其の二十九 怪物の層
「アンタ。一体何者だわさ?」
第三層へと続く梯子を降りながら、リリアナは訊いた。
人間離れした脚力と腕力を真近に見て、いよいよ無視できなくなったのだ。そもそも、その質問は最初に訊いておくべきことだったと、訊きながら思う。
「? 俺はジュウだぞ?」
「そういうことじゃないだわさ! そもそも、アンタ人間かどうかも怪しいだわさ! どこからやってきたのさ!」
「御供市からやってきたぞ」
「? ? オソナエシ?……聞いた事ないだわさ。もしかして、海の向こうにある国?」
ここでリリアナは、声をわずかに弾ませる。海外にはかねてから興味があり、いつかは行ってみたいと思っていた。
「? 御供市は、海はわりかし近いぞ」
「……いや、それはただの港町ってことだわさ」
会話が噛み合わなかった。
これ以上訊いても無駄な気がして、再び黙りながら梯子を降り続ける。前回と同様に、相当な長さの梯子である。
そして五分後。梯子を覆う狭い竪穴から抜け出した。
「うおおおお! すっげえ!」
ジュウがそのフロアを見下ろして、すでに何度目か分からない興奮の叫び声を発する。
そのフロアは床から天井まで約二〇メートルと高く、周囲の壁が光り輝いていて真昼のような明るさだった。フロアの形がピラミッド外形に沿って、逆台形型になっているのがはっきりと分かった。
その間を、細長い梯子でひたすら下り、二人はようやく床に足を下ろした。
そこには何もなかった。
面積は学校の体育館の半分程の広さ。継ぎ目のない、ただ平らな石床が広がるのみである。リリアナは再び攻略書を取り出して、本を広げた。ルミルソン一族に伝わるこの本さえあれば、大抵の罠は攻略することができるのだ。
しかし
「………あれ?」
ページをめくって、リリアナは首をかしげた。
第三層。つまり、現在いるフロアに描くべき魔法陣がどこにも示されていないのだ。それどころか、そのフロアに関する攻略方法が何一つ書かれていなかった。
「………もしかして、ヒントなしで進めってこと?」
他人に書を盗まれることを懸念して、あえて記さず、一子相伝の口語りでもって、なんらかのヒントを伝えているのかもしれない。そう考えた。
しかしそもそも、彼女の両親は幼いころに病気で亡くなり、今や顔も思い出せない。もちろん、聞き慣らされた言葉などひとつもない。もし両親がその言葉を残し忘れたというのならば、絶望的だった。
(……どうしよう……)
リリアナが腕組みをして悩んでいると、
「おぉい! なんか見つけたぞ!」
ジュウがいつのまにか壁際にいて、なにかを指差して呼びかけた。リリアナがそこに向かう
そこには、小さな魔法陣が描かれていた。
手のひらサイズの大きさの魔法陣。それが薄く彫られている。光に照らされて、遠くからでは気付きにくいようになっている。
しかもそれはひとつではなく、壁に沿って延々と、何十個も並んでいる。外周全てにそれがあり、総計で百を猶予に越える数だった。
それを眺めて、リリアナにひとつの推測が浮んだ。
「………もしかして、この中のどれかが本物の魔法陣…?」
気の遠くなるような考えだった。
百以上の内、正解のひとつを導き出す。これは彼女にとって不可能だった。
そもそも魔法陣というのは、術者個人の性格やクセが際立つものである。同じ種の封印魔法陣を描くにしても、描く術者にとって何通りも分けられる。
つまり、正解を導き出せるのは、術者本人。伝説の魔術士、リファエル=ルミルソン以外にいない。推測はできるかもしれないが、彼女では力量不足であった。
従って、これら全ての魔法陣を、順に床に描いていくしかない。
「……またしんどくなりそうだわさ……」
思わず、フゥと深くため息をつく。
第一層。第二層共に、正攻法でなく、半ば無理やり、ジュウの体力・膂力頼みになっている。それに続き、第三層でも、面倒くさい、回りくどい方法を取らざるを得なくなって、さすがに創始者リファエルに対し、申し訳なく思い始めた。
