貧乏長屋
裏長屋の狭い路地を子供が七、八人、つむじのように駆けてゆく。
師走のならいも何のその。どぶ板を踏み抜き、ごみ溜めをひっくり返し、洗濯物を抱えたおかみさんを突っ転ばして、尻をまくられ、パン、パン、パン。
三人ばかりワッと泣くやら、ギャアギャアいってる赤ん坊を背負った、鳶の女房が裸足のまんま飛び出して、目ん玉が飛び出たおかみさんと行儀がどうの躾がこうの、唾を飛ばすやら引っ掻き合うやら。
「うるせえなあ――」
勝五郎は欠伸をしながら、むっくりと起き上がった。まだ酒が残っている。
「おちおち寝てもいられねえや」
「なに言ってんだい。あんた、いい加減に起きとくれよ」
ちょうど九尺二間の裏店に帰ってきた女房のおせんが、
「ちょいと、いま何時だとお思いだね」
「何時だ」
「もう夕七つだよ」
「なんだ、夕七つか――よく寝たな」
師走の夕七つは、いまの午後三時過ぎにあたる。
「すると、おいら昼のまんまを食いそこねたわけか」
「いまごろ起きて昼のまんまって――呆れたね、この人は」
おせんは溜め息をついた。
「だいたい昼のまんまは、元々お百姓さんの《おやつ》じゃないか。朝から働くお百姓さんなら、そりゃあ疲れて何か食べたくもなるだろけどさ」
江戸中期まで食事は朝夕の二度が基本だったが、農民は疲労回復のため《昼八つ》に間食をとる習慣があった。《おやつ》の起源である。
「それをなんだい、あんたときたら。今の今まで呑気にに寝ていて、昼のまんまもないもんだよ。紀州からきた今度の公方様だって、一日に三度も食べるのは威張ったお腹だって、家来のおさむらいを叱ってるって言うじゃないか」
最近の井戸端じゃア、そんな話もするのかい――。
と、渋い顔の勝五郎だが、おせんはなおも膝を詰めて、
「お殿様だってそうなんだよ。あんた、いったい何様だい? 寝てばかりの魚屋じゃないか。十日も仕事にいかず酒ばっかり。三度のまんまをいただく銭がどこにあるんだい」
「わかった、わかった。そうけんけん言うもんじゃねえ。いらねえ。ああ、いらねえよ」
ふてくされて、ごろりとなる。
「ちょいと。起きたばっかりで、もう寝ちゃ何にもならないじゃないか」
「ええ、寝ても起きてもうるせえやつだな。どうしろってんだい」
「仕事にいっておくれよ」
「う」
しかし、すぐに勝五郎は何食わぬ顔をして、
「ああ、仕事か」
「ああ仕事か、じゃないよ。空ッとぼけて白々しい」
「まあ、いかねえこともねえが」
「じゃあ、はやく支度しなくっちゃ」
「まあ待て、まあ待て。そう急くな」
と、あらたまったように座りなおした。
「いいか。慌ててしくじるような奴ァ半人前だ。ちゃんとした仕事ってのはな、きちんと拵えをして、それから始めるものなんだ」
「何が言いたいんだね」
「仕事にはいく。ただ、そいつは今じゃねえんだな」
頷きながら腕組みをして、
「思えば俺も悪かった。お前があんまりできた女房なもんだから、つい甘えちまってすまねえことをしたが、今のでくっきり目が覚めた。覚めたからには抜かりなく拵えをして、気持ちよく行こうと、そう決めた。ところがだ、商売道具は毎日つかってやらねえと臍が曲がるときてやがる。まあ二日ばかり手入れすりゃ機嫌も直るだろうから──」
「へえ」
ぐうたら亭主の口八丁に、てっきり怒りだすかと思いきや、おせんの顔には、どこか勝ち誇るような笑顔が広がっていくではないか。
「道具さえありゃ仕事にいくと、あんた、そう言いなすったねえ」
「――おう」
勝五郎は心をざわつかせながら、気味が悪そうに女房の顔を見返した。
「まさか二言がおありじゃないだろうね」
「まあ、そうだな。なんだ、その、道具があればよ」
「どうなんだい」
「二言はねえ。男が口にしたことだ」
「そうかい。商売道具ならね、ちゃあんと手入れをしておいたよ」
「なん――」
「何年、魚屋の女房をやったとお思いだね。包丁は研いである。盤台の糸底には水を張ってある。草鞋だって新しくしたんだから、さぞ足も軽いだろうよ」
「むむ」
「嘘だと思うんなら、見てごらん」
改めるまでもない。
おせんがこういう物言いをするときは、嘘やはったりはないと、勝五郎はよく知っていた。
それでも、なお抵抗を試みて、
