色売る小鳥
百合注意。
私は、飼われている。
それは良く言えばサービス業というところであろうが、悪く言えば所詮売春である。今まで生きてきて、この仕事や生き方を批判し差別する多くの人と顔を合わせてきた。けれど私には人々のそんな侮蔑に似たものを向けられようともさして気にはならなかった。――どうでもよかったのだ。物心つく前に拾われ、ひとつの商品として育て上げられた私にとって、この光景こそが自身を形作る世界であり、一生続く日常であったから。
私が一生を過ごすであろう遊郭、『極楽鳥』は、都最高級の遊び場であった。訪れる客は王侯や貴族ばかり。客たちは店に飼われている女、『小鳥』の時間や身体を買い、彼女たちと遊ぶ。
この店には特殊なシステムがあり、客は、来訪数や家柄、財産、年齢などで、小鳥は若さと美しさ、教養や特技で、それぞれ格付けされている。小鳥の最高位である『カナリア』には、一般の客は顔を合わせることすらできない。彼女と顔を合わせることができる最低条件は、客も同位であること。つまり、客の格付け最高位、『キング』であらねばならないということである。カナリアの女と数時間遊ぶだけで、平均的な商人の年俸程度が飛んでいく。身請けしようとすれば、城一つ二つほどの値がつく。この程度の額を難なく払えるキングのみがカナリアにつり合うとされている。
更に、上位五位までの小鳥には『セキレイ』と呼ばれる付き人が付く。セキレイは小鳥の世話や仕事の管理、雑事を担当している。しかし彼女たちの最も大きな仕事は、籠から逃げ出そうとする小鳥や、脱走を唆す客を取り締まることである。見せしめに腕や脚を折ったり、時には命を奪ったりすることもある。「恋教え鳥」とも呼ばれるセキレイにあまりにもそぐわない、皮肉のような仕事が課されている。
「お時間です」
控えめな声が格子の向こうで聞こえた。セキレイである、ナジェーズの声。がちゃりと開いた扉の先には彼女の柔らかにはにかんだ顔。鎖がついた脚で立ち上がり、ぎこちない笑顔で彼女を迎え入れる。明るい癖のある茶髪に腕を伸ばすと、やんわりと遮られた。行き場をなくした腕が彷徨う。ナジェーズは酷く傷ついた顔をした。垂れた犬耳が見える。そんな顔をさせたかったわけじゃないし、今傷ついたのは私の方だ。
「今日は誰の所に行けばいいの?」
「今日は…………」
淀みなく、すべらかに口をついて流れ出す言葉に耳を傾けつつ、彼女を見詰める。黒い制服が良く似合っている。この地方では珍しい青緑の眼で鋭く見詰められるのも、寒さのせいか薄桃に色づいた耳も、くるくるとよくまわる口や、軽やかに動く手脚も、年の割に落ち着いた考えをしているところも、その癖無謀で考えなしに行動するところも、可愛らしくて、好きだ。――ただひとつ、
「ねえ、考えてくれましたか、ヴェンツェさん」
商品である私の腕を握って、爪を立てて、こうやって、ぎらついた眼で言うときを、除けば。
また始まった、と頭を抱えて溜息を吐くと、ナジェーズは潤んだ眼で私を見上げた。
「逃げましょう。私と一緒に。今日のキングは、とんでもない、……嗜好の持ち主です。私はもう、あなたに怪我なんかさせたく、」
「馬鹿。セキレイが口を出すことじゃない」
彼女は瞠目して、開きかけていた口を閉じた。セキレイは、小鳥の脱走を防ぐ者。脱走を唆してどうするの、と戒めの意味を込めて言ったつもりが、予想外に重く受け止めたようだ。彼女は仕事用の言葉遣いよりも、下町の女のような下品な口調が好きらしい。その証拠に、薄っすらと口元が笑っているのを見逃すとでも思ったのだろうか。
「ほら、枷」
内心、溜息を吐きつつ手足を差し出すと、ナジェーズは跪いて恐る恐る手を伸ばし、私の素足を取り、足首に、
「気持ち悪いことしないで」
