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笑いっぱなし交差点

作者: 藤本乗降

 新美武夫にいみたけおは暗闇に包まれた町をトボトボと歩いていた。そろそろ冬がやってこようとするこの時期、肌寒い大気が安っぽいトレーナーと茶色く汚れたズボンしか身につけていない新美青年の皮膚を震え上がらせる。車は時々思い出したタイミングで車道を走りぬけ、町の通りには彼以外に歩いている人物は見当たらない。それもそのはず、今の時刻は深夜三時である。新美青年はなぜこんな真夜中に外に出歩いているのだろうか?

 答えは単純。彼はお腹が空いたのだ。こんな時間帯に空いているお店といえば一つ、コンビニエンスストアである。新美青年は実家近くのコンビニへ向かうため、わざわざまどろむ脳を起こし、重い足をあげたのだった。

 ――いや、実のところ彼の頭には眠気というものはあまり存在していなかった。ゼロといってもいいくらいだ。なぜならば、この時間帯こそが彼にとっての『昼』であるからだ。『夜』が『昼』。多くの方がご存じのように、これは大して珍しいことではない。芸能界に水商売、あるいは彼が今から向かうコンビニの店員も『夜が昼となる』職業の人たちであろう。

 だが新美青年はこのパターンではない。彼はついさっきまで自室でネットサーフィンをしていたのだから。今も彼のPCはうなりをあげ、主人の帰りを今か今かと待ち続けていることだろう。そう、世間は彼のような人間をNEETと呼ぶ。

「チッ。……あのババア、ちゃんと冷蔵庫に食えるもん置いとけよ。……んだよ塩辛って。……ブツブツ」

 彼は荒れた唇を舐め、そう呟いた。頬に浮かぶニキビがうずくけど寒いから手をポケットから出したくない、という至極どうでもいいジレンマに苛まれているうちに、コンビニへと到着した。

 そして約五分後、クシャクシャのコンビニ袋を握った新美青年は先ほどの道を引き返していた。彼は「やっとネットを再開できる」という安心感を味わっていた。さっきまで見ていたアニメの続きを見て感想掲示板を閲覧しよう、と。

 しかし、夜の闇は嫌でも青年の心に現実を突きつける。これから先に待つ暗い未来を。いや、闇だけではない。デコボコしたアスファルトの道さえも彼の行く末を暗示しているような気がする。

 家にいる両親は、もはや新美青年の将来を完全に諦めているといってもいい。唯一彼の弟だけはまだこの兄との付き合いを続けてはいるが、いずれ愛想を尽かされるのも時間の問題だろう。

「……っくしょう。……っんだよこんな人生。…………クソがあ」

 心の底から叫び出したい衝動に駆られたが、実際は覇気のないかすれ声が口から出ただけであった。

 ゆっくりと、重かった足取りが止まった。交差点にさしかかり、彼の前には赤信号が灯っている。彼は――よほど腹が減っていたのか――コンビニ袋から買ったばかりのコーヒーと菓子パンを取り出し、その場で食べ始めた。まずはコーヒーの缶で手を温め、次は首筋に当ててホッと一息をつく。

 と、その時。新美青年はある人物に気がついた。

 その人間は新美青年の前方、すなわち横断歩道の向こう側にいた。しかし、ただ『いた』だけではない。なんとソイツは新美青年の方を指さしてゲラゲラと笑っていたのだ。

 大爆笑。

 これを見た新美青年の反応は、当然ながら憤慨である。

(なんだアイツは? 人を指さしてあんなに笑うなんて、無礼どころじゃねえだろ)

 とりあえず新美青年は、アレはタチの悪い酔っ払いだと結論づけた。なら人目を気にする必要もねえだろと彼は思い、菓子パンの袋を開けて思い切りかぶりついた。

 クチャクチャと下品な音を立てて顎を動かす。向こう側のソイツはまだゲラゲラと笑っている。その態度にイラついた新美青年はソイツの顔を睨んだ。――別に大きい交差点ではない。夜でも目を凝らせば月と信号の明かりで相手の顔はうっすら見える。見えてしまう。

「っく……。っくっくっく。ぷ……はは。はははは……。はははは。っくぁっはっはっはっは! あっはっはっはっはっは! ……ひ、いひひひ! ぶふっ、あっくく。 へっひっひひ! あははははははははははは!」

 笑い声。

 狂ったようなこの声を発していたのは、指さして笑っていたあの人物ではなかった。まぎれもない新美青年自身であった。

(なんでだ? なんで俺は笑っている? 何がおかしい? ……分からん。だが何かがおかしい! なんで俺は笑っているんだ!?)

「ぶはははははは! ひゃひひひ! あっはっはっは! ……ヒーヒー。……んっくっくっくっく。なっはっはっはっはっは!」

 新美青年の心の声とは裏腹に、笑い声は止まらない。普段どおり静けさに包まれるはずだった深夜の交差点は、今この一時で異様な光景へと様変わりしていた。

(い、いったいアイツは誰なんだ? ……クソっ! 信号程度の明かりじゃあ判断できねえ。こんな安っぽい赤色じゃあ……)

 そう思ったとき、新美青年はある事実に気がついた。

(……赤信号! そうだ、俺が信号の前に来てから時間が経ったのに、信号の色が変わっていない!)