正統な後継者ながらに、情けなくなってきた。第二層に至っては、ジュウがいなかったら死ぬところだった。
そんなことを憂鬱に思いながら、真近にある魔法陣を見て、それを羊皮紙に模写する。
そして、フロア全体を見回した。
(……これなら大丈夫そうだわさ)
心中で呟き、巨大なバックからあるものを取り出した。
木の棒である。長さ30センチ程。その先の、半球形で黒い部分を持つと、軽く振り回した。
すると、木の棒内部に収納されていた、いくつもの筒状の棒が展開し、一メートルほどの長さになった。
「うお!かっけぇ!」
ジュウの感嘆の声をよそに、リリアナは展開された棒の先端を手に持った。そして、黒色の部分を床に押し付けて、それを引き擦る。
すると、まるで鉛筆のように、床に黒色の線がはっきりと写し出された。
魔法陣を描く魔道具。魔筆杖。
小サイズで持ち運びしやすく、手軽に魔法陣を描けるのだが、綺麗で平らな面でしか効果を発揮しないというのが欠点である。
リリアナは紙に模写した魔法陣にしたがって、魔筆杖を引き摺り続ける。
「なぁ! 今度は俺、なんかやんなくていいのか?」
少し嬉しげに、ジュウが呼びかける。
「この広さならアタイでも大丈夫だわさ。それに、複雑すぎて素人じゃ苦労するだわさ。そこで大人しく見てるだわさ」
と言われて数秒後、ジュウは仰向けになって、いびきをかき始めた。
何時間も魔法陣を描かされて体力を消耗したのもあるが、大人しく見ているということは、彼にとって無理難題な要求であり、そう自覚した彼はそのまま眠りに落ちたのだ。
リリアナはそれを一瞥しつつ、ため息を入れると、再び描き続ける。
約1分後。魔法陣は完成した。
リリアナは魔法陣の中心に移動すると、そこに描かれた小さい円に掌を置いた。
そして、魔法陣を発動するための呪文を唱える。
「ヒヒリッパ、ルルソ、イグニグス」
「ムニャムニャ……バカじゃねーかおまえ」
「寝ながら反応するな!」
思わず赤面してツッコむリリアナ。ジュウの眠りは浅いため、聞こえてしまったらしい。
直後。魔法陣全体が光り輝き始めた。リリアナは急いでその場を離れ、魔法陣の外へ出る。
輝きが最高潮に達した直後。変化は起こった。
しかし、それはリリアナの期待するものではなかった。どころか、まったく予期せぬ反応であった。
魔法陣中央。
そこから、まるで地面から透き出るように、化物が出現したのだ。
「…………!!」
思わず、絶句するリリアナ。
その化物は、狼のような鋭い牙を持ち、体毛が真っ赤。額に牛のような角が生えている、狂犬だった。
その赤い犬はグルルゥとうなり、尖った牙を見せ付けて、召喚者、リリアナを鋭く睨みつけていた。
それを見た直後。リリアナは自分が描いた魔法陣が、どのようなものであるかを理解した。
召喚魔法陣。魔力を素に、仮想の生物を創りだす魔術である。
かなり高度な魔術であり、魔術全盛期の時代は多用された術。その生物は、魔法陣の組み込まれた術式に従って行動するといわれる。
そして、この場合に降された召喚生物への命令術式は、
『召喚者を殺せ』というものだった。
「キャアアアアアアアアアアアアアアアア!」
リリアナが恐怖に叫ぶのを引き金とするように、赤犬が襲い掛かった。他に見向きもせず、一直線に迫ってくる。
魔術士は、様々な能力を使うことができるが、それはそれ相応の準備があってである。このような突然の外敵からの攻撃というのには対処できないのが欠点であり、彼女も例外ではない。
従って、リリアナは混乱し、慌てるしかなかった。
初めてみる未知の生物に、その獰猛さに、足が震えていた。
そして、彼女の手前。赤犬が口を大きく開け、両足跳びで跳びかかった。
鋭い犬歯が、彼女の顔面に迫る。
その時だった。
ドグンッ!
