其の三十一 魔神覚醒
時は遡り、王室内。
香川潤美は、かつてない危機感に襲われていた。
遠くでは戦士の絶叫と咆哮。武器が激突する音などが聞こえ、激戦が繰り広げられていることが分かった。隣に悠然と座る稲原の腕に、すがりつくようにしがみついている。
「大丈夫だって。心配すんなヨ。潤美」
震える香川を、茶化すように言う。
香川は唯一の武器である【我侭放題】を失くし、対抗手段は腰に備えられたナイフのみである。彼女は戦闘能力としては皆無であり、今はただの一般人となんら変わらない。この状態で襲われたら、ひとたまりもなかった。魔神が外敵を殲滅してくれることを確信してはいるが、万が一ということがある。
なにより、長年頼りにしていた想具を失くし、喪失感と不安感でいっぱいだった。
(……なんであんな見渡しのいいところに、設置しちゃったの……!)
香川は己を呪う。一階・城の中心に設置するのが一番条件が良いとしても、外敵が来る心配はないとしても、もっと目につかない場所へ置くべきだった。
【我侭放題】がブロックに飲みこまれて、電子音を鳴らして消えてゆく瞬間が、網膜に焼き付いて離れない。
そこでふと、
(………?)
なにか大切なことを忘れているような気がした。
香川はもう一度、脳内で【我侭放題】が消滅していく様子を再生する。
ブロックが次々と現れ、回転し、落ち、繋がり、
やがて【我侭放題】の棒磁石の部分が―――
(―――そうだ!)
香川は稲原の腕から離れて、勢いよく立ち上がる。
「……? どうしたんだ?」
稲原は怪訝に、彼女の顔を覗く。
彼女の表情は、次第に喜びの表情へと変わっていく。
「さいちゃん! ちょっと行ってくる!」
「お、おい! どこ行くんだよ !?」
稲原の動揺もよそに、香川は走り出した。正面の階段を勢いよく駆け下る。
あまりにもうっかりしていたとしかいいようがなかった。
磐台の表面に矩形の穴を開け、そこにはめ込むように棒磁石を固定していた。それはちょうど半分を境目に、N極が突き出す形になっている。
【臆病な英雄】で消された部分は、それだけにすぎない。
つまり、【我侭放題】のS極はまだ残っている。
磐台の中に埋まったS極を使用し、再び『敵』と類似する単語を言葉にすれば、この戦いも終わるのだ。
想具のために、なにより稲原のために、香川は世界30種ほどの言語を熟知している。その『ワード』を導き出すのは容易なことだった。
一階の台座に向かって走りながら、彼女は脳内の検索エンジンをかける。万が一、外敵が襲ってくることも考えながら、細心の注意を払って進んだ。
しかし、それは杞憂に過ぎなかった。
外敵は悠然とその台座の前に立ち、襲い掛かる様子はなく、ただ彼女を見つめていたのだ。
一階中央。台座の前。
武町正義がそこにいた。
「……あ、あああ…… !!」
体を震えさせる香川。足がすくんで動けなくなった。
正義がすでに王宮内に侵入していたことについて、動揺したのではない。
正義の手に、【我侭放題】が握られていたのだ。
「……ふう。やっと取り出せた。完全に石の中に嵌っているから、手持ちのナイフで削り出すしかなかったよ」
正義は余裕の表情で言いながら、【我侭放題】をまじまじと眺める。台座の矩形の穴には、手で持つスペースを作るためか、縁に沿うような彫り跡があった。
正義は怯える彼女に、鋭い視線を投げつける。
「悪人といえども、できれば女の子は傷つけたくないんだ。大人しくそこをどいてくれるかい? 僕が用があるのは、稲原だけなんだ」
無表情のまま、内面に荒ぶる感情を抑えるように、正義は言う。
かつてない絶望感が彼女を襲った。
木戸の情報から、正義は体術の達人と聞いていた。同じナイフを持ったとしても、貧弱な筋力の彼女ではあらがうことは出来るとは到底思えなかった。それに加え、彼はあの、【我侭放題】を持っている。
勝ち目はない。
香川は思わず、足を一歩後退する。
しかし、そこでふと思い立つ
(……用があるのは……さいちゃんだけ……?)