「がっはっはっは! ぷしししししし! ひゃはははっはっはっは!」

 ぐちゃぐちゃになった菓子パンのくずが口から飛ぶが、笑いは終わる気配を見せない。信号も変わる様子はない。新美青年の精神も焦りをピークに迎えていた。

(おかしい! これがどんな理屈なのかは知らねえが、早く終わらせないと俺はこのまま笑い死ぬ! ……ええい、赤信号なんざ知るか! きっと律儀に守った俺が馬鹿だったんだ。早く、ヤツの横をすり抜けて家へ……!)

 こうして、新美青年は赤色に照らされた横断歩道に足を踏み入れた。


       1


 N県S市A町。都会と田舎の中間である地方都市の一角。駅裏の路地をいくつか横切った場所に、そこはある。

 年季の入った灰色のビル。その三階部分の窓にはこう書かれていた。

 ≪百藻探偵事務所≫

 そしてビルの中、この事務所の扉の前に一人の少年が立っていた。中学か高校生くらいだろうか。水色のパーカーを着ている、素朴な後ろ姿の人物だった。少年はス~、ハ~、ス~、ハ~と深呼吸を繰り返してから、「……よしっ」と扉を叩いた。

「す、すみましぇん! こちらはヒ、百藻探偵事務所でしょうか!?」

 噛んだ。少年の顔はみるみる赤く染まっていく。

「はいよー。こちら百藻探偵事務所だよっと」

 言い間違えたにも関わらず、事務所の扉は何の問題もなく開いた。中から出てきたのは二十代くらいの若い女性だった。金髪のショートで、目元に深い隈が見える。

「ご依頼ッスか? それとも取り立てか何かッスか? 出来れば前者の方を希望したいとこッスね。もし後者の方なら今すぐ……」

「え、いや、僕は」

「今すぐ土下座せにゃならんのです。私が」

 と言って、土下座スタンバイを開始する女性。

「わー! 違います違います、そんな前かがみにならないでください!」

 電源の切れたロボットのようにピタッ、と女性は動きを止めた。

「……おかしい」

「はい?」

「おかしいおかしいおかしい。あの人なら簡単に許してくれないはずッスよ普通は。これはどういうことッスか。なぜだなぜだなにゆえだ。先月は土下座百回でやっと引きさがってくれたというのに。次は指でも詰められるんじゃないかと怯えていたのに。まさか改心ッスか? 大家さんが昨晩『フランダースの犬』とか『ああ無情』とかを読んで我ら貧乏人にわずかながらも同情の余地を恵んでくれたんスか? ――そうだ、きっとそうに違いない。でなければこんな易々とあの鬼女が……!」

 急にブツブツと早口で喋り出した女性を見て少年が抱いた感情は、単純に恐怖だった。

「す、すみませんお邪魔して! あ、ありがとうございましたー!」

 何に対する「すいません」なのか、誰に対する「ありがとう」なのか。それはよく分からなかったが、とにかく少年はこの場から逃げようと回れ右した。

「ちょいとちょいと、待ってよキミ」

 と、今度は事務所の奥の方から男性の声が聞こえてきた。少年は足を止めた。

 まだブツブツと言っている女性の肩にポン、と手が置かれ、そのまま女性は後ろに引っ張られる。

 入れ替わるように事務所からのっそり出てきたのは、身長一八〇センチはあろうかという男性だった。茶色のスーツに無精ひげ、年齢は若く見積もって三十前半というところか。

「悪いネ~うちの助手が。……ほら一子いちこちゃん、眼鏡眼鏡」

 男性は赤縁の眼鏡をポケットから取り出し、うしろにいる女性に渡した。女性は背伸びして少年を覗き、同時に「ハッ!」と息をのんだ。そしてシュルシュル~っと小さくなって男性の背中に隠れた。やっと事態を把握したらしい。