口付けようと、した。脚を振り上げたせいで鍵を取り落した彼女を見下ろす。重たい鎖の音がやけに大きく響いた。暫く無言で、鍵が解かれる音だけが流れていた。鎖が床に落ちる。幼い頃から、その時だけ、何故か自由になれたような気がする。椅子から立ち上がり、ナジェーズが差し出した手を取る。赤い服の裾を持ち上げたが、彼女は一向に歩き出そうとしない。顔を覗き込むと、思いの外真剣な顔で、
「さっきは、申し訳ありませんでした。でも、諦めませんから」
あの鋭い眼つきで、低く、囁かれた。身体が熱くなる。それを必死に押し殺して、
「これ以上の違反行為は、支配人に報告する義務がある」
「あなたにはできませんよ」
くつりと笑って子ども扱いしたことに、苛立った。大人げないなと思いながらも、出てくる言葉を押さえることができない。
「今日のキングとこれからずっと遊ぶことにする」
楽しげにそう言ってやると、途端にナジェーズの眼が揺らいだ。彼女の手はいつの間にか解かれ、前を向いていたはずの身体が、私に向き直っている。あ、と思った瞬間、視界が真っ黒に堕ちた。
「……そんなこと、いうの、……やめて」
弱々しい声が頭上から降って来る。ふわりとした胸の暖かさを頬で感じる。たかが一言で、こうやってぎらぎらした彼女を屈服させ、怯えさせることが出来る――そんな子供じみた優越感に少しだけ浸り、震える身体を、あやすように撫でてやる。
「もう、わたし、ヴェンツェさ、死なれ……ら、いきて、いけな……」
途切れ途切れ、嗚咽と交ざって聞こえる彼女の声を、もう聞きたくはなかった。
「私はそう簡単に死なない。それに、私が一人のキングと2回会ったことあった?」
「なかった、です……」
冗談めかして言うと、ナジェーズはぐずぐずと鼻を鳴らした。私に会うまでに莫大な金を落としておきながら、1回の逢瀬で切り捨てられる貴族。それが支配人の意向だとしても中々哀れなもんだなぁ、と思っていると、彼女はそっと私から離れた。彼女の、その子供のような体温を恋しいと思ってしまったけれど言わないでおく。
ナジェーズが一つ手を鳴らすと豪華に飾り立てられた子供たちが出てきた。この少女たちは将来カナリアとなるべく育てられている、いわば私の後継者である。しゃらしゃらと小気味の良い音を立てながら廊下を歩くと、客は勿論のこと、小鳥ですら私を振り返って見る。おきれいですよと嫌味っぽく言うナジェーズは嫌いだ。
店を出ると大袈裟なくらいに飾り立てた四頭立ての馬車が待っていた。その前には気取った出で立ちで佇んでいる『キング』ーーシャルコフ侯爵。金髪碧眼で若く、薬指に黒い指輪、貴族には珍しく鍛え上げられた身体を持つ……、噂通りだ。ナジェーズは眉を顰めた。私の手をより強く握りながらも先へと促す。
「御機嫌良う御座います、シャルコフ侯爵様。本日5時間のお相手をさせていただきます、カナリアの……」
「挨拶は後だ。まずは乗れ。ああ、そこのセキレイは店へ帰ってくれ」
ナジェーズはわざとらしく大きな舌打ちをして、お辞儀もせずに侯爵に背を向けた。少女たちに手で合図をすると、彼女たちを従え、ヒールを鳴らして店の中へ消えて行った。ナジェーズに思いを寄せながら、命ぜられるままに馬車に乗り込む。外装と反対に中は暗いんだな、と呑気に考えていると途端に眠気が襲って来た。
「私のことは好きなように呼んでくれて構わない。ヴェンツェ、君のことはよく知っているよ」
「光栄です」
うまく動かない筋肉で精一杯の笑顔を見せる。侯爵は人の良さそうな笑みを浮かべた。
「唯一声を潰されていないカナリアだと、ね。今日もその声を存分に披露してくれるだろうね」
何のことか分からないが、兎に角小さく頷く。侯爵は私と目を合わせて、ゆっくり、1音ずつ、ヴ、ェ、ン、ツ、ェ、と柔らかに呼んだ。色のない眼に射抜かれ、全身の毛が逆立った。途端に頭が割れるように痛み出した。侯爵の手が私の手を握る。頭痛が下におりていく感覚。咽喉を通り、胃の奥から何かがせりあがってくる。