鈍い音が響いた。
いつの間にか目を覚ましたジュウが、赤犬のわき腹を思い切り蹴飛ばした音だった。
“ギャウン!”
赤犬はかなきり声を上げると、煙となって消えた。低レベルの召喚生物は、多大な重傷を負うと消滅するようになっている。
リリアナはフゥと、安堵のため息をついた。
「た、助かっただわさ。ありがとう」
「いったいあれ、なんだったんだ?」
ジュウが煙に消えた様子を見て、不思議そうに首を傾げる。
「……どうやら本物以外の魔法陣は、全て召喚魔法陣らしいだわさ。」
「! 召喚? スッゲー! じゃあ、あの犬も、魔法陣から出てきたのか?」
「そのとおり………! ちょうどいいだわさ。アンタ、これからアタイが魔法陣描き続けるから、出てくる召喚生物、さっきみたいにやっつけてくれだわさ」
「おお! これなら面白そうだ!」
眠気はすでにふっとんで、意気揚々と賛成した。
魔法陣の形式を見るに、召喚される生物はさっきのような小型から中型のものが大半らしいことが分かっている。ジュウの力量ならば、百以上のものを相手にするとしても余裕であると判断した。
そして、リリアナはさっきの魔法陣の隣の魔法陣を同様に模写する。その間、ジュウは第一フロアでも活躍した雑巾でもって魔法陣を消す。そしてまた同様に魔法陣を描き呪文を唱えて発動させた。
二人はこれを繰り返して、次々と魔法陣を描き続けた。呪文を言うたびにジュウが笑い出し、リリアナのフラストレーションが溜る一方ではあったが、それでも着実に、魔法陣を描き続けた。
その数が40に達した頃。
「ん?」
壁に、何らかの文章が彫られているのに気付いた。
魔法陣に紛れて小さい文字で、2行の文字でこう書かれていた。
『過去を見据え、今を生きよ』
『さすれば未来が開ける』
「ふぅん。リファエルの格言だわさ。なかなかいいこと言うけど……今は振り返りたくない過去ばかりだわさ……」
流し目にそう呟く。第一層や第二層での失態はもちろん、いままで街でしでかしたあらゆる失敗が頭に浮んだ。振り返っても、自己嫌悪に陥るだけである。
すこし憂鬱な気持ちで、隣の魔法陣の模写に取り掛かった。
その横で、ジュウが腹の虫を大きく鳴らした
「なぁ。そばかす……俺、腹へってきた。今度出てくるヤツ食っていいか?」
「食うのか !? あれを !?」
※ ※
そしてついに
残りの魔法陣一個を残すのみとなった。
「……どんだけついてないだわさ……」
ここまでおよそ三時間。ずっと魔法陣を描き続けて、リリアナの疲労はピークに達していた。ジュウも腹がへって力が出ないようで、後半は目に見えるように苦戦していた。
しかし、残りは一個。
最後の最後まで正解を残すことになり、自分の不運加減にうんざりしてくる。ともかくとして、リリアナはその魔法陣を描き始めた。
杖を魔法陣の中心において、呪文を唱えた。魔法陣全体が光り輝く。
「やれやれ……ようやくだわさ……」
正解を確信して、リリアナが呟く。
しかし、
それは正解ではなかった。
もともと、正解など初めから存在していなかった
「?……え……?」
リリアナは魔法陣の外から呆然とする。
その魔法陣も、召喚系の魔法陣だった。
しかも召喚された生物は
獅子のようなたてがみと尾をもった、身の丈10メートルはあろうかという、大型四足生物だった。
10メートルとはつまり、足から背中までの高さ。人間をまるごとのみこめるほど巨大な頭。鋭い牙と爪をもち、背中にはワシのような大きな翼を持っていた。
そして、金色の瞳で、リリアナを鋭く睨みつける。その生物に与えられた命令はもちろん、
『召喚者を殺せ』
「ひぃ!」
リリアナが顔を引きつらせて、小さく悲鳴を上げた。蛇ににらまれたカエルのように、目をそらせられない。絶叫すら上げられない。
(ありえない………! この魔法陣も、それほど高度なものでないはず。こんなものが召喚されるはずが……)
冷や汗を滝のように流しながら、チラリと魔法陣を見る。
そして、気付いた。
それは、模写した魔法陣とは異なるものだった。
とどのつまり、間違えた。
運の悪いことに、巨大な魔生物を召喚する魔法陣を描いてしまったのだ。
(うああああああ! アタイのバカアアアアアアア!)