 少年は今の会話で、この男性が「百藻丞一ひゃくもしょういち」であり、女性はその助手なのだと理解した。

「俺はこの事務所の所長であり探偵の百藻丞一だ。今ブツブツ言ってたのは助手の日野一子ちゃん。……さあて、キミはどちら様かな?」

「に、新美健二です。S中学校の二年です」

「おお、俺の母校じゃないか。部活はやっているのかい?」

「え? あの、一応吹奏楽部に……」

「おお! ますます奇遇だ! かくいう俺も中学時代はパーカッションをやっていてネ!」

「ええと、今日の用件は……」

「ああ、そうだったそうだった。とりあえず中へどうぞ、お客様」

 健二はため息をついて(本当に信用できるのか?)と訝しげつつ事務所に入った。


 ソファに腰掛け、砂糖とミルクをたっぷり入れたコーヒーを一口すすり、健二は目の前の二人に向かって話を切り出した。

「百藻さん、まず最初に訊いておきたいんですが……この事務所は通常の捜査だけではなく、ちょっと特殊な捜査もしているというのは本当ですか?」

「特殊、というのは具体的にどういう種類かな?」

 百藻探偵は訊き返した。

「たとえば……ゆ、幽霊とか、妖怪とか」

「ずいぶん疑いのこもった声で言うネエ。ま、その通りなんだけども」

 あっさりと肯定した。健二は動揺したのか、コーヒーカップが揺れてテーブルクロスに染みを作った。

「あっ、す、すみません!」

「緊張しているんだネ。一子ちゃん、お掃除お願い」

 日野助手は無言のまま席を立ち、水道へ歩いていった。

「それで、どうしてキミはそのことを知っているのかな?」

「それは、同級生の宮山さんから聞いて……」

「宮山? ……聞いたことあるかい一子ちゃん?」

「先々月の事件の依頼者ですよ」

 日野助手が雑巾片手で答えた。それを見て健二は「手伝います」と言うが、手で制止させられてしまう。

「ああ、あの女の子か。『特徴』は覚えてたけど名前が頭から抜け落ちてたよ。そうか、キミは宮山さんと友達なのか」

「はい、まあ一応。……あの、『特徴』って何ですか?」

「こちらの話ッす。気にしないでください」

 日野助手がコーヒーを拭きながら言った。

「は、はい。ええと僕、以前宮山さんから事務所のことを聞いていたんです。その……僕たちは幼馴染でして、帰り道が偶然重なったときとかに」

「そんなこたぁどうでもいいッス……イタ!」

 百藻探偵が日野助手にチョップをかます。

「それで、今回の事件が起きた際にその話を思い出したんです。宮山さんの言った通り、本当にこの事務所は怪異的な依頼も受け付けてくれるんですか?」

「ああ。ちなみに学生証を提示してくれたら料金サービスしてあげられるよ」

 ガッシャーン!

 コーヒーカップが割れる音が大きく響き、健二の体はビクッ! と跳ね上がった。

 見ると、日野助手が悪鬼のごとき表情で百藻探偵をにらみつけている。気のせいか目元の隈がさっきより濃くなっているような気もする。

「先生ェ……何を血迷ってるんですか。こいつはカモッスよカモ! サービスなんてとんでもありません! ぼったくりッスよ、レッツぼったくり! 今稼がないでいつ稼ぐって言うんスか!」

「いや、どう考えても血迷ってるのはキミの方でしょ一子ちゃん……」

 ギラギラした視線が百藻探偵を襲う。

「一子ちゃん。ひょっとしてキミ、昨日徹夜したんじゃない? 目が充血しているヨ」

「え。マジッすか。でも全然眠くないッスよ。昨晩は事務所で栄養ドリンク片手にあちこちネットサーフィンしてたんで」

「だからそんなにギラギラしてるのか……。いいから早く休みなさい、掃除は俺がしとくから」

「ふぁ~い。あー、そう言われると急に眠気が襲ってきたッス。眠気の逆襲ですよ。ちょっと奥で仮眠しときますね~」

 そう言って、日野助手はフラついた足つきで奥の部屋へ入っていった。途中で「アレ? 私なんで怒ってたんだっけ?」という呟きが聞こえたが、健二は聞かなかったフリをした。百藻探偵は「すまないネエ」と言った。

 二人で協力してテーブルを拭き、割れたカップを片づけた後に、ようやく本題に入ることとなった。

「それじゃあ健二くん。キミの依頼を聞こうか」

「はい……」


 百藻さん。『笑いっぱなし交差点』ってご存じですか?

 ああ、そうですか。知らないですか。

 これはネット掲示板で最近出回ってる都市伝説なんですけど、僕の兄がこれに出くわしたんじゃないかと思っているんです。

 この幽霊……いや、幽霊なのかな? 妖怪? ううん何か違うな……。

 とにかく、この『笑いっぱなし交差点』って呼ばれている現象はですね、人間を轢き殺すんです。

 ――轢き殺すだけなら誰にもできるさ、って言いたい気持ちも分かりますけど、それは今から説明します。

 まず、交通事故に遭う直前に被害者が必ず笑うんですよ。それも大爆笑して。

 笑ったあとは赤信号のまま、トラックなどの重量車両が通るのに合わせて道路に飛び出す……。

 一人だけなら『狂い死に』で説明が付きますけど、これが近頃異常なほど多発しているらしいんです。……特にN県で。

 どうして詳しい情報が伝わっているのか、ですか。

 なんでも、轢かれてからも生きていた人たちやその知人などが、ネットに書き込んだのが始まりだそうです。

 それで兄の件も、目撃者によるとこの都市伝説そっくりの状況だってことが分かって……。

 百藻さん、いえ、百藻先生にこの事件の調査を依頼したいんです!