「……っうぇ、……っ⁈」
ゴツゴツした硬いものが、胃から押し出され、食道を通って、咽喉奥まで、
「うえええっ……」
ごとごとごと、と重たい音を立てて何かが口からこぼれ落ちた。鈍く光るそれを緩い動作で拾い上げて口付ける姿を滲んだ視界で見ていた。
「これが、名高い」
吐瀉物をまじまじと見つめられて、ひどく羞恥を感じた。侯爵の掌に握られている赤と青、それから黒色をした宝石。
これが、目当てか。キングの情報網を舐めてはいけない、と支配人に言われ、私の相手は殊更よく吟味して選ばれているはずなのに。危ない、と脳の奥で警鐘が鳴る。
「ヴェンツェ、これからよろしくお願いします、ね」
吐き気が収まらない胸を押さえて小さく咳き込む。目の端から涙が出た。頬を伝って流れ、落ちた瞬間、それはピンクダイヤモンドに変わっていた。嘆息しているのかなんなのか、侯爵は何も言わない。
無理やり顔を上げて、どうしたのですか、と聞こうとしたけれど、もう体が動かなかった。
薄れていく視界で、脳の奥で、ひどく他人事のように手脚と首に重しをつけられ、鎖が巻かれていくのを感じていた。
それから先はもう覚えていない。気がつけば店の豪華すぎる医務室のような場所に四肢を括り付けられて寝かされていた。とにかく、頭が痛い。
「カナリア様が、お目覚めです」
控えめな声が聞こえた。椅子を蹴倒したのから思い音が耳に入った。霞んでいる視界で、柔らかな茶髪が見える。ナジェーズだろうか。
「ヴェンツェさん、聞いてください。あなたの身体は、ボロボロです。骨折5箇所、ひび7箇所、もう、脚、は、……」
震える声の出る方に、手を伸ばした。あたたかいものが掌を包む。時折降ってくるぬるい水滴はきっと彼女の涙なのだろう。ぼんやりと、私はまだ働けるだろうか、と考えていた。
「もう、 逃げましょう……‼︎ あなたが客を相手するとき、無傷で帰ってきたことなんてなかった。だから支配人様はあなたを、外に出したがらないのでしょう……? ねぇ、何か言ってください……」
悲痛だと、他人事のように思う。彼女の思いは人としてもっともなことだ。けれど私はこの仕事を失う訳にはいかない。
私たちは、いつまでも交わらない線の上に立っているみたいだ。いつだってこうじゃなければ良かったと願い、逆さまの世界を望んでいる。
「今日は、あの子……、そう、サラームに字を教えなきゃいけない。オルマ様を呼んで、私の服を取って来て」
支配人の名前を出したら、彼女は声を殺して泣き始めてしまった。私はナジェーズの泣き顔に弱い。どうしていいのか分からず、ほらはやくと急かすと、ぐすぐすと泣きながら部屋から出て行った。
と思ったら、荒々しくドアを開けて戻って来て、泣き声で、
「ヴェンツェ、さ、い、色は……」
「私に似合うと思ったものでいい」
「青の、取って来ます」
別人のように張り切って出て行った。
ナジェーズは青が好きだ。なぜかは知らない。私に渡す服は青系が多いし、たまに、悪趣味な模様が入っているものもある。ぐにゃぐにゃした変な紋様。自分には似合わないと思っていても、彼女がにこりと笑って、凄く似合いますよと言うから着ているものが大半だ。本音はというと、黒が着たい。彼女とお揃いだから、という理由を伏せて頼むと、渋々1着だけ持ってきてくれた。もう1着、と言うと物凄い形相で断られたため、今は服に関しての口出しはしないようにしている。
『……海を見てみたかった。空をいつまでも仰いでみたかった。木々の揺らぎを、夜の美しさを、人の飾らない笑顔を、見てみたかった。何よりあなたじゃない誰かに心から愛される自分が欲しかった。でも』
