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その猫は、今にも死んでしまいそうな、ボロボロの猫でした。
お腹を空かせてガリガリと痩せた猫は、街から街へ、安住の地を捜しながら、ゴミ箱を漁り、軒先の魚を狙い、雛鳥に飛びかかっていました。
ですが、力の無い猫は、ゴミ漁りでは他の猫に追い払われ、魚を奪おうとして、店の者に摘み出され、親鳥に突かれ、気付けば、誰もいない森の中に逃げ込んでいました。
その不幸で貧しい猫は、ヨロヨロと森の中を彷徨い歩きます。
森の獣の音に驚き、臭い草の中を避けながら、気付かないままに森の奥深くに入り込んで行きました。
ああ、僕はここで死んでしまうのだろうか。
暗い森の中、空腹で、視力も悪くなった猫は、目的の無いままに前に進みます。
自分でわかっているのです。
ここで立ち止まれば、そこで死んでしまうのだと。
不幸な猫には、そもそも死が何かはわかりません。
だけど、命を持って生きている者には、死は避けて逃げるものなのです。
猫はただ歩きます。
死から逃げるために、一歩、一歩、暗い森の奥へと。
そうして、殆ど見えなくなった視力が、急に明るく開けた場所に出たのでした。
それは、急で、一瞬何が起きたのかわかりませんでした。
それ程、急だったのです。
猫は慌てて、今来た道を振り返ります。
しかし、猫の歩いてきた暗くて寂しい道は見当たりませんでした。
あるのはただただ明るくて、とっても暖かい空間でした。
僕は夢を見ているのかしら。
先程まで、ふらふらと歩けなくなった四つの足が、少し元気になったきがします。
空腹で、痛みを訴えていたお腹が、なんだかぽかぽか優しくなったきがします。
ぼんやりとしか見えなかった目が、明るくはっきりと周囲を映し出しています。
そこは、春の日差しがきらきらと、そして鮮やかな緑の葉がさわさわと、踏みしめる地面がふかふかとした場所でした。
不幸で貧しい猫は、こんなに美しくて優しい場所は初めてでした。
いつも、寂しくて悲しくて、惨めで、とても暗い気持ちで過ごしていました。
猫の寒い心が、ほんの少しだけほんわりと暖かくなりました。
僅かに元気になった猫は、引き寄せられるように、前へ進みます。
前方から、暖かな光が零れている気がしたのです。
先程まで、聞こえなかった、楽しそうな笑い声が聞こえてきます。
あそこに行ったら、ご飯が食べれるかな。
ボロボロの猫は、この不思議な場所の事よりも、お腹を満たす事を考えました。
「おや、珍しいね。随分と痩せた猫じゃないか。」
貧しい猫の前に、とても大きくて立派な猫が現れました。
それはとても立派で、そしてとても美しい猫でした。
美しい黄金色の長い毛を持つその猫が、とても優しい声で語りかけてきました。
「よくここまで来れたね。お前はとても幸運な猫だよ。さあ、新しい仲間だ、皆持て成してあげなさい。」
黄金の猫が、ふさりと長くて素敵な尻尾を揺らすと、いつの間にか、貧しい猫の周りを、幾つもの猫たちが囲んでいました。
みんな、毛並みの良い元気そうな猫達でした。
「いらっしゃい、お腹は空いていないかな?」
「獲れたての魚があるよ。」
「随分と、毛が乱れているね、僕らで梳かしてあげるよ。」
「とても細い体をしているね、寒くは無いかい?暖かい藁を持って来よう。そこに入って休むといいよ。」
「美味しい山羊の乳があるよ、甘い果物は好きかい?」
次々に猫達が、貧しい猫に話しかけてきます。
他の猫からこんなに優しい言葉をかけられて、戸惑いました。
貧しい猫は、いつも他の猫に追い立てられ、ようやく捕まえた餌を奪われ、狭い箱の中で襲われるばかりで、こんなに優しくされたのは生まれて初めてだったのです。
どうしたらいいのかわからない猫は、ただ流されるように猫達に運ばれて、体を綺麗に拭われ、澄み切った小川で喉の渇きを潤し、まだピチピチと跳ねている魚を食べて、暖かい藁の中で丸くなって眠りました。
目が覚めたら、きっとこんな楽しくて幸せな夢は覚めてしまうんだろうと思いながら。
だから、目が覚めても、大きくて美しい黄金色の猫と、その周囲を元気に跳ね回る他の猫達を見て、それが夢では無いのだと、漸くわかったのでした。
貧しくて、不幸な猫は、初めて幸せを知ったのでした。