「いいだろう、引き受けよう」

 百藻探偵はあっさりと返事をした。

「ええと、いいんですか? こんなすぐに決めて」

「いいのいいの。ここの所長は俺なんだから。……それにオカルト関連じゃあ断るに断れないしネ」

「えっ?」

 そこで、急に百藻探偵が前に身を寄せた。影になった顔が健二を見下ろし、口を開く。

「だってホラ、俺が引き受けなかったせいで人が死んだら……後味悪いだろう?」

 冷たい声だった。ゾワリ、と健二の背中に鳥肌が立つ。(そ、それってつまり、僕が死ぬ可能性もあるってことか……?)と健二は思った。

 両者は黙り、空気が張り詰めていた。

「……」

「……」

「……」

「……プッ、ハハハハ!」

 それを破ったのは百藻探偵の笑い声だった。ドカっとソファに腰を下ろして言う。

「いやあ冗談だよ冗談。依頼者に危険を及ぼすわけないじゃないか! こう見えてもプロなんだぜ俺」

 健二は(プロだったらそんな口調で喋らないと思うんですけど)と言いたい気持ちをグッとこらえた。

「とりあえず電話番号と住所を聞かせてもらおうか。他にも色々と事務的なことをしないといけない。もうちょっとお付き合い願うヨ」

 依頼用の書類に記入したあと、健二と百藻探偵はスケジュールを確認しあった。そしてひとまずの期限は一週間と決まった。

 ――こうして依頼は正式に受領され、健二は事務所をあとにすることとなった。

 帰路についている最中、健二は百藻探偵に訊き忘れていたことを思い出していた。

「そういえば宮本さんが言ってたっけなあ、『気をつけて。あの人は「欠点探偵」だから』って。……あれって何だったんだろ」


       2


 翌日の朝。ボロボロの石油ストーブが事務所を温め、窓から見える景色は水滴でぼんやりとしか見えていなかった。

 百藻探偵と日野助手は、二人とも事務所に住んでいる。彼の実家は近くにあるのだが、親戚がこのビルの持ち主でもあるので融通が効くのだ。

「いやあ一週間後が楽しみだなア。この事件を通じて、誰の、どんな素晴らしい個性が見られるのか。ワクワクしすぎて眠れないヨ」

 百藻探偵はソファに寝転がって言った。この日も茶色のスーツを着ている。

「一子ちゃん、今説明したことが今回の依頼内容だから。いつも通りPCいじっといてね。カタカタッターンって」

 日野助手は寝ぼけ眼をこすりながら言った。この日はまだ寝巻姿のままだ。

「ていうか先生。私もその噂知ってますよ。『笑いっぱなし交差点』」

「なにィ! そういうことはもっと早く言っ……ああ、そうか」

 百藻探偵は、昨日の依頼の話のときに日野助手が寝ていたことを思い出した。

「とりあえず私は、都市伝説の被害と思われる事故を洗ってみるんで、先生はそっから共通点なりキーワードなり古代王家の紋章なりを導いてください」

「ああ、承った。ナスカの地上絵でもフリーメイソンの陰謀でもなんでも解き明かしてやるヨ」

 日野助手はパソコンの前に座った。百藻探偵はソファに転がった。パソコンが起動する音を聞きながら、日野助手は椅子から立ちあがって百藻探偵に近づいた。

「……って、まさか先生、安楽椅子探偵をきどる気じゃあないッすよね……?」

「いよっ! ファイトだ天才ハッカー一子ちゃん!」

 どこから取り出したのか、百藻探偵はメガホンを持って叫んでいる。

「セ・ン・セ・イは! その新美武夫の近辺について調べるんスよ!」

「えー、そんなの一子ちゃんがちゃちゃっと調べちゃえばいいじゃん」

「フィールドワークという言葉を知らないんですか! 知らないわけないでしょう、探偵のくせに!」

「うぅ……」

 ショボーン、とうなだれる百藻探偵。「寒いんだよなア……」と溜息をついて扉を開けたとき、ふと振り返って言った。

「そういえば一子ちゃん。『都市伝説の被害と思われる事故』って、単純に交通局のデータベースをハッキングしても分かんないでしょ。あんな膨大な件数から怪異の痕跡を探しだすのって、けっこう時間かかるんじゃない? 目安とはいえ期限延ばしてもらおうか?」

 それを聞いた日野助手は大きく背伸びをしてから答えた。

「……そいつは、この天才ハッカー一子ちゃんへの挑戦状と受け取っていいッすか」

 百藻探偵は無言でうなづく。

「三日。三日でこの『笑いっぱなし交差点』の被害状況を、一グラムたりとも逃さず調べつくしてやるッすよ!」

「……頼もしいネエ、まったく」


 N県S市B町――ここは事務所のある町のとなりに位置する。その一角にある新美家に、百藻探偵は訪れた。

「まいったな~。こういう普通の探偵っぽいことはなるべく避けたいんだが……まあ仕方ないか」

 ピンポーンと軽快な音が鳴り、ドアホンから「はい?」と声が聞こえた。中年の女性の声だった。

「すみません。わたくし百藻探偵事務所所長の百藻丞一と申します。先日はご子息の件、ご愁傷様でした。今回伺ったのは……」

「武夫のことですか?」

「はい。失礼とは承知しておりますが、武夫くんのことについて少々お尋ねしたいことがありまして……」

「話すことはありません!」

 急に大声を出されたので、百藻探偵は思わず半歩ほど後ろに下がってしまった。

「も、申し訳ありません! まだ感情に整理がつかないことは存じておりますが、ええと……その……」

 慌てて手をブンブンと振る百藻探偵。だが、ドアホンから聞こえた言葉は彼の予想からは外れていた。

「……やっといなくなってくれたんです」

「はい?」

「あなた探偵さんでしたっけ? なにか……『アイツ』が何か事件でも起こしたんですか? でしたら、それはすべて『アイツ』個人の責任です。私たち家族は関係ありません!」

