな馬鹿な」


 勝五郎はほとんど半狂乱になって箪笥の下、夜具の中、行灯の陰、果ては火鉢の灰から水がめの底までまさぐった。


「おまえさん」


 険のある声に振り向くと、おせんはずれたりめくれたりした畳のなかに正座して、震える手を膝に重ねていた。


「探しものは、おありかえ」

「いや――」

「あるわけがないじゃないか」


 おせんはぴしゃりと言った。


「そりゃあさ、大判が七枚もうちにありゃあ、どんなにいいかと思うよ。いくらなんでも情けないじゃないか。自分でみた夢を信じこんで、あの騒ぎかい?」


 声が震えていた。


「しっかりしておくれよ。あたしはね、あんたが夢とほんとの区別もつかなくなって、舞い上がって危ないところに迷いこんで、どうにかなっちまうんじゃないかって、それが心配で――」


 伏し目がちの睫毛から、光るものがふたつ、みっつ落ちて、汚れの落ちない着物の膝に、ぱたぱたと染みをつくった。

 勝五郎はしばらく押し黙っていたが、


「すまなかった。この通りだ」

「あんた――」

「てめえで見た夢を、ほんとのことだと思い込むとは確かにこいつ、情けねえ。だが、今度こそ本当に目がさめたぜ。これが薬にならねえようなら俺も終いだ。これが限りと思って見ててくれ。この上まだ辛い思いをさせるようなら、そん時は生きる甲斐もねえと腹くくるからよ」



 財布の夢騒動から三度目の大晦日。

 十日も仕事を休んだあげくに大散財をやらかして、支払いの工面に死ぬ思いをしたその時と違い、勝五郎は火鉢にあたりながら、穏やかな年越しを迎えていた。


「ありがてえなあ――」


 そうひとりごちた勝五郎の境遇は、三年で変化している。

 懸命に働いて、年中ぴいぴい言っていた懐に少しばかり余裕ができたばかりか、小体ながらも店まで構えたのだ。

 そんな勝五郎が煙管をくゆらせながら、除夜の鐘を聞くともなしに聞いているところへ、おせんが盆を運んできた。


「ご苦労さん。今年も世話になったなあ。こっちに寄って、ゆっくりしよう」


 そう声をかけたが返事がない。

 振り向いてみると盆の横に両指ついて、深々と頭を下げているではないか。


「なんだ、どうした」

「あんた、本当にごめんよ。あたしは、嘘をついていた」

「はは、そいつは穏やかじゃねえな。いったい何の――」


 と言いかけて、盆に乗っているものに気づいた勝五郎は、


「そ、そ、そいつは」


 この三年、身に近づけもしなかった徳利が一本、頭に猪口をかぶせてあるのはともかく、その横にある黒々としたものは、まさしく三年前に芝浜で拾い上げた財布ではないか。


「お前、今になって、こんなものを持ち出してきやがって」


 勝五郎の顔にはびっしりと脂汗が浮かび、見開かれた目の下で、頬がぴくぴくと痙攣していた。


「怒るのも当たり前だよ。この三年、働きづめに働いたのも、あたしに騙されてのことだったんだから」


 おせんはようやく顔を上げた。


「あの日、あたしはおっかなくなってねえ。だって十両を盗んだら死罪って言うじゃないか。なのに、あんな大金を届けなかったらどうなっちまうんだろうって――だから、あんたを酔い潰して届けにいったんだよ」


 聞いているのかいないのか、勝五郎の血走った目は財布を凝視して離さない。


「けど、騙されてのことだったかもしれないけど、あんた、本当によく頑張ったよ。とても偉かったよ。あたしはねえ、朝早くから仕事に出ていくあんたの背中に、なんど手を合わせたか知れないんだよ」


 すっかり心を入れかえて、商売に打ち込む勝五郎を嬉しく思いながら、人に言えない小さな刺が、ちくちくと心に痛む毎日だった。

 そして、あれから三年という年の暮れが近づくにつれ、おせんの心には、真っ黒な雨雲のように広がってくる不安があった。

 というのも、三年たって持ち主があらわれなかった場合、件の財布は、拾い主に払い下げられることになっていたのだ。


「長い間、しなくてもいい苦労をさせられたとお思いなら、この場で引導をしてくれても、これっぽっちも恨みやしないよ」


 おせんは鼻をすすりながら、


「けど、あんた、いや勝五郎さん。働いて苦労して、こうして立派にお店を持ったのは、みんな勝五郎さんがしてのけた本当のことだよ。だから、こうして財布を返すけど、今日までの頑張りがふいになっちまうような自棄だけは、後生だから起こさないでおくれよ。あたしは、それだけが気がかりで――」