涙を滝のように流す。叫ぶと刺激するかもしれないため、心の中で心の限り叫んだ。
しかし、後悔する暇はない。すでにその獅子が前足を振り上げて、攻撃態勢に入っていたのだ。
リリアナは逃げようとするが、足がすくんで動けない。
恐怖が彼女の体を支配していた。
そして、振り上げられた前足が、彼女めがけて振り下ろされる。
しかし、
ズゴオオン!
振り下ろされた爪がリリアナの後方の壁を切り裂いて、彼女は難を逃れた。
ふと見ると、ジュウが獅子の下から突撃して、腹に蹴りを放っていた。
獅子の四肢が宙に浮いて、照準を外したのだ。
ジュウの右足が腹に深く減り込み、獅子は苦しそうに顔をゆがめる。ジュウはそのまま、獅子の体毛を掴んで、体をよじ登った。
「ジュ、ジュウ! 無茶だわさ! いくらなんでも、そんなでかいの! 相手どれないだわさ!」
「平気だよ! このくらいでかいの、今まで何匹も相手にしてきた!」
余裕の表情まで浮べて、言い放つ。
「そして、コイツを食う!」
「まだ言うか!」
ジュウの口からよだれが垂れていた。
獅子は、胴体をよじのぼる者が、自分に攻撃した外敵と気付いて、身を震わせて振り落とそうとする。召喚者よりもまず、その妨害者を優先し始めたのだ。
胴体を激しく震わせ、また、翼をはためかせて叩き落そうとする。しかし、ジュウはしっかりと体毛を掴んで離さなかった。
いよいよ獅子は頭にきて、その体を激しく壁にぶつけ始める。
「うおっと!」
しかし、ジュウは背中に飛び乗ることでその難を逃れた。
四足生物の背中は、十分な死角となる。爪も牙も届かず、逃げ場としては最良の場所だった。
獅子は完全に頭に血がのぼり、無茶苦茶に頭や体を壁にぶつけ始めた。知能はそれほど高くないらしい。
やがて、壁に大きな亀裂が生じる。
「キャー!! キャー!!」
リリアナは悲鳴をあげながら、被害を避け、逃げ回っていた。
そして
ゴゴゴオオオン!
何度目かの激突で、壁の一部が破壊された。トンネル大の大きさの穴があいて、そこから外の景色が見える。
すると、獅子は、その穴をくぐりぬけると、外に飛び出した。翼を大きく広げて羽ばたかせ、広大な空を飛び回る。
外に出るために故意に穴を開けたのではない。穴があいたのは偶然であり、敵を振り落とすには、大きな空間で激しく揺さぶるしかないと本能的に思いついたのだ。
戦闘機並の速さで、上下左右。バクテン、きりもみ回転。とにかくがむしゃらに飛び回る。
「うっほおおおおおおお!」
しかし、そんな常人なら即失神するようなGの中、彼はまるでジェットコースターを楽しんでいるかのように、背中にしがみついていた。
*
一方。リリアナは、獅子が外に飛び出て視界から消えるのを確認し、ようやく安堵のため息をついた。
ジュウには気の毒であるが、ここは彼の強さを信じて、このまま獅子の気をひきつけてもらおう。そう考えた。
(死んだら死んだで………墓くらいは作るだわさ)
命の恩人にもかかわらず、彼女はあまり悲観的にはならなかった。
とりあえず、今重要な問題は他にあると考える。
魔法陣はこの壁の中には存在しなかった。ならば、正解はどこにあるのか?