「えー、『アイツ』とは武夫さんのことでしょうか?」

「他に誰がいると?」

 ドアホンから小さく舌打ちをした音が聞こえた。百藻探偵は腕組みをしてウームと唸り、そして小声で「実の息子を『アイツ』呼ばわりネエ……」と呟いた。

「とにかく、話すことはありません。ただの交通事故なんでしょう?」

「……そうですネ。単なる交通事故です」

「じゃあ帰ってください。私はこれから『アイツ』の部屋を片付けて、売れるものをリサイクルショップに持って行かないといけないんです」

 それを聞いた百藻探偵は短く「では」と言って、新美家から離れた。


 その後、百藻探偵は事故の目撃者――コンビニ店員の話を聞きに行った。日野助手が調べた情報によると、その人物はくたびれた初老の男性であり、昼間は自宅にいるとのことだった。

 だが、そこで得られた情報は「彼――ここではコンビニ店員――は、新美青年が釣銭を貰っていないことに気付いて慌てて追いかけたが、新美青年らしき笑い声が聞こえたあとにトラックが何かに衝突した音を聞いた。事故を確認した彼は店に戻って警察に連絡した」ということだけだった。


       3


 三日後の夜。探偵事務所にて。

 日野助手の前に並ぶ三台のコンピューターには数々の交通事故のデータが映し出されていた。事故現場の様子・被害者の顔写真・目撃者の証言etc……。

「どうッスか! これが恐らく『笑いっぱなし交差点』の仕業と思われる交通事故のデータッス!」

 日野助手は鼻息を荒くして自慢げに言った。

「へえ、こりゃ随分とあるもんだ。これ全部が怪異の仕業だっての? おっそろしいなア」

「もちろん、私の推測によるので確証は薄いですが」

「うーん……でも俺が見る限り、全部がそうだネ。よく調べてくれたよホントに」

 百藻探偵はパソコンの画面を舐めるように見ながらそう言った。

「えっ! 先生、なんでそんなことが分かるんスか!」

 日野助手は素っ頓狂な声をあげた。それに対し、百藻探偵は一言で返した。

「勘」


 それから、二人はここ数日の調査結果を報告し合った。日野助手の手に入れた情報量は百藻探偵のとは比べ物にならない程多く、百藻探偵は改めてこの助手の手腕に感心した。

「……ってことは、被害者は引きこもりになる以前から両親から毛嫌いされていたんですね」

 ここで言う被害者とは、言うまでもなく新美武夫のことである。

「ああ。健二君はいわゆる『優等生』でネ。よく比較されていたんだと。引きこもってからは親との関係も更に悪化したらしい」

「……だけど、その健二君自身は兄のことを慕っていた。新美武夫も、弟にだけは優しい面を見せていたんですね」

「だが、それも限界だったのかもしれないネエ……」

 百藻探偵は窓から外を眺め、唇を舌で濡らした。

「『優等生』の弟に、『劣等生』の兄か。……今回も面白いものが見れるといいなア」

「……先生。いやらしい顔になってますよ」

 おっといけない、と百藻探偵は右手で顔を覆った。

「私の報告はさっきしましたけど……先生はどう思いましたか?」

「う~ん。ぜんぶ『笑いながら車道に飛び出した』ってのは共通しているけど……それ以外の共通点が見当たらないんだよネエ」

 二人はハア、と溜息をついた。怪異絡みの被害者には何らかの共通点があるのが常であり、そこから怪異の正体を見極めることも少なくないのである。

「じ、じゃあ、『事故から生き残った被害者』が見たという『人影』については?」

「……それも分からない。目撃者のコンビニ店員も一人の笑い声しか聞いていなかったし、幻覚の類いだとは思うけど」

「でも、それってつまり、今回の怪異は幻覚を見せる種類だったってことじゃないですか!」

 日野助手は嬉しそうに言うが、百藻探偵は苦い顔のままだった。

「おいおい。幻覚を見せる怪異だけでいったいいくつ存在すると思っているんだい? それだけじゃ、とてもじゃないが絞りこめたとは言えないヨ」

「……そうなんですか」

 ハアア、と先ほどよりも深い溜息をつく二人。

「ま、期限まではまだ時間がある。一子ちゃん、一度鏡を見てきたほうがいい。酷い隈だよ」

「……そうですか。まあずっと徹夜でしたからね。……この頑張りを見てお給料を上げてもらえると嬉しいんスけど」

 日野助手は一気にくたびれた様子を見せ、洗面所に行く前にパソコンをシャットダウンしようとした。

「…………待った!」

 百藻探偵の言葉により、マウスを握ろうとしていた手は止まった。頭上に疑問符を一つ浮かべながら日野助手が振り返った。

「どうしたんスか。まだデータを見たいんなら、このままにしておきますけど」