「しかしだな。商売ってのは気の持ちようが大事なんだ。そうは思わねえか」
「あんた、まだ何かお言いかえ」
「いや、二言はねえ。二言はねえが、てめえで拵えて、よしと立ち上がるのと、何だかわかんねえうちに出るのとじゃあ、心持ちが違うってもんだ。わかるだろう」
「わからないじゃあ、ないさ。ああ、よくわかったよ」
おせんはじろりと勝五郎を睨めつけて、
「あんた、私を元の場所に返しちまおうって了見だね」
「なんだ藪から棒に。どっからそんな話になった」
先程の笑顔とはうって変わって、おせんは愁いのある微苦笑を浮かべ、
「いい夢だったねえ。親に売られたのが八ツの春。女衒に連れられ三日三晩。やっとこ着いた品川宿の旅籠で下働き。十四の頃からお客をとって、苦界に沈んで七年三ツ月。ある日、あたしを買ってくれた兄さんが、お前はもう十分に苦労した、年季明けなんて気の長えこと言わねえで、今すぐ身請けてやるからうちに来な。そう気っ風よく言ってくれた時には、とっくに諦めていた人並みの暮らしが、あたしにもできるんだって、あんたに手を合わせて泣いたっけねえ」
「そりゃまあ、俺もあんときは――博打で大勝ちしてよ」
気の大きいところを見せて、五十両を叩きつけたまではよかったが、その後がいけなかった。
棒手振りとして腕はいいのに、機嫌を悪くすると日のあるうちから酒を煽って、そのまま何日も呑んだくれてしまう。
そんなムラっ気のある勝五郎に、所帯を維持できるはずもなかったのだ。
それどころか。
昨年の大晦日など、掛け取り(集金)を死んだ振りでやり過ごすという、冗談のような真似をしてのけて、おせんも茶番劇の片棒を担いだのだった。
「それもこれも、いまとなっちゃ笑い話、あたしにとっちゃ大事な思い出さ。でも元の場所に返したくなっちまったんなら仕方ない、元々あんたに身請けてもらった身だ、何年か魚屋の女房ってやつを真似てみたのがお慰み、思い出を抱えてまた飯盛女もよかろうさ」
「ちょ、ちょ、ちょっと待てってばよ」
「でもこの歳じゃあ、薹が立って無理かねえ。それじゃアあれだ、夜鷹にでもなろうかね。あんた、あたしが橋のたもとで筵を抱えていたら、たまには情けをかけておくれかい」
「待たねえか、このあま!」
とうとう勝五郎が怒鳴った。
「どっからそんな話になったって訊いてんだよ、俺ァよ!」
「だって女房に苦労なんか、させないつもりだったんだろう? こちとら腕のいい棒手振りだ、親兄弟もねえ天涯孤独の身上だが、女房ひとり困らすような愚図じゃねえって、いせいのいい啖呵を切ったっけねえ」
「そいつは、お前、その――」
「確かに腕はいいよ、その気になった時にはね。だけどこのところ、すっかりやる気をなくして寝てばかり。つもりもその気もなくしたのは、あたしのことなんか、どうでもよくなっちまったからなんだ。ねえ、そうだろう?」
そっぽに向いたおせんの頬に、つうっと一筋、涙がつたった。
「おい、泣くなよ」
怒りが、たちまち萎んでいく。
すきま風が吹き込む九尺二間で、声を押しころして泣かれると、所在のなさもひとしおだった。
沈んだ空気を振り払うように、勝五郎は勢いをつけて立ち上がった。
「そうだ、思い出したぜ。実はよ、今日は商売に行こうと辰の野郎と話してたんだった。うっかりすっぽかしちまうところだったぜ。起こしてくれて有り難うよ」
おせんは俯いたまま、
「あんた、無理しなくていいんだよ。あたしはあたしで身の振り方を――」
「おっと、馬鹿を言うもんじゃねえ。こちとら寝ていても、商売のことはこれっぽっちも忘れてねえんだ。それに辰の野郎がひとりじゃ仕入れもうまくいかねえ、どうか助けてくんねえって泣きやがるから、仕方ねえなってんで約束したのが、そういや昨日だった。ちょっくら行ってくるから、源公が来たらお前も酒ばっかり食らってねえで、ちったあ世間並みに働いてお袋さんを安心させてやれって伝えてくんな。それじゃあ、頼んだぜ」
そう言い残して、そそくさと出掛けていく。
おせんは暫く耳をそばだてていたが、戻ってくる気配がないことを確かめると、
「やれやれ。世話の焼ける」
子供をあやした母親のようにひとりごちて、内職の準備にとりかかった。
世の中の表と裏を数多くみてきた彼女にとって、このくらいは芸のうちにも入らなかった。