リリアナは考える。攻略書には何も示さず、また、口語りで伝えたものでもないとすれば、このフロアの攻略はその場で可能ということだ。
(つまり、攻略のヒントはどこか近くにあるはず……)
魔術士にとって、優れた知能は最も大切な要素のひとつである。
巧妙に隠されたヒントを見つけて理解することで、攻略者の知能を試そうとしているのかもしれない。魔神と相対するにあたって、その程度の魔術士の資質がないと危険だという、創造者の判断があるのかもしれない。
リリアナは周囲を見回して、ヒントとなりそうなものを探す。
そして、ふとそれを思い出し、そして見つけた。
魔法陣の列の中。唯一の異質。リファエルが書き残したと思われる、二行の文。
(『過去を見据え、今を生きよ。さすれば未来が開かれる』……か……う~ん……憂鬱になるだわさ……)
腕を組みながら考える。
少しブルーな気持ちになりながら、彼女はなんとなく、今まで描いた魔法陣を眺める。さすがに何回も描いたり消したりを繰り返したため、わずかに消し跡が薄く残っているのが見える。
それを見て、
(……! ……もしかして……!)
彼女は閃いた。
それと同時。
ドグアアン !!
轟音が鳴り響いた。
フロア上空の壁に、獅子が頭から激突した音だった。
上半身が壁から突き出していて、苦しそうにもがいている。
その獅子の頭の上。たてがみを掴んで、ジュウがひょっこりと顔を出した。
「よっ! ただいまー!」
暢気な声を上げて、リリアナを見下ろした。
「ばっ……バカ! もう少し気をそらすだわさ! せっかく魔法陣がわかったのに……!」
直後。獅子の体全体が、壁を通り抜けた。壁の一部がガラガラと音をたてて落下し、床に激しく叩きつけられる。
再び、フロアが危険地帯となってしまった。
“ヴォロオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!”
獅子は低重音たっぷりの雄たけびをあげて、その威圧感をビシビシと伝わらせる。
そしてふと、獅子の視界にリリアナが入った。
その瞬間。殺すべき優先順位が再び入れ変わった。
姿の見えない敵よりも、姿の見える敵である。獅子は勢い良く落下し、召喚者であるリリアナに向かって大口を開けて襲い掛かる。
その牙は柱のように太く、口の奥は暗闇のように深い。直撃すれば死はまぬがれない。
だが、
「ふんぬ!」
ジュウが頭を思い切り引っ張りあげ、あごを上げさせることで体勢を崩す。獅子はリリアナの頭上をかすめて、壁に激突した。
リリアナは、獅子が苦しそうにもだえるのを見て。
「ジュウ! 時間をかせぐだわさ! その間にアタイがなんとかする!」
「分かった!」
了解するジュウ。すると、リリアナは魔筆杖を構え、その黒色部分を床につける。
獅子は再び暴れまわり、狭い室内を激しく飛び回っていた。再びリリアナを視界に捉え、襲いかかろうとすると、
「うおりゃ!」
掛け声と共に、ジュウは獅子の翼の根元を激しく引っ張り、姿勢を崩す。たまらず、獅子があらぬ方向へ墜落した。
これを繰り返し、リリアナを危険から避け続けた。
現在の脅威を回避する方法は三つ。
ひとつは獅子に多大なダメージを負わせること。しかし、いかにジュウの腕っ節が強くても、巨大な獅子を倒すのは難しい。
ふたつは、魔法陣に解除呪文を唱えることである。しかし、これも魔法陣を特定するのと同様に、解除呪文には製作者の個性が強く影響しており、他人では解明できない。彼女にとっては不可能である。
ゆえに、もうひとつの方法に頼らざるを得ない。
それは彼女がこれから行おうとしていることと重複していた。
(……一石二鳥ってやつだわさ!)