「それもあるが……一子ちゃん、今キミはどこに向かおうとしていた?」

 ハア?? と日野助手の疑問符が二つに増えた。

「どこって、洗面所ッスよ。ホントはベッドに行きたいですけど、まだ仕事の話をしなきゃいけないんでしょ? あーあ面倒面倒」

 百藻探偵が「仕事熱心で何よりだ」言うと、日野助手は「金のためですから」と答えた。

「そこでキミは鏡を見て、自分の姿を確認しようとするつもりだった……違わないかい?」

「違わないですけど……」

 百藻探偵は顎に右手を軽く添えて言った。

「被害者の顔写真、もう一回見せてくれない? 一子ちゃん」

 日野助手はマウスを操作し、被害者たちの顔写真を言われた通りピックアップした。

 百藻探偵はそれらをじっくりと見つめ、最後の被害者――新美武夫の写真まで見たところで言った。

「……そういうことか」

「え? え? どういうことッスか?」

 日野助手の言葉を無視して、百藻探偵は机の引き出しからとある書類を取り出した。そして急いで時間を確認した。壁時計が差しているのは十一時四十五分であった。

「残念だけど一子ちゃん。キミは今日も眠れないみたいだ」

「え。もしかして、それっていやらしい意味……って、どこ行くんスか先生!」

 百藻探偵は黒のコートを着て外に出ようとしていた。日野助手も、部屋の隅に放り出していた白いコートを掴み、慌てて後を追いかけた。


      4


「げげげげげらげらげらげらげらげらげらげらげらげら! ヒヒヒげげげららららららららら! げはははははははははははは! ああああはははははははははは! ヒック。げげげががががががががががが!」


 ――…………。

 ――笑っている。

 ――笑われている。

 ――アイツは誰だ?

 ――笑っているのは誰だ?

 ――笑われているのは誰だ?

 ――赤信号。

 ――怖いくらいに赤い。

 ――この赤はいつ変わるんだ?

 ――ずっとこのまま?

 ――永遠?

 ――このまま、笑い続けるのか?

 ――このまま、笑われ続けるのか?

 ――それは それは 嫌だ。

 ――でも僕は 僕は

 ――笑われてもしょうがないじゃないか。

 ――だって僕は こんなにも こんなにも

 ――**なんだから。

 ――だから、しょうがない。

 ――笑うことしかできない、笑われ者。

 ――…………。


 一台のトラックが、通りを走っていた。

 交差点に、一人の少年が立っていた。

 二つの物体が、今、交わろうとしていた。

 一つは猛スピードで。

 もう一つは対岸をうつろに眺めながら。

 五〇メートル。

 四〇メートル。

 三〇メートル。

 二〇メートル。

 一〇メートル。

 衝突する間際の、瞬間。


「いや、死なれたら困るんだよねー、こっちとしては。ほら、うちの助手ってお金が目当てで生きてるとこあるからサ」


 声が聞こえた。その声は、けたたましい笑い声の中でも、何故だかハッキリと少年の耳に届いた。そして、同時に少年は道路の反対側に投げ出されていた。

「危ないとこだったネエ、新美健二くん」

 トラックはそのまま何事もなかったかのように通り過ぎ、信号は青になった。緑色の光がうっすらと、息切れした百藻探偵と倒れた少年――新美健二を照らしていた。

 健二は起き上がって辺りをキョロキョロと見回した。しかし、『先ほど自分を笑っていた人物』を見つけることは出来なかった。

「鏡の怪異」

 百藻探偵は言った。

「それがこの現象の正体だ」

 そのとき、カツン……カツン……と足音がした。健二はビクッと体を震わせて、音のする方角を見た。そこにいたのは、ヨロヨロと歩いてくる日野助手であった。

「せ、先生。今なんて言いました? 鏡の怪異?」

「そう。……一子ちゃん、キミはもう少し体も鍛えた方がいいんじゃない?」

「よ、余計なお世話です。私はインドア派ですから」

「あ、あの」

 状況が理解できていない健二は、二人の会話に割って入った。

「い、今! 誰かががいたんです! 誰かが僕を指さしてわ、笑っていたんです! あ、赤信号も終わらなくて。それでボ、ボボ僕は……!」

「落ち着け」

 百藻探偵は健二の肩を叩いた。そして深呼吸するよう促し、しばらくしてから健二に落ち着きが戻った。

「ここじゃ寒い。事務所に行こうか」

 百藻探偵は二人を連れて事務所まで引き返した。


 コポポポ、とストーブの上の薬缶が音を立てる。ソファには百藻探偵と日野助手が隣に座り、健二は二人に向かい合うように座っていた。机の上には、日野助手が淹れたコーヒーが置いてある。