声が聞こえた。たおやかな声。かつて自分にカナリアとは何たるかを教え、手本となってくれた、希代のカナリアと呼ばれた女性。10の頃、彼女のもとで手習いを終え、店に出ることができる年齢、15になる頃には彼女はもう居なかった。死んだのか、逃げたのか、身請けか、分からないが。
「姐さん……」
首が動かせる範囲で見渡してみても誰もいない。空耳だろうか。
備え付けの時計を見ると、ナジェーズが出て行ってから少し時間が経っていた。どうやら意識を失っていたらしい。
「夢、かな」
姐さんは、空が恋しいと願ってはいけないの、と誰ともなく呟いていた。飛ぶ力を失った小鳥は、いずれは1人で死ぬだけよ、と。それでも飛ぶことを諦めていないような人だった。柔らかい笑みのなかに、芯の強さを持ち合わせていた彼女のことだから、きっと、飛んだのだろう。自由の空へ。
窓から見える空は、怖いくらいに青かった。
「見ィつけた」
低い、背筋を這うような声。侯爵。四肢を縛られ、そうでなくとも動けないこの身でどうしろというのか。
「ここは立ち入り禁止区域です。立ち去りなさい」
精一杯の威厳と共に吐き出した声は情けないほど震えていた。
「いいや、5時間分きっちり働いて貰わないといけないのでね」
「この傷が癒え、完全な状態になればお相手いたします」
「それじゃあ遅いんだよ」
至近距離まで近づいて、ゆっくりと発音する。心底気持ちが悪いと思った。医務室のある病棟は、店から少し距離がある。基本的に病人以外の出入りはない。医師や医療従事者は事務室に居り、定時になれば見回りをする、それだけが仕事だ。カナリア専用の個室は医務室から最も近い所にあるのだが、医師を呼んでも侯爵の権力の前には平伏すだけだろう。
「何をご所望で? 私はこのように動けない身ですが、それでもあなた様にご奉仕できるというのでしょうか」
侯爵は顎に手を当てた。
「所望、ね。君を貰いに来たんだ、ヴェンツェ」
「身請けならば、支配人を通してお話し合い下さいませ」
「いや、支配人は君を甚く気に入っていてね。ちょっとやそっとじゃ貰うことはできないみたいだ」
はぁ、とわざとらしくため息をついて私を眺める。熱のない眼で射抜かれて、歯がかたかたと鳴る。全身から血が抜けて行くような感覚。侯爵の言わんとしていることは、はっきりと理解できた。
侯爵の手には短刀が握られていた。見覚えのある光を放つ宝石ーー私が吐き出したものだ。それを振り上げ、私に向かって、何の躊躇もなく、突き刺した。
「だから僕は、君を思い切り傷つけることにした」
声も出さず呻く。刺された太腿から血が滲んで、赤と黄に輝く宝石が転がり落ちる。
「君は体液を流すたびに、吐き出すたびに、宝石そのものに近づいているんだって、聞いたよ」
刺したまま、ぐりぐりと動かす。激痛に、声も出ない。
「聞くところによると、カナリアはーーーー」
また違う短刀で、腹を刺す。どくどくと脈打つ心臓音と、荒い息が脳の奥で響いている。
視界が霞む。意識が遠のいて行くのを感じる。侯爵の声すら朧げになる。
死ぬのかな。私は、ここで。ひとりで。こんな奴に蹂躙されて。でも私には、それがお似合いだ。
意識の端で、重い音が響いた。
『……海を見てみたかった。空をいつまでも仰いでみたかった。木々の揺らぎを、夜の美しさを、人の飾らない笑顔を、見てみたかった。何よりあなたじゃない誰かに心から愛される自分が欲しかった。でも、』
でも。
『でも……、本当はわかっていたの。愛されてたって。愛してたから。だから邪険に扱って欲しかった。わたしなんかのために傷つくことなんか、少しも望んじゃいなかった。籠の中の鳥でいい。羽根を捥がれたって生きていける。あなたのためなら見世物にでもなれる。滑稽に踊って歌うことだってできる。この身体が欠けてもいい。心だって誰かのものになってもいい。わたしにとっての、……愛って、こういうものなの』