その言葉の意味することは、つまり、
稲原だけは容赦しないということ。
「…………!!」
香川はキッと、正義を睨み付ける。
傍に魔神がいるとはいえ、彼の敵とみなす者をそのまま見過ごせることは、彼女にできなかった。
二歩目の足を、やっとのことで押さえる。
体の震えが止まる。
(さいちゃんだけは……傷つけさせない……!)
強く、心の中で反芻し、彼女はナイフを取り出した。
「うああああああああああああああああああああ !!」
獣のごとく叫びながら、正義に向かって勢いよく駆け出した。ナイフを上段に構え、心臓めがけて突き刺す姿勢をとる。
勝算度外視。たとえ負けようとも。
ここで退くことは即ち、彼女自身の愛を否定することになる。
それに対し、正義は、冷静すぎるほどの対処だった。
正義は半身の態勢で、香川の突き出す右手を最小限の動きでかわすと、両手で彼女の右腕を持ち、自分の右肩の上に構える。
いわゆる、背負い投げの構えだった。
「……… !!」
彼女がそれに気付いたときにはもう遅く、次の瞬間、天地が逆転した。
突き出した勢いをそのまま利用し、正義は彼女を背負い、そのまま投げ飛ばした。それも、足元に落とすようなものではなく、その技名の体を表すように、彼の体から二メートル近く離れるように、頭を地に向ける状態にして投げ飛ばしたのだ。
それら一連の動きは、まるで最初から動きが読めていたかのような、流れるような動きだった。
ドシィン!という音と共に、床に叩きつけられる香川。
同時。
「! ………っ………」
意識を失った。
普通の背負い投げを素人が受けた場合でさえ、気絶は免れないといわれる。受身をまともにとれず、背中と頭に強い衝撃を受けるのも無理はなかった。
彼女のナイフが音を立てて、床に落ちた。
「………………」
正義はそれを一瞥すると、階段正面に向かい、歩き出した。
哀れみも怒りもなく、ただ無表情のまま歩き出した。
*
一方。王室。
稲原は香川を追いかけはしなかった。
彼女の身を案じてはいたものの、下手に動く事は不利を招く事態になる気がした。魔神は無敵に近い強さを誇るが、想具次第では無力に陥る可能性もある。自分の為にも、彼女のためにも、ここはじっと待つことにした。
しかし、その選択は間違いだったことを、後になって気付くことになる。
突然。辺りが静かになった。
遠くの戦の音が消え去り、気味の悪いほどの静寂が辺りを包みこんだ。
「…………?」
怪訝な顔で周囲を見回す稲原。
やがて、カツッカツッという足音が響いてきた。
階段の奥。そこから男はやってきた。
長髪。ネクタイの髪留め。体を覆うマント。
武町正義が現れた。
正義の顔には、微塵も感情の乱れはなく、ただ乾いた足音を響かせて近づいてくる。
稲原はやや驚いて椅子から立ち上がるが、すぐにその動揺は消えた。
魔神がいる限り、たった一人の人間が太刀打ちできるはずがない。
稲原はニヤリと―笑い、「よくここまで来たな」と、余裕ぶった台詞を言い放とうと口を開く。
しかし
「――――!!―――!?」
声が出なかった。
否。喉は確かに震えている。空気の振動が口内に伝わるのも感じる。
しかし、声がなかった。
正義は彼の前。五メートル程の位置で立ち止まる。
「僕の勝ちだ。稲原」
静かな声が聞こえた。
すなわち、稲原の耳がおかしくなったのではない。彼の声だけが、響いているのだ。
「―――!?」
稲原は必死に叫ぶが、やはり声は聞こえなかった。
その様子を見かねて、正義は静かに語る。
「魔神の攻略法は、もう何ヶ月も前に対策済みだった。あとはこれをつけて、おまえに近づけさえすれば、勝ちも同然だった」
すると、正義は耳元を指差す。
彼の耳にはイヤホンが入っていて、細長い導線が胸の前にぶら下がっていた。プラグの先に、音楽再生プレーヤーなどはない。
「砂漠で拝借した想具のひとつ。イヤホンの想具。【静観空間】。これをはめると、使用者が発する音以外、全ての音が遮断される。つまり、僕が聞こえる範囲全ての音が無くなるのさ。これならば、おまえは魔神に命令できない」
