其の三十三 怒るリリアナ
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魔神。イシュブルグは、偶然の産物だった。
創始者。リファエル=ルミルソンが、人々の生活をより豊かにしようと、召喚魔法陣で創造した結果、想定以上の絶大的な力を伴って生まれた、史上最強の魔生物。それが、イシュブルグである。
まさに、魔の神と呼ばれるにふさわしいほどの圧倒的な力。魔神は創始者の指揮下を離れ、暴虐の限りを尽くした。街を燃やし、人を殺し、人間達を恐怖のどん底に突き落とした。なにより魔神は、人の恐怖に怯える顔を見ることを、たまらなく好んだ。
しかし、魔神の横暴も長くは続かなかった。
創始者であるリファエルを筆頭に、何人かの魔術士が協力し、暴走を止めることに成功したのだ。
そのまま、召喚魔法陣を新たなものに書き換えて、消滅させることを誰もが提案した。
しかし、創始者のリファエルは頑として首を縦に振らなかった。
彼は優しすぎた。どんなに悪行を重ねた者も、それが、たとえ魔生物だとしても、改心することができると信じていた。
だから彼は、魔法陣をとあるランプに移して、その中に魔神を封印することを決めた。そして、そのランプ(急須)の表面を擦るだけで、封印が外れるような仕掛けを作った。
さらに、魔神が人のいうことを聞くようにする首輪の魔道具。『イビルリング』を魔神につけた。
それは、人間が魔神の力を利用できるようにするためのものであった。3回、人の願いを叶えることで、その制限を解除するような魔術が仕込まれた。
『人の役に立つことの喜びを知って、改心してほしい。そして、最終的には、自由になって欲しい』
そういう、リファエルの切なる願いによるものだった。
今から、約千年も昔の話である。
◇
ムラマハド王国の上空。分厚い雲の上には、魔封殿が宙に浮び、魔法陣発動のための準備が着々と進行していた。
「なーなーソバカス! まだかよー!」
その逆ピラミッド型の最下層。青白い光を放つ個室で、ジュウは不満げな顔をする。
「うるさいだわさ! こんだけの魔法陣、制御するだけでも難しいだわさ!」
魔術士。リリアナは額を汗に、制御台の操作盤をせわしく動かしていた。
現在。魔封殿はイシュブルグの魔力を検知し、その上空まで到達したところである。続いて、第一層。第二層。第三層の魔法陣を全て統括し、射出砲である円錐型の頂点に魔力を集結した後、発射しなければならない。そのためには、制御盤によって複雑な処理を行う必要がある。
多少時間がかかってしまうものの、魔封殿の下は、魔力感知妨害を兼ねたカモフラージュ用の大雲があるため、魔神は魔封殿の存在に気付かない。
そして、円錐の頂点から放たれた巨大魔法陣が、魔神の首につけられた『イビルリング』を照準として、一瞬にして魔神を拘束し、再びランプへ―――急須の想具。【王様遊戯】へ封印する。
はずだった。
「! 何だ。あれ !?」
ジュウは眉をひそめ、階下が透きぬけた床を見下ろす。
雲から、巨大ななにかが姿を現した。
黒色の体。全長八メートルの巨体と、ターバンととんがり靴を履いた、アラビア風の格好。
魔神。イシュブルグが現れた。
「え !? な、なんで…… !?」
リリアナは困惑し、動揺する。
イシュブルグの形相は必死そのものだった。そして猛然と、白い雲の尾を引いて、魔封殿に向かって突き進む。
魔神の狙いが、魔封殿の破壊であることは明らかだった。
しかし、それを防ぐ手段も、時間もなかった。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおお !!」
空を劈くイシュブルグの咆哮。その巨大な右拳を、射出口に向かって振り上げた。
そしてなす術もなく。
三角錐の射出砲は、粉々に砕け散った。
そして、魔神の右腕はそのまま貫通し、ジュウ達のいる個室まで到達した。
「うわあああ!」
「キャアアアアア!」