ああ、それならいっそ、ここで死んでも、いい。
突然、いきてくれと希う彼女の顔がまっさらなスクリーンに映し出される。大粒の涙を零しながら、何かを喚いている。私の手を握って、しきりに何かを伝えようとしている。ああこれは夢だ。死ぬ間際に見る夢だ。私の望みが、全て詰まった都合の良い夢だ。
ならば私も、最期くらいはいいだろう。
「……海が、見た、かった」
水面に投げかけられた石のように、言葉は心臓の奥深く深く沈んで行く。
「空を、仰ぎ、たかっ、た。木々、の揺らぎ、を」
口の端から丸い、柔らかな塊が溢れ、声にならなくなった。息ができない。柔らかな黒が視界の端で泳いでいた。
「片付けろ」
鮮明な声が左耳から抜けた。大勢の人の気配。侯爵のものではない声。
「ヴェンツェさん、起きて、目を、覚まして、くだ、さ……‼︎」
うっすらと目を開けてみるものの、視界を埋め尽くすほどの鉱石でなにも見えなかった。
「セキレイ、そこの小鳥をどうにかしろ」
「とうにか、とは……まさか」
毛が逆立つほどの殺気が、私のすぐ横から滲み出る。それは、背筋を凍らせるようなものではなかった。慣れ親しんだその殺気に、私はひどく安心していた。
「窒息しかけている。眼もそのままにすると失明する」
鉱石の涙を取り除いてもらうと、男衆の後姿と、医療関係者と、ナジェーズが見えた。侯爵の姿はどこにもなく、ただ仄かに鉄の臭いがしていた。身体がひどく熱い。
「扉の前に見張りをつけろ。中にはセキレイが常時待機だ。分かったな」
そう言い残し、重たい音を立てて歩いて行った声の方を見る。見覚えのある白髪に、ボルドーのコートを羽織った男が、扉の前で、ひどく冷淡な眼で私を見ていた。
言葉も無かった。なにも出て来なかった。左の手に握られていた黒い塊を見、それから男の顔を眺める。彼の、ーーオルマ支配人の言いたいことはもうわかっていた。静寂を保ったまま、支配人が部屋から出て行く。涙が出そうになる。泣くまいと努めるのに精一杯で、その間ナジェーズが何を言っていたのかなんて全く聞き取れなかった。
支配人がいなくなると、ナジェーズは私に覆いかぶさって泣き、嗚咽を漏らした。
「あのー……」
控えめに声をかけても反応がない。
「あの、ナジェーズ?」
名前を呼んでも、何も返ってこない。
「いい加減、泣き止ん、で!」
自由に動く唯一の足で、彼女の腹当たりを蹴り飛ばした。ぐ、と息をつまらせるような音が聞こえて、はっとした。強すぎたのかな。
「ヴェンツェ……さん……?」
真っ赤に濡れた目元が、私を覗き込む。私の名前を唇だけで呼ぶ。震える指が私の輪郭を、ゆるりとなぞる。それだけで、息が零れた。
「生きて、くれた……」
ただ、とにかく、言葉もでないほどに、美しいと思った。いつものぎらぎらとした、鋭い、ぞっとするような美しさではなく、
「ヴェンツェさん、ヴェンツェさんっ……!」
もっと、、儚くて力強い、包み込むような美しさ。ほたり、ほたり、と頬に落ちてくるあたたかい水を感じていたい。
ふとナジェーズの顔に影が落ち、あ、と思ったときには遅かった。額に柔らかな感触。目元に落ちた癖のある茶色。そっと顔が離れ、私の目を覗き込む。
「い、いま、何……」
自由にならない腕を懸命に動かすと、彼女は頬を桃色に染め上げて言う。
「おでこにキスしました」
ふわりと笑う彼女を見上げて、泣く気も、怒る気力も、消え失せた。不快感なんてあるはずがない。やっと触ってくれた、嬉しさが優った。
額にばかり口を付けられる。されるがままは気に食わない。少しだけ意地悪したい気が起きた。
「ナジェーズ、これ、はずして」
