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体の中から音がします。
バリバリ、バリバリ。
白い猫は食べられます。
頭から尻尾の先まで。
どれだけの時間がたったのでしょうか、固く瞼を閉じた白い猫は、内側から響く音を聞きながら、暗い暗い闇の中にゆっくりと落ちてゆきます。
全身を周る痛みは、初めて味わう痛みと恐怖で真っ黒に彩られています。そうして、その中に僅かな感情を内包して。
ああ、死ぬとはこんなにも苦しい事なんだ。
閉じた瞼からは、次から次へと涙が零れます。
そして、零れた端から、温かいものが吸い上げてゆくのです。
それは、白い猫の涙一粒、血の一滴でさえ、勿体ないと言うようでした。
大きな波にもまれる葉っぱのように、
天と地が上下逆さまになり、自分の体がぐしゃぐしゃにされて、
小さな頭に体中の血が昇り、
小さな心臓がバクバクと激しく動いて、
そうして、頭が破裂して、心臓が壊れたと思いました。
破裂して、壊れて、そうして死んだと、そう思ったのです。
次に、白い猫は瞼を開けると、頭はしっかりと元の場所にあり、心臓は、規則正しく動いていました。
食べられて、無くなったと思った自分の体も、どこも欠ける事無く、存在しました。
右の前足で、左の前足を触ります。
左の前足で、右の前足を触ります。
右の後ろ足を、尻尾で触ります。
左の後ろ足を、尻尾で触ります。
四つの足は、どちらも、ちゃんとそこに、在りました。
食べられたと思ったのは、勘違いだったのだろうか?
死んだと思ったのは、思い違いだったのだろうか?
白い猫は、尻尾の付け根から、先っぽまで、右の前足で何度も擦り乍ら思いました。
食べられて、そうして、消えてしまったと思ったのに。
白い猫は、尚も、不思議そうに自分の体を見回します。
「見分は終わったかな。」
慌てて、背後を振り向くと、白い猫の寝ていた寝台の上に、黒い猫が横たわっていました。
何時からいたのか、白い猫はわかりません。
薄暗い光の少ない部屋の中には、先程まで白い猫しかいなかったはずです。
白い猫には不釣合いな程に大きな寝台は、ですが、黒い猫が横たわるには少々手狭な様子でした。
長い尻尾を、タラリと床に垂らしています。
「あ、あのいつから?」
「初めからだよ。お前の小さい眼が開いて、キョロキョロと部屋を見渡して、慌てて床に飛び降りて、そうして、脚の一本一本から、尻尾の先まで触って確認する所まで。全てだよ。」
それでは、目が覚めてから、今までの全てを見ていたと言う事です。
「黒いお方、見苦しい所を見せてしまってごめんなさい。あの、僕は食べられたんじゃないのですか?」
「食べたさ。頭の先から、尻尾の先まで。余すこと無く味わった。とても美味しかった、だから、一晩では勿体無いと思ったんだよ。これからも、よく味わいたい。」
黒い猫が、あの横にした三日月のように、口の両端を弓形に反らして、ペロリと大きな舌で口を嘗め回しました。
あの大きな舌で体中を舐められた事を思い出しました。
白い猫は、黒い猫の笑い顔にぶるりと全身を震わせて、僅かに毛を逆立てました。
これから何度も、あの痛みを与えられる事に恐怖を感じたのです。
ですが、その一方で、昨日まで傍にあった死から、逃れられてほっともしていました。
白い猫は、震える声で言います。
「黒いお方、ご主人様の御恩に報いるためにも、貴方が満足されるまで私を食べて下さい。」
「…ふん、それでは、お前の主は、今日からこの俺だ。存分に味わい尽くすとしよう。」
黒の影に浮かぶ、二対の目が、金色にピカリと光りました。
先程よりも、冷たい声でした。
この方は、こんな目をしていたのか。
昨日あれだけ間近でみたというのに、白い猫は今になって瞳の色に気付きました。
ああ、なんて綺麗な色なのだろう。
「不服か?」
白い猫が返事を返さない事を不服ととった黒い猫が言います。
「いいえ、それでは今日から貴方様を主様と呼ばせていただきます。」
「名で、名で良い。」
「しかし、」
白い猫は、この黒い猫の名前を知りません。
黄金の猫が、『闇』と呼んでいましたが、まさか白い猫がそのような事を口にするわけにはいきません。
黒い猫が、何を求めているのかわからない白い猫は、コテリと首を傾げました。
「お前が好きに付ければ良い。みな、勝手に呼んでいるのだ。」
「では、黒のお方…。では、」
黒い猫は、不機嫌そうに、長い尻尾を揺らします。
「…それでは…、琥珀様では?」
黒い猫の金色の目が、琥珀のように煌めきました。
白い猫が、森の中で見つけた、金色の石。
ご主人様への贈り物にした時に、その石の名前を教えてもらいました。
これは、琥珀と言うんだよ。長い年月をかけて樹液が塊り、そうして美しい石へと孵ったのだよ。
黒い猫の目は、あの時の琥珀のように美しく澄んだ色をしています。
「あの、お嫌でしたか?」
「いや、良い。それで良い。」
気付けば、目の前の寝台の上にいたはずの、黒い猫は居なくなっていました。
そうして、薄暗い部屋の中で、白い猫は独りになりました。
先程まで、広さを感じなかった石造りの部屋は、よくみると天井が高く、唯一の窓は、白い猫には届かない高い場所に、小さくあるのみでした。
寝台と、小さな台と、暖炉のあるその部屋が、とても広く感じます
急に、寒さを感じた猫は、慌てて寝台の中に潜り込みました。
不思議な事に、先程まで黒い猫が横たわっていたそこは、冷たいままです。
白い猫は、心細くて泣きたくなるような、懐かしい感情と一緒に眠りにつきました。
せめて、夢の中で、黄金の猫と仲間たちに逢える事を願いながら。