二人は部屋の端まで走り、中央から突き出た拳をギリギリで回避する。その瞬間。部屋中を駆け巡っていた魔力は、火花を散らすように激しく光った後消えて、透過していた壁や床も、もとの無機質なタイル張りに戻った。
部屋中に瓦礫の残骸が飛び散る中、ズズズズッと音を立てながら、突き出た拳がゆっくりと引き抜かれていく。
後には、直径2メートルほどの大きな穴ができていた。
「ハァ……ハァ……ハ、ハハハハ! 肝を冷やしたぞ! 危うく、再び封印されるところだった!」
低く、おぞましい声が、穴の下から聞こえる。
魔神。イシュブルグが声をあげて笑った。
「残念だったな! 名も知らぬ魔術士よ! ここが雲ひとつない土地でなかったら、成功したかもしれぬものを!」
彼らのいる領域。砂漠の領域には雲が存在しない。
故に、魔力感知妨害用の雲は不自然そのもの。イシュブルグが魔封殿の存在に気づくのも無理はなかった。
魔神は雲を抜けた先で、封印魔法陣が展開される巨大な建造物をはっきりと認識。すぐさま標的に映したのは、その巨大魔法陣を射出するであろう、三角錐の頂点だった。
現在。それは完全に大破。
魔神を封印する手段は失われた。
「そ、そんな……」
リリアナはガクリと膝を地につき、うなだれる。
しかし、ジュウは事の重大さを知らないようで
「あー! おまえ、あん時の巨人だろ! 色違くても分かるぞ!」
穴の縁から階下にいる魔神を覗き、言い放つ。
「んん?……ああ、あの時の小僧か。死んでいなかったか」
「おい! ナニワは、今どこにいるんだ !?」
ジュウが眉を吊り上げて、叫ぶ。
そこで、イシュブルグはやや間をおくと、なにか面白いことを思いついたように、邪悪な笑みを浮かべた。
「……ああ。あの妙な喋り方の小僧か。そいつなら、この辺りの砂漠にいるだろう」
「え! 本当か !?」
「ああ。じきに消えてしまうがな……!」
そう言って、魔神は左手から、光り輝く球体を生成する。
「 !? な、なにする気だ !?」
「あの小僧、おまえにとっては大事な者みたいだな。それを消されたとき、おまえはどんな顔をするのだろなぁ……?」
ニヤァと。口の両端を引き伸ばし、狂気的な笑みを向ける。
その様はまさに邪悪。その一言に尽きた。
「わしは運がいい……解放されて、さっそくこんな真近で、人間の絶望にひきつる顔を拝むことができるとは……楽しみだ……!」
「………!」
言葉の意味に気づくジュウ。
魔神は左手の球体を掲げて、階下を見下ろした。
カモフラージュである魔力を含む雲は消え去っていて、城の全体を一望できた。雲は、制御室にある魔道具によって統制されていたが、魔神の攻撃によりその部分が破壊され、雲は周囲の空へと霧散してしまったのだ。
そして、左手の球体がみるみる大きくなり、やがて直径3メートルほどの大きさになる。
「や、やめなさい! そんな横暴! ルミルソン一族の名において、許さないだわさ!」
リリアナはたまらず、穴の縁から叫ぶ。
「ほう……あの憎き男の末裔か……。面白い。おまえは後でこのわしが直々に殺してやる。復活の余興には十分だ」
球体の光の輝きが、最高潮に達した。それはまるで太陽のように、膨大なエネルギーが渦を巻いて収束されているようだった。
「まずは、その小僧の絶望に満ちた顔を堪能せんとなぁ……!」
邪悪な笑みと共に言い放ち、左手を振り下ろそうとする。
その時。
「うおあああああああああああああああああああ !!」
怒りの形相。ジュウが穴から飛び出し、イシュブルグへと飛び掛った。
「! ジュウ !!」
リリアナが叫ぶのと、ジュウの右足がイシュブルグの左腕に激突するのは、ほぼ同時だった。その攻撃によって、投げ放たれた球体は見当違いの方向へと向かった。
球体が白い尾を引いて、広大な砂漠へ。それが次第に遠ざかり、小さくなっていく。
そして
ズギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアン !!