すぐに拘束が解かれ、自由になった両の腕で彼女の後頭部をぐっと掴んだ。変な声をあげて瞠目したナジェーズの鼻に噛み付く。鼻を抑え、身を引こうとしたナジェーズの頭を固定したまま、睫毛が触れ合いそうなほど近くで見詰め合う。そのまま唇をくっつけるだけのキスをしてやると、ぶわ、と真っ赤になってしまった。今度は強請るように舌を出して彼女の唇を撫で、今度は噛み付くようにキスをした。
「な、なななな……っ⁉︎」
「素人にされるがままなのを、カナリアが良しとすると思う? 舐めてるの?」
挑戦的に唇の端を舐める。ナジェーズはがしがしと頭を掻いて、私の肩を掴んだ。
「何」
腹から顎までのラインを人差し指で撫で上げると、不意に手を掴まれた。
「煽ってんですか……!」
「うん。まあ」
「何でですか、からかってるんですか? やめてください、こんなときに」
「からかってない。むしろ、こんなときだから」
思いの外、思いつめたような声が出た。ナジェーズの腕を掴んで、出来るだけ軽く、言う。
「抱いて、ナジェーズ」
暫く、彼女は何も言わなかった。押し寄せてくる羞恥を堪えていると、ナジェーズは大きな溜息を吐いた。
「明日、理由くらい聞かせて下さいよ」
「今言ってもいいよ」
髪を撫でながら言うと、ナジェーズはひどく性急な動きで脚の拘束具をも解いた。私をひょいと抱え上げ、ドアを乱暴に蹴って開ける。品が無いと指摘すると、あなたに言われたくありませんと反撃された。
「こっちに集中させて下さい、私なんかが、あのカナリア様を相手にするなんて信じられない!」
とか何とか訳の分からないことを叫びながら私の部屋へ向かって軽やかに走り出した。
「よく疲れないね」
「そりゃ、ヴェンツェさん軽いですから」
私をベッドにそっと寝かせ、彼女もその上に乗り上げると、緩んだ包帯を巻き直してくれた。痛み止めか何かのお陰か、痛みはほとんどなかった。
「素人の癖に生意気」
「その素人を誘ったのはカナリア様でしょう」
「うん。だから満足させろとは言わない。私で、楽しんで欲しい」
彼女の背中に腕を伸ばして、重たい脚を上げて、絡みつく。1、2、3。3秒だけ見つめてから、口を開く。
「ほら」
余裕なんて消え去ったその眼で奥まで射抜いて、何も考えられなくして欲しい。
「カナリアが、自由になる条件がある」
「あるんですか」
後朝とは思えないほど張り詰めた空気の中。ベッドで向かい合って脚を絡ませている2人がする話じゃないのはわかっているが、どうしても今したかった。
「あるよ」
「なんで早く教えてくれなかったんです」
拗ねる顔も悪くないなと思えるほどに、私は彼女に堕ちてしまっているらしい。
「知りたい?」
四つの音を舌の上で転がして、言うか散々迷って、声にした。
「ええ、勿論」
淀みのない答え、それだけで十分だと思えた。
「カナリアを自由にする条件は、恋人がカナリアを不完全な状態にすること。……それから、恋人をカナリアが不完全な状態にすること」
「どうして」
「売り物にならないカナリアに価値はないから」
努めて明るく言うと、ナジェーズは苦い顔をした。
「それが、あなたを救う、唯一の、」
そう言ったきり、黙り込んでしまった。やはり無理だと言い出すだろう。私の一部を損なうことはできても、自分の一部を損なうなど考えてもいなかったのだろう。当たり前だ。柔らかな頬を撫で、髪に触れた手をナジェーズが掴んだ。やめて欲しかったのかと伺うように見ると、ナジェーズはぞっとするような目つきで私を見ていた。何を言われるのか、少しだけ怖い。
「目で良いですか」
だから、次に飛び出した言葉に心底驚いた。
「え……?」
「だから、目。抉れます?」
「なぜ、抉る、の……?」
「話を聞く限りは、相手が心底好きな部位を切り落とす、損なうのが目的だと考えられます。ヴェンツェさん、あなた私の眼が好きでしょ」