 食い入るように財布ばかりを睨んでいた勝五郎は、彼はちゃぶ台の湯呑みをひっ掴み、茶をぶちまけて酒を注ぐと、そのまま一息に呑み干した。


「あ、あんた!」


 そして財布をかっさらい、戸を蹴破る勢いで長屋を飛び出していった。その取り憑かれたような表情の凄まじさといったら。


「待っとくれよう、 勝五郎さん。後生だから戻っておくれ。馬鹿な考えを起こさないでおくれよ」


 おせんは必死に呼びかけたが、もう届くものではない。

 遠ざかる足音、晦日蕎麦の出前とはちあったか、蒸籠がひっくり返る音と罵声、遠くで犬が吠える声。


「勝五郎さん――」


 おせんは足元を支えていた世界が、音もなく崩れていった。

 小さな不安を抱えながらも、勝五郎とふたり、あせみずくで働いた日々。苦しくとも充実していた日常が、夢のように遠のいていく。

 どのくらいそうしていただろうか。

 どこか遠くで犬が鳴いた。次いで蒸籠が崩れる音とまた罵声。てめえ、うちに何の恨みがあって、二度も出前をひっくり返しやがるんだ。

 おせんは濡れた顔を上げた。

 次第に大きくなる足音が家の前できて、開け放しの戸から飛び込んできたのは、


「あ、あんた!」


 湯気のたつ身体から滝の汗が流れ、鬢は崩れて着物の裾はからげ、畳にばったりと両手をついたまま、息が切れて喋ることも儘ならぬ。


「どうしたんだい。何があったんだね」


 勝五郎が、苦しそうな身振りで喉の渇きを訴えた。

 湯飲みを拾って呑ませると、呼吸も次第に落ち着いてきた。


「財布はどうしたんだね」

「さ、さ、さ」

「落ち着いて。ゆっくりでいいんだよ」

「財布はな、西応寺の賽銭箱に叩っこんできた」

「何だってえ?」

「みんな目ェ白黒させてやがったぜ。ははは、はは――」


 笑う声もかすれていたが、ひとつ仕事を終えてきた充足感が顔にある。


「なんで」

「あれはな、おせん。夢だったのよ」

「だからそれは、あたしが嘘を」

「そうじゃねえ」


 勝五郎は猪口を拾い上げ、袂で拭って手渡した。


「一杯やろうぜ。それで今度こそ本当に夢にしちまおう」


 おせんには、まだよくわからない。


「俺はな。三年前のあの時に、こいつを夢にして、性根を入れかえようと決めたのよ」

「それじゃあ、あんた何もかも気づいていたのかい?」


 勝五郎はにやりとして、


「お前、大判なんかが七枚もうちにありゃどんなにいいか、そう言ったろう」

「そうだったかねえ」

「俺は目が覚めてから、大判が何枚あった、とは言ってねえ」

「あ」

「お前も嘘がつけねえな」

「そうだったのかい」


 おせんは力なく笑って、


「うまく騙したつもりでも、やっぱりぼろが出るんだねえ。けど、あんた。じゃあ何で」

「そこよ」


 ようやく呼吸の整った勝五郎は姿勢をあらためて、


「こっちこそすまなかった。いや、礼を言わせてくれ。本当にありがとうよ」

「そんな──」

「俺がだらしねえばっかりに、いつも苦労をかけちまってた。そこへあの大金だ。お前だって、喉から手がでるほど欲しかったはずなんだよ。けど、お前はそれを抑えに抑えて、そんな金はどこにもねえと、そうシラを切って泣いたんだ。そんとき俺ァ、財布なんか較べものにもならねえ、とんだ拾いものをしてたってことに、遅ればせながら気づいちまったのよ。それをお前、今さら目の前に持ち出してきやがるもんだから、こっちもつい取り乱しちまったじゃねえか」


 海千山千のようで泣き虫のおせんは、また違う涙をこぼしていた。


「すまなかったねえ。あたし、見る目がなかったねえ」

「ま、いいやな。固めの杯ならぬ忘れの杯だ。一杯やって寝ちまおう。それで、すっぱりあれは忘れた。おせん、あれはな」


 心なしか勝五郎の目も赤い。


「あれは夢にしなきゃいけねえ」


 ふたつの杯を交わすひと組の夫婦。

 わだかたまりは綺麗に解けて、絆はひときわ固まった。

 これこそ芝浦にこの店ありとうたわれ、明治大正まで暖簾をつないだ名店『魚勝』の礎を築いた初代勝五郎、その若かりし日の物語。

 さて、ようやく筆が乗ってきたところで、いよいよ勝五郎が大店へのきっかけを掴む寛延年間、勝五郎勃興編のはじまり、はじまり。

 と言いたいところだが、人情噺の名作にやりたい放題好き放題、手前いい加減にしやがれと、お叱りも聞こえてきそうです。

 というわけで、そろそろ『小説柴又』おあとがよろしいようで。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