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小説芝浜  作者: あしき わろし
2/3

財布と謀り

 木戸をくぐって表通りに出ると、いつも騒々しい街が、今日はさらに忙しなく見えた。


「ちっ」


 勝五郎はこの時期――年の瀬が嫌いだった。


(どいつもこいつも、あくせくしやがって)


 浮き足立つような街をいまいましく思いながら、自分も自然と足早になる。

 といっても当時の芝金杉町は現在の芝一・二丁目にあたり、芝の魚河岸は目と鼻の先だったので、急いだところでたかが知れていた。

 その時、増上寺が時の鐘を衝いた。


「?」


 勝五郎は足をとめ、訝しそうに首を傾げて、通りかかりの小僧を呼び止めた。


「ちょいとものを尋ねてえが、今の鐘は八つだったかい」

「ああ、八つだよ。兄さん、でかいなりをして、ぼんやりしてちゃいけないね」

「餓鬼が生意気な口をききやがる。まあ、いいや。ありがとうよ」

「なんだ、駄賃はないのかい。大人のくせに、しけてやがらあ」

「何を、この!」


 拳骨をかいくぐって小僧は逃げていった。

 勝五郎は小石をひとつふたつ投げてから、


「おせんのやつ、時を間違えやがったな」 


 さもいまいましそうに、そう言った。冬の昼八つは現在の午後一時半にあたる。


「昼のまんまだって、食えたじゃねえか!」


 勝五郎は地団駄を踏んだ。



 当時の芝浜は夕河岸だった。

 江戸城ご用達の日本橋と違って、芝の魚河岸は最初から庶民の生活に直結しており、雑魚場と呼ばれ親しまれたという。

 おせんが時刻を間違えたおかげで、どのみち市場は開いてない。

 戻ってどやしつけようかと考えて、それも面倒と気重な足を魚河岸に向けた勝五郎だったが、


「ふん」


 潮の香りが漂ってくると、心にむくむく頭をもたげてくるものがある。


「まあ、こいつも悪くねえ」


 洗ってもない起き抜けの顔を、潮風にさらしてみるのもいいだろう。

 松林を抜けると灰色の砂浜が大きな弧を描いていた。

 勝五郎はしばし海原に背を向けて、カチカチと煙管に火を移すと、


「よっこらせ」


 と、腰を下ろした。

 よく晴れた冬空に鴎が二羽ほど浮いている。


(こいつはちょいと、オツだねえ――)

 

 と口にこそ出さないが、満更でもない顔で煙管をくゆらせていた勝五郎が、風にあたるのもそろそろ頃合いとみて、ぼんやり風景を映していた視線を波打ち際まで戻したとき、


(む?)


 視界に何となく引っ掛かるものを覚えて、少しばかり目をこらしてみた。


(あれは財布じゃねえか?)


 拾い上げて中身を確かめると、勝五郎の顔色が変わった。

 何気ない表情をつくろい、目だけがきょろきょろと忙しなく、ぎこちない動作で、素早く財布を懐に滑り込ませて――。


(誰も見てねえか)


 もう魚河岸など、すっかり忘れていた。



「ごめんよ、あたしときたら時を間違えちまって――」


 てっきり腹をたてて戻ってきたと思ったおせんは、どこか切迫した表情を亭主の顔に読み取って、


「ちょっと――どうしたんだい」

「誰も来てねえか」


 勝五郎は戸口を覗き込んで、すぐに入ろうとはしなかった。


「誰も来てねえな?」

「ねえ、言ってれなくちゃわからないじゃないか。いったい何があったんだい」

「でけえ声を出すんじゃねえ」


 勝五郎は血走った目で女房をひと睨みしてから、まだ湿っている革製の財布を取り出した。


「あんた――これ――」

「拾ったんだ。勘違いするな」


 勝五郎が財布を広げると、拾両の墨書こそ海水に洗われ消えているが、そこには紛れもない享保大判が七枚。

 目を剥くような大金である。


 太閤秀吉が規格化した大判金は、主に武家の恩賞にもちいられ、一般に流通する貨幣ではない。

 つまり勝五郎のような町人が遣えばそれだけで、


(おや)


 と首を傾げる程度に不自然なのだが、


「なあに、ちゃんと考えがある」


 勝五郎はひきつった笑いを浮かべた。


「考えがあるって、あんた、これ届けないのかい」

「馬鹿。流れに逆らうやつがあるもんか」

「流れ?」

「ツキとも言わァな。いいか、こういう時はな、流れに乗っかったほうがいいんだ。無理に逆らうと、かえってロクなことにならねえ。流れをせなに前へ出るのよ」


 おせんは今の勝五郎と同じような顔を、昔から何度も見ている。まさしく博徒の顔、それも乗るかそるかのバクチに舞いあがっている顔だった。


「なあに、心配にゃ及ばねえ。昔の連れに両替屋がいるんだ。そいつに小判の二、三枚ばかし握らしときゃ大丈夫だろうよ。造作もねえこった」


 おせんの心に不安がひろがっていく。

 こういう状態のときに道理を説いても、むきになるのが普通で、そうなればなるほど引き返すのが難しくなる。


「あんた!」


 おせんは、ぽん、と手をうった。


「やったじゃないか。あたしは、いつかこんな日がくると思ってたんだよ」


 勝五郎は驚いたように見返したが、


「へへ、調子のいいことを言うじゃねえか」

「世の中って捨てたもんじゃないねえ。こんなことも、あるんだねえ」

「おうよ」

「それもこれも、あんたが目端のきく人だったからだと、あたしは思うねえ。だって普通は気づかないもんじゃないのかい、財布なんか落ちてたってさ。よく見逃さなかったもんだねえ」

「そこは、お前――まあ、あれだ。これでも商売人の端くれよ」

「そうだ! こんないいことがあったんだからさ、ちょっとお祝いでもしたらどうかねえ」

「お祝い?」

「そうだよ、ほんとの大盤振る舞いと洒落込もうよ」

「うん、まあ、そいつは両替したブツを拝んでからでも、遅くねえんじゃねえか」

「そうねえ。それもいいけど、大判なんかがウチにあるなんて、一生に何度もないんだからさ、一晩くらい畳のしたに敷き並べて、その上で大騒ぎってのも洒落てていいんじゃないかねえ」

「ふむ――悪くねえ」


(しめた!)


 というのが顔が出ないように、おせんは無理にはしゃいでみせて、


「じゃあさ。あたしはこれからひとっ走り行って、お酒を買ってくるから、あんたは皆を呼んでおいでよ」

「よしきた」

「おっとその前に、大判を隠しておかなくちゃ――そうだね、このあたりがいいんじゃなかねえ」


 おせんの目論見どおり、その晩は呑めや歌えの騒ぎになった。

 辰だの源だのといった馴染みはもとより、おちおち寝ていられない隣近所も巻き込んで、見回りしていた火の用心、通りかかった夜泣き蕎麦、小言をしにきた大家まで、およそ視界に入るものは、何でもかんでも引っ張ってこないと気が済まない。

 まったく、はた迷惑な連中だった。

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