「コイツは鏡の怪異の仕業だ。間違いないね」

 百藻探偵はコーヒーを一口すすり、そう断言した。

「キミが見た人影。あれは他ならぬキミ自身の姿なのさ」

「それは……僕が僕自身を指さして笑っていたというんですか?」

 百藻探偵は首を縦に振った。その無言の返答に健二と日野助手は反論した。

「で、でも! 僕が見た影は、向こうが先に笑い始めました!」

「そうッスね。私が調べた情報もそうでした。『影が急に笑い始めた』と」

「だが、それはあくまで主観でしかない」

 百藻探偵は静かに答えた。

「鏡の怪異って一口に言っても様々な種類がある。一番有名なのは『紫の鏡』だろうけど……今回のはそういう悪質なモンじゃあない。ぶっちゃけて言えば、あそこにあったのはただの鏡に近いものなのサ」

「ど、どうしてそれが分かるんですか?」

「プロの勘だ。あいつはおそらく低級の『つくも神』だろうな」

 それはあまりに論理性のない答えだったので、健二はこの探偵に対して少しだけ疑いを持った。

「もちろん、あの場にあったのが『ただの鏡』だったとは言わないヨ。あれは、人の心への影響が通常よりも少ゥしだけ強い鏡だ。もともと鏡というのは魔力を秘めやすいアイテムだからネ。ナルシシストが鏡を見た場合で例えよう。鏡は本来、その表面に『あるがままの姿』を映す道具だ。しかしこれを自己陶酔の激しい人間が使い続けると、鏡はいつしか『美化された自分』を映すための道具となり変わる。鏡は心を映すからネ。『あるがままを認めない心』は『あるがままの姿』を間接的に変化させる。今回も同様だ。ある感情を持った人間が使い続けた鏡が、勝手に一人歩きしたということさ」

「じゃあ、その持ち主を探し出せば解決するんじゃないんスか?」

「いや。あの鏡はすでに独立している。持ち主がどうなったところで関係ないだろう」

「そんな……」

 健二は顔を青白くしてうつむいた。表情からは不安がありありと見てとれる。

「そんな顔する必要はないヨ。言っただろう? 『今回のはそういう悪質なモンじゃあない』って」

 健二だけではなく、日野助手もその言葉の意味が分かっていないようだった。そんな二人を見て、百藻探偵は尋ねた。

「キミたち二人は、普段鏡を見る時にどんなことを考える?」

「え」「はい?」

 突然の質問に二人とも驚いたが、日野助手は三秒も数えないうちに答えを言った。

「私は特に何も考えませんよ。隈があるなーとか、髪伸びたなーとか、それくらいッス」

「キミも女の子なんだから、もう少し見出しなみに気を付けた方がいいと思うけどネエ……」

 百藻探偵は呆れて言った。それからチラリと健二を見た。健二は……まるで追い詰められた棋士のように必死さを隠そうとしていた。真冬にも関わらず額からは汗が浮き出ている。

「健二くんは、どう思う? 鏡に映る自分に」

「ボ……僕も、特にこれといって……」

「正直に」

 冷たい声だった。一拍おいてから、健二はそれが百藻探偵の声だったのだと理解した。

「僕は……嫌でした。鏡を見るのが。じ、自分のことが……

「嫌いだから」

 百藻探偵が声を重ねた。健二はだんだんと、この探偵に恐怖を抱きつつあった。この『欠点探偵』を健二の無意識が拒絶しようとしていた。

「鏡が自己陶酔を促進させる一方で、鏡は自己嫌悪をも進行させる。自己嫌悪がひどくなり、パニック症状を引き起こすことも珍しくない。その結果『体感時間が狂う』なんてよくある話サ。キミがいい例だヨ、新美健二くん。……いや、こういうべきだろうか。『キミ達兄弟がいい例だヨ』と」

「そ……んな。じゃあ……兄さんは……」

 健二はガタガタと歯を震わせて、かすれた声で言った。日野助手は心配そうな目でその様子を見ていた。

「そう、気付いたみたいだネ。キミの兄さんは『自分』を見て『自分』を笑って『自分』で勝手に轢かれたのさ。鏡があったから死にました、なんてのは言い訳にしかならないゼ。そんなのは『そこに小石があったから転びました』って言うことよりも言い訳がましい。あれは事故であると同時に自殺でもあったんだ」

「うう……。うううううう……」

「キミもそうだ。あの壊れたカセットテープみたいな笑い声は、キミが鏡を見るたびに上げていた自嘲の笑いなんだゼ? キミはしっかりと自分の欠点を理解しているのサ」

「先生。もうその辺にしといた方が……」

 日野助手の制止の声は、百藻探偵には届かなかった。

「俺は人の欠点が好きだ」

 それは豪勢な料理を見て舌舐めずりするような言い方だった。

「キミの欠点は何かな? 新美健二くん」

 そう尋ねた百藻探偵の顔は……笑顔だった。


       5


「こんにちは。自分嫌いの健二くん」

 翌日の正午。新美家の近所にある公園にて。日野助手と健二はベンチに座っていた。今日は平日であったが健二は学校を休んだ。とても平気で登校できる精神状態ではなかったからだ。……だが健二はこの時、気休めに学校に行った方がよかったなと思っていた。