ここで正義は、ニヤリと笑う。
「―――!!」
稲原の顔が、真っ青になる。
最悪の事態が起こった。
魔神を凌駕するもの。それは、未知の力をもつ想具以外にない。
そしてその想具が、いままさに、目の前に現れた。
魔神は決して自発的に動くことはしない。命令されて初めて行動するのだ。普段は『ずっと傍を離れるな』という命令を忠実に守り、稲原の後ろに立ち、新たな命令があるまでずっと立ち尽くすのみである。
それは、主人である稲原が窮地の危機に陥ろうとも、同様だった。
稲原は魔神に向かい、命令を与え続けるが、やはり声は聞こえなかった。
ひどく融通が利かない。魔神唯一の弱点である。
「この日をどれほど待ちわびたことか……稲原。僕はおまえを許さない。罪を請う言葉や、恐怖の叫びすら、おまえには与えない……!!」
正義の顔に、はっきりとした怒りの表情が浮かび上がる。
そして再び歩き出すと、背中に背負った長刀をゆっくりと取り出し、それを目の前に掲げた。
銀色の鈍い光が、稲原の顔を照らす。
「~~~~~~~ !!」
稲原は恐怖に怯え叫ぶも、その声すら聞こえない
一年前までは、やせ形の体型で俊敏な動きを得意としていたものの、この一年間の自堕落な生活で、彼の体は肥え太り、すでにその面影は無くなっていた。
香川と同様に、常人となんら変わらない。さらに、彼のもとに武器はなく、完全に丸腰状態である。
死の恐怖が迫る。鋭く砥がれた剣は、まっすぐと稲原に向けられていた。
「~~~~~~~ !! ~~~~~~ !!」
稲原は顔を蒼白に、頬を涙で濡らす。そして崩れ落ちるように床にへたりこむと、顔を床ギリギリまで近づけるようにして、深く土下座をした。その縮こまった体はこれ以上はないというほど震えていた。
明確な謝罪の意思。口を限界まで開けて、喉を震わせながら、懇願して叫ぶ。その声は聞こえないが、内容はおおよそ予測できた。
『ごめんなさい』『もうしません』『許してください』
思いつく限りの謝罪の言葉を並べ立てているのが理解できたし、決して演技などでも、嘘でもないことが傍目から感じられた。
しかし、正義は容赦しない。
ゴシャ!
稲原の顔面に、正義の蹴りが鈍い音を立てて突き刺さった。
反りかえるように後ろへ吹き飛び、仰向けの状態になって倒れる。吹き出た鼻血が顔面を塗りたくっていた
正義はすかさず、彼の両腕を両足で強く踏みつけ、動きを封じた。
そして、剣先が彼の心臓に定められる。
正義の目は、普段の温和な性格からは考えられないほど、恐ろしく冷酷で、稲原を見下ろしていた。
「~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~ !!」
必死に暴れ、抵抗し、泣き叫ぶが、その全ての音は遮断される。まるでテレビの音声出力が切られたかのように、激しい動きだけが無様に表現されていた。
そして、正義は言い放った。
「呪うなら、君の不運を呪ってくれ。『魔神のランプ』を拾ってしまった、君自身を」
剣が、
稲原の心臓に突き刺さり、貫通し、その体を床に縫い止めた。
※
デカチョーが来たのは、その直後である。
稲原はかろうじて生きている状態で、体を激しく痙攣させているが、それもすぐに終わることが分かった。そのおびただしい血の池は、正義の足元まで達するほど、広がっていた。
「殺すことは……殺すことはなかっただろ !?」
満面の笑みを見せる兄にむかって、デカチョーは責めるように叫ぶ。稲原を貫いた時点で勝ちを確信し、【静観空間】を外していたため、彼女の言葉はよく部屋中に響いた。
正義は困ったような顔を浮べた。
「……仕方が無かったんだよ。愛誠。僕達が助かるには、これしか手が無かった」
「……? どういう意味?」
「忘れたわけじゃないだろう? 僕達、現人は元の世界に帰れないんだよ。助かるには、魔神に願うしかない」
「………?」
首を傾げる。
「まだ分からないのかい? 魔神が叶えられる願いは三つ。一つ目は『僕を助けること』。二つ目は、『稲原が死ぬまで、願いを叶え続けること』。……そして今、稲原は死ぬ」