リリアナが行うことは、ごく単純なことだった。
ヒントとなったのは、文の前半部分。
『過去を見据え』
これは、魔法陣の描き跡のことを指している。
つまり、百余りの魔法陣全てを重複したものが、真の魔法陣だったのだ。
今思うと、描いた魔法陣は全てある部分において酷似しているパターンが多かった。
従って重複している部分が多く、全てを重複した場合、できた描き跡も含めて『魔法陣』と評価できるほど自然なものになったのだ。
ゆえに、あとは床に残された魔法陣の描き跡に沿って、『魔筆杖』をなぞらせるだけである。
これにより新たな魔法陣が形成され、最後の道―――『未来』が切り開かれる。
これは、召喚生物を消滅させることにつながる。
魔法陣を消しても、実は召喚生物はなくならない。魔法陣は、世界と召喚生物を繋ぎとめる鎖のようなものであり、魔法陣を消すと制御が効かなくなり、暴走する可能性があるのだ。この狭い室内で暴れられると、生死に関わる恐れがあった。
しかし、魔法陣を別の魔法陣に変えた場合、『鎖』は全く別のものとなり、魔力の波長を混乱させ、その結果、召喚生物を消すことができるのだ。
例えるならば、電化製品に誤った操作をした場合、本体に負担がかからないように非常停止が発動することと似ている。
つまり、この正解の魔法陣を描くことで、獅子を消滅させると同時に、最後の道が現れるのだ。
リリアナは獅子の動向と、時折迫る落石にも注意しながら、今度は間違えないよう、迅速かつ慎重に魔法陣を描く。
そして、魔法陣が完成した。
あとは中心の円にて呪文を叫ぶのみである。
リリアナが魔筆杖を構える。
その時だった。
獅子が壁に激突した拍子、背中で翼を操作していたジュウの頭に、石の塊がぶつかった。
「ふがッ!」
目の前が一瞬、火花のように点滅した。必然、握力が弱まり、翼からジュウの両手が離れる。
獅子はこれを機に、体を揺さぶるとジュウを振り落として、リリアナに視線を合わせた。
そして、恐ろしく鋭い爪を見せて急降下。リリアナを襲う。
「…………!」
リリアナの血の気が引いた。
杖は魔法陣中央に置かれ、あとは呪文を言うのみ。
呪文を言い終わるのが先か。それとも、獅子の爪が彼女の肉を裂くのが先か。
爆発しそうな鼓動を抑え、
そして、
獅子が煙となって消えた。
間一髪。爪が彼女の目の前に迫ったところで魔法陣が発動し、中央から梯子が現れた。
同時に、ジュウが落下して床に激突する。
「………はぁ~……死ぬかと思っただわさ……」
リリアナは腰から砕け落ちて、その場にへたりこみ、ジュウは頭にできたたんこぶを痛そうに押さえていた。
※
最後の梯子は比較的短いものだった。
着いた先は薄暗く、狭い個室。より逆台形型が明確にわかる形のフロアで、広さは小学校の教室程度。天井から淡い青色の光が降り注いでいる。
梯子を降りた後、彼らは、床のタイルのある一枚が、光り輝いているのを見つけた。
リリアナが攻略書を読みながら、それに近寄る。
「……やっと辿りついただわさ……」
感慨深くそう言って、そのタイルに右手の掌を押し当てた。
そして、攻略書に示された呪文を言う。
「アッカ、キキ、イスムルク!」
直後。
床全体が光り輝くと、階下に見える雲を映し出した。
「! うわっ!?」
一瞬。床がなくなった錯覚に陥り、ジュウは驚き跳ね上がって、天井に頭を打ち付けてしまう。
言い放った呪文は、魔封殿発動の呪文。数百年の年月を経て、初めて魔封殿が起動したのだ。
そして、リリアナは続けて言う。
「我、ルミルソン一族の末裔にて、魔神『イシュブルグ』の封印を命ず。……リッカ、イキキシス、ムルファ!」
直後。魔封殿全体が大きく揺れると、モーター音のような起動音が部屋全体から響いた。
同時に壁の中を、無数の光の帯が乱雑に駆け巡る。魔神『イシュブルグ』の魔力を検知しているのだ。
そして一分後。
魔封殿が、ある一定の方向に向かって動き出した。
ジュウが吹き飛ばされた場所。広大な砂漠に向かって。
「うおおおお! すげえええ!」
床に映し出された階下の景色が、すさまじい速さで流れる。
「ジュウ。気を引き締めるだわさ」
魔封殿が風を切り、大気を唸らせながら、真っ直ぐ進む。海を越え、ピサの街の上を通過していく。
「こっからが本番だわさ!」