 日野助手は健二から貰った報奨金(学生料金)を数えてから、今回の件の話をし出した

「あとから聞いたんスけどね、先生がピンときたのは被害者たちの顔だったんです」

「顔、ですか?」

「ええ。なんでも『数十人の被害者がいる中で、醜い顔の人間しかいないのはおかしい』と思ったらしく、そこで『自虐を助長する怪異→鏡の怪異』と閃いたと」

 本当に『勘』に頼る人なんだなあ、と健二は思った。だが、その勘が結果的に助けたので文句は言えなかった。

 日野助手は以前健二が書いた依頼書を取り出し、顔と写真を見比べて言った。

「うーん。ただでさえ醜いのに、写真になると更に不細工ですねー」

「さらっと酷いこと言わないでください」

 健二はそう言って、公園の周りの道路を見た。犬と散歩している老人や、庭の草木に水をやる主婦が確認できた。

「先生なら、今日は来ないッスよ」

 健二の考えていることを見透かしたように日野助手が言った。

「先生は依頼完遂のために、鏡の怪異の本体を叩きに行ってますから。……あ、でも心配は要らないッスよ」

「へえ。強いんですね、百藻さんは」

 健二は頭の中で、百藻探偵が手のひらからエネルギー波を出して化物と戦っている姿を想像した。

「いや、弱いッス」

「え?」

「今回の相手はただの鏡ッスから、余計なことを考えないで、石をぶつけて割ればいいらしいッス。先生みたいな精神の持ち主なら心配は要らないッスよ」

 健二の中で、さっきのイメージがガラガラと崩れ落ちる音がした。「ま、見つけるのにちょっとコツが必要ッスけどねー」と日野助手が言っていたが、健二はもうその話に興味はなかった。

「日野さん、その百藻さんのことなんですけど……あの人って何者なんですか?」

 健二は恐る恐るそう訊いた。

「変なこと訊くッスね。先生はただの人間ッス。……生物学的には、ですけど」

 日野助手は、後半の言葉だけをボソッと呟くようにして言った。

「うちの先生は霊気を操れるわけじゃないし、妖魔の生まれ変わりでもありません。ただちょっと……(ちょっとどころじゃないけど)変態なだけッス」

「ヘンタイ?」

 たしかに変わり者だと思ったが、婦女に暴行を働きそうな雰囲気はないかったけど……と健二は思った。

「ほら、昨日見たでしょう。健二くんの『欠点』を聞きだしたときの顔。先生は……他人の欠点を三度の飯よりも愛してるんスよ」

 ――俺は人の欠点が好きだ。

 その言葉と笑顔。あの一瞬だけ空気が凍ったのを思い出し、健二は身ぶるいした。

「ということは、あれですか。百藻さんは人の欠点を見つけて、人を見下すのが好きってことですか?」

「いいえ逆ッス。先生は欠点を『尊敬』しているんスよ」

「……? それは、どんな短所も使いようによっては長所になるっていう……」

「それも違うッス。先生は短所を短所として、欠点を欠点としたまま、それらを羨望の眼差しで見つめてるんスよ」

 欠点を尊敬する。そのことが健二には理解できなかった。日野助手の言葉もどこか他人事のように聞こえたので、彼女も本当は理解できていないのだと分かった。

「百藻さんは僕の欠点を……僕の『自分嫌い』を知ってどうしたかったのでしょうか?」

 そんな質問が、健二の口からひとりでに出た。健二自身も、なぜ自分がこんな質問をしたのか分からなかった。

「どうしたいもこうしたいもありません。ただの趣味ッスよ」

「そうでしょうか……? なんだか僕には、百藻さんが僕の欠点を『羨ましがった』ように見えたんです」

「羨ましがる……? アハハッ、先生に限ってそんなことありませんよお!」

 日野助手は笑う。下手な冗談でも聞いたかのようにヘラヘラと。

「ああ、そうそう。先生によると今回は学割プラス初回サービスってことで無料らしいッス。なんでも『面白い体験をさせてもらった』とか」

「そうですか。ありがとうございました」

「じゃ、伝えることは伝えたんで失礼しますね。今後もまた百藻探偵事務所をよろしくお願いしまッス」

日野助手はブツブツと何かを言いながら公園を去って行った。きっとお金のことで文句があったのだろう。

 彼女が去ったのを見届けてから、健二はゆっくりと過去を思い返した。優れていた自分と劣っていた兄。どちらも見た目は似ていたが、兄は虐げられ、自分はそれに対し何も出来なかった。兄という踏み台に乗って高みを目指そうとする自分に嫌気がさしたのはいつからだったか……。たぶんずっと前のころだ。小学校の高学年くらいだったはずだ。それ以前はいっしょに仲良くサッカーをしたり、歌を歌ったり、ゲームをしたりして……ああ、そういえば小学一年の遠足で歩けなくなった時に兄が助けてくれたっけ。五歳の誕生日ではたしか――――。

 いつの間にか、公園にいるのは健二一人だけになっていた。

 健二はずっと下を向いていて、落ちる涙を地面に染み込ませていた。



――欠点というものは素晴らしい。それが彼らのありのままを伝える、この世で一番素直で、面倒な特徴だからだ。


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