大気を震わせる轟音と共に、巨大な半球体の爆発が、その砂漠一帯を飲み込んだ。
核爆弾をイメージさせるほどの、すさまじいエネルギーだった。爆発によって砂漠にぽっかりと大きな穴が開いた。その結果、一望される巨大な地下空間が、その破壊力を物語っていた。
これにはおもわず、ジュウでさえ言葉を失った。
その一瞬の隙が、致命的な状況を招くこととなる。
「小僧! 余計な真似を……!」
イシュブルグは、空中で身動きのとれないジュウを視界に収めると、その胴体を右手で掴んだ。
そして、怒りのまま、強く握り締める。
「ぐ、がああああああああ !!」
絶叫と共に、バキバキという嫌な音が鳴り響いた。全身の骨が粉々に砕けるような錯覚を覚える。
「どうした? 小僧。人間らしく命請いでもしてみろ。万にひとつの確率で助けてやるぞ」
苦痛に歪むジュウの顔を見ながら、イシュブルグは下卑た笑い声を上げる。
ジュウは
「……許さ、ないぞ」
苦しそうに、息を切らしながら、はっきりと言い放つ。その瞳は、怒りに燃えていた。
「んん? なんだって?」
イシュブルグが聞き返し、ジュウは叫ぶ。
「俺は、友達を傷つけるやつを、許さない! 覚悟しろ! 真っ黒!」
口から血を流しながらも、イシュブルグを睨みつける。
魔神は一瞬。間をおくと、
「……フフッ! フハハハハハハハ!」
高らかに笑う。
「今のおまえに何ができる! 空も飛べない、人間の小僧が!」
叫び、その握った手に、より一層力を加えた。
「ギ…! ギャアアアアアア!!」
ニワトリが首を絞められるかのような断末魔。彼の中で、ボキボキボキという無機質な音が鳴り響く。
すでに、体の感覚がなくなっていた。
「何が許さないって? ええ、小僧ぉ……」
苦痛の顔を覗くようにして言う。いよいよ、激しい激痛に、ジュウの意識が途切れかける。
その時、
空から一陣の風が巻き起こった。
それはカマイタチとなり、ジュウの胴体を握るイシュブルグの手首を両断した。
「…………!!」
目を剥くイシュブルグ。出血も苦痛も無いようで、魔神は平然とした顔で、そのカマイタチがやってきた方向を見る。
魔術士。リリアナ=ルミルソンが、空飛ぶ絨毯に乗って、魔神を見下ろしていた。
その手には、ヒョウタン形のうちわのようなものが握られている。魔法陣をその表面に描くことで、自由自在に風を操れる魔道具である。
魔神の左手の握力から解放されたジュウは、空中で切断された左手と分離。そして、遥か下方へと落ちていく。
「ジュウ !!」
リリアナが慌てて、助けようと絨毯を空中で滑らせる。
しかし、魔神はそれを許さなかった。彼らの間に割り込むように入って、進行方向を防ぐと同時に、巨大な右腕を振り回し、攻撃をしかけた。
リリアナはたまらず絨毯を急旋回。腕をすべるようにして間一髪で回避した。
気付くと、ジュウはすでに視界から消えていた。
「………ジュウ………!」
リリアナはしばらくの間呆然と、階下を覗いた。
助けるには、もう間に合わない。
「……ふん。この高さでは助かるまい。残念だったな。リファエルの末裔よ」
嘲笑うように言って、リリアナをまじまじと眺めた。
「しかし、わしを封印しようとする者が、こんな冴えない、いかにも未熟そうな少女とはな。ルミルソン一族の威信も地に落ちたもの-----」
「うるさい。黙れ。呪うぞ……!」
魔神の言葉を遮り、静かな怒りを込めて、リリアナは呟く。
その体は小刻みに震え、その顔も、強気な言葉とは対称的に、怯えた表情をしていた。
しかし、その瞳には強い意志が宿っている。
まっすぐと、イシュブルグを見据えた。
「……こうなったら、力づくで封印してやるだわさ! 来い! 暗黒の魔神イシュブルグ! このリリアナ=ルミルソンが、おまえの存在を否定してやる!」
相手は伝説の魔神。一個人が相対するには、大きすぎる力である。例えるなら、アリと象ほどの差がある。
力づくで封印するにしても、やはりそのためには、膨大な時間と準備が必要であり、その場しのぎでできるほど容易いものではない。
しかし、リリアナは魔神から目を逸らさなかった。
ジュウが落ちて消えてゆく光景が、頭に焼き付いて離れなかった。
魔神はリリアナと相対し、そしてニヤリと微笑んだ。
その瞳のない眼が、鈍く光る。
「遊んでやるぞ。リリアナ=ルミルソン。簡単に殺されてくれるなよ?」