「うん、眼も、好きかな」
「な……まったく……」
彼女はいきなり顔を背けてしまった。それきり何も言わなくなってしまったナジェーズに、後ろから腕を回す。と、吐息だけの囁きが聞こえた。
「眼、片目、抉るか、潰して下さい。あなたがくれる物は何だって、私にとって良いものなんですから、心配したり、怖がらないで」
「そんな、私は……」
言葉に詰まり、ナジェーズを見上げる。彼女は綺麗に微笑んでいた。唇を噛み締め、ナジェーズの首に吸い付く。奇声を上げて恥ずかしがる彼女は凄く可愛い。
「私、も、ナジェーズに、私の好きな所をあげる。もうさっきみたいには出来なくなるかもしれないけど」
「分かりました。じゃあ、お互い完全なうちに、」
「今日は好きにしていい」
「本当ですか? 本気にしちゃいますよ」
目を大きくして嬉しそうに部屋の奥を指差す。
「あー……アレは、やめて」
「言いましたよね。私の好きにしていいって」
ナジェーズは、反故にするのは駄目ですとぎらぎらした眼で言い、棚に行こうとベッドを下りた。慌てて上体を起こし、彼女の名前を呼ぶ。
「ナジェーズ、今構ってくれないなら1人で満足する」
自分の胸を掴み上げ、腹に手を伸ばすと、ナジェーズはベッドに勢いよく飛び込んだ。
「見ててあげるから、1人でする?」
「断る」
「はいはい、カナリア様の命令には逆らいませーん」
彼女は私の脚を大きく上げて、その指先に唇を当てる。唇をつけたまま、するすると上に上っては、また足首まで戻る。
「生意気」
触られていないもう片方の脚でナジェーズの腹を突つく。痛み止めが切れたのか太腿に激痛が走るが、今は気にしていられない。
「酷い」
笑ながら抱き合ったのなんか、初めてだった。
嬉しくて涙が出た。
愛していると言われる度に、言う度にただ、幸せを感じていた。
『……海を見てみたかった。空をいつまでも仰いでみたかった。木々の揺らぎを、夜の美しさを、人の飾らない笑顔を、見てみたかった。何よりあなたじゃない誰かに心から愛される自分が欲しかった。でも……、本当はわかっていたの。愛されてたって。愛してたから。だから邪険に扱って欲しかった。わたしなんかのために傷つくことなんか、少しも望んじゃいなかった。籠の中の鳥でいい。羽根を捥がれたって生きていける。あなたのためなら見世物にでもなれる。滑稽に踊って歌うことだってできる。この身体が欠けてもいい。心だって誰かのものになってもいい。わたしにとっての、……愛って、こういうものなの』
ああ、それでもただひとりのあなたから強く愛されたいと希うことしか出来ないならば、貫いてもいいのだろうか。その道を。
声を上げて愛していると伝えることの何と難しいことか。そっと唇に乗せて転がした音霊を、彼女は満開の笑みで受け止めてくれた。それだけで、充分じゃないか。
今あなたと在ることがどれほど尊いか。あなたと過ごした日々がどれだけ愛おしいか。
もう、判って、いる。
ありったけの思いを込めて、あいしていると口にする毎に、唇の端から宝石が零れ落ちる。それは以前のように私を傷つけることはない。ただ、輝きを持った鉱石が、言葉に乗せて生まれるような、そんなものだった。
ナジェーズは初めのうちは口から零れる宝石を見て顔を真っ青にしていた。けれど、すぐに彼女は私に愛していると言い返した。飽きるまで私たちは愛していると叫び、互いをきつく抱き竦めていた。
○ ○ ○
明くる朝、宝石を吐き出すカナリアの女と、彼女に寄り添っていたセキレイの姿は籠の中にはなく、閑散としたその格子の奥には穏やかな陽が散り、沢山の宝石が敷き詰められていたという。
ここまでお読みいただきまして、ありがとうございました。
初の、ほかの作家様との企画参加でした。生温い目で見ていただけたら嬉しいです。