「!……まさか、そのために…… !?」
デカチョーは絶句する。
つまり、その三つ目に『現人達を現実世界に帰してくれ』と願うために、正義は稲原を殺し、二つ目の願いを強制終了させるつもりなのだ。
「けど……それでも……殺すなんて……………!」
彼女の知る正義は、温厚で争いを好まない性格である。虫を殺すこともできない彼が、このような行動を起こすなど、目の前にしても到底信じられなかった。
「大丈夫だよ。愛誠」
笑顔で言って、そして、さらに信じられないような言葉を、正義は言い放った。
「どうせここは別世界で、相手は悪人だ。殺したって、法には裁かれないよ」
「…………… !!」
それはかつて、稲原が正義に対して放った言葉と、ほぼ同義の言葉だった。
デカチョーは確信する。
目の前の兄は、もはや自分の知る兄ではない。
彼女は動揺を隠せず、ただ立ち尽くすしかなかった。
そして、正義の横に倒れる稲原の痙攣が止まった。
最期に、
「………う、るみ……」
と、最愛の彼女の名をぼそりと呟いた。
そして、首が横向けに倒れ、目の光は完全に失われた。
稲原が―――死んだ。
「……やっと死んだか。意外としぶといものだね」
最期の言葉を聞いてか、それとも聞こえずにか、彼はこともなげに見下ろしながら言った。
すると、傍らに立っていた魔神が稲原を無視し、彼の元を離れ始める。その様子を見て、二つ目の願いが終了したことを正義は確信した。
喜びに、両腕を広げて、魔神へと近づく。
魔神はしかめた顔で腕を組み、鋭い眼光で正義を見下ろしていた。
正義は、この日、この瞬間を何度も夢に見ていた。
思い立ったのは、半年前。【静観空間】を手に入れた直後である。
十九年、この世界に住み、元の世界への帰還を諦めた。
現実を受け入れ、今の暮らしに満足していた。
そんな訳、ない。
十九年前。高校三年生だった彼は警察官採用試験に合格し、都会の警察学校へ入学するために上京するはずだった。まだ見ぬ世界に胸を膨らませながら、夢へのステップを踏むはずだった。
その夢を、断たれた。
未練も後悔もありながら、どうしようもない現実を前に、「満足している」と自分を騙すことで心の安定を図るしかなかった。
だから、初めて稲原と会った時、『魔神のランプ』の能力を知ったときは、内心、飛び上がるくらいに喜んでいた。
今の環境に不満があると言えば嘘になるが、かといって満足しているわけでもなかった。
いつだって心の底では、現実世界の帰還を望んでいた。
だから、【静観空間】を手にしたとき、稲原を殺害するビジョンが真っ先に思い浮かんだのだ。
日に日に現実世界への渇望は大きくなり、そしてデカチョーと再会した時、それは最高潮に達した。
妹までも、この悲劇に巻き込むわけにはいかない。
彼女のためならば、人一人を殺すことなどは、惜しくない。
はっきりと誓い、決意を込めて、
彼はその手を汚した。
「…………」
魔神は黙って、正義を見据えていた。正義は大きく、はっきりと、言い放った。
「魔神よ! 僕達を……正義と、愛誠と、佐久間君と、その友達の天元君という子を! もとの現実世界に帰してくれ!」
それが三つ目の願い。その声は部屋中に響き渡った。
しかし、
魔神は返事をしなかった。
その代わりに、
「………クククク」
魔神は笑った。
口元を歪めて、低い笑い声をもらす。今まで見せたことのない、人間らしい仕草だった。
それと同時に、奇妙な変化があった。
魔神の紫色の体の各所から染み渡るように、黒色が魔神の体を覆い始めたのである。
そして、
「ハハハハハハハハハハハハハハ! フハハハハハ !!」
大声で笑い始めた。
機械的で無機質な面影はなく、口を大きく分けて、笑い声をあげた。
「な、なんだ………!?」
正義は突然の変化に戸惑いを隠せなかった。
動揺する彼に向かって、魔神ははっきりと言い放つ。
「……嫌だよ。バァカ!」
体中が黒色に染まり、首輪にぶら下がっていた宝石が、音を